MBA留学日乗 2001年3月 | 前月へ | | ホームへ |
3月1日(木)
二日酔い。そして雨。
通常ホームページ上の日記などは、新しいものほど上にくるのがルールにようで、どのページを見てもそうなっているようである。しかし、このページは逆にしてみた。なんとなく、こちらの方がなじむ(僕だけか?)。読みにくいぞ、という方はご連絡ください。よって、月末になると、がーっっと下の方までスクロールしないといけないことになってしまう。ご勘弁を。
UCLAのNozawa Fellowship用のエッセーふたつをe-mailで送る。エッセー自体はなかなかよい出来だと思うのだが。
3月2日(金)
マフラーなしで丁度良い季節になってきた。
どうでもいいことだが、ここでの一人称をどうすべきかまだ決めていない。僕、小生、私、俺、小職、自分、それがし、拙者、、、、何かしっくりこないなあ。「どうでもいいこと」と書いたが、実はそれほどどうでもいいことではなく、一人称の使い方次第で印象はずいぶんと違う。その点英語はシンプルである。何でもかんでも男も女も「I」だ。実に日本語というものは奥が深い。
とりあえず、「僕」ということにしておこう。
3月3日(土) 伊東へ@
昼過ぎに東京駅へ。受験仲間とapplicationが一段落した打ち上げに、伊東へ一泊二日の温泉旅行に向かったのであった。
昨年の秋頃から、「全部終わったら温泉で騒ごう」というのが、ひとつのモチベーションになっていたようなところもあった。実に皆良い顔である。大阪からの参加Yさんも含め、総勢11名。「踊り子」でビールを飲みつつ伊東へ。「『踊り子』でビール」。素晴らしい言葉だ。
四時頃、伊東の貸し別荘へ到着し、早速買い出しをし、温泉につかり、鍋をつつき、部屋に備え付けのカラオケで盛り上がる。カラオケでは、ややはじけ過ぎたか、と反省。どういうわけだか、はっと気付くとパンツ一枚になっている男が僕のまわりに溢れており、驚く。どう考えても尋常な集団ではない。(どうやら僕が脱がせた、らしいが)。
このパンツ一枚の連中が半年後には世界じゅうの錚々たるTop B-Schoolへ散らばっていくのかと思うと、頼もしくもあり、また不安でもある。
3月4日(日) 伊東へA
激しい二日酔い。そして激しい雨。
朝風呂に入り、伊東駅へ。皆でボーリングをする。合間にやや吐く。ボーリングを終え、外へ出ると、雨は上がり快晴であった。
帰京は「踊り子」でなく、普通の快速列車。行きの「踊り子」とは一転して、お互いのエッセーをまわし読みしつつ、東京へ向かう。皆のエッセーはそれぞれ面白い。
夕方帰宅。一年超のMBA受験のひとつの区切りとなる、何か象徴的な、そして濃い旅行であった。
3月5日(月)
帰宅して、明日のカーネギーメロン大学の電話インタビューの準備をする。1人で質問を想定してしゃべってみるが、驚くほど英語がしゃべれない。随分退化したような気がするが、考えてみたらもともとこんなもんだったのかもしれん。何せ去年の今ごろはTOEFL500点だったのだから。
ML仲間とのメールで、温泉旅行での「失われた記憶」が補われていく。
3月6日(火) 電話インタビュー
会社を先月末で退職し日本IBMへ転職したY君が会社に遊びに来ていた。帰りに軽くビールを一杯。本当は、じっくり語りたいところであったが、電話インタビューがあるため、一杯で辞す。
夜23:45よりCMUの電話インタビュー。予想どおりの難しさ。やはり、相手の顔が見えない電話インタビューは辛い。何度も質問の内容を確認する。
3月7日(水) 15周年パーティーと抜き打ちインタビュー
会社の創立15周年パーティーとやらがホテルで夕方から開かれる。各UNITの役員がそれぞれ5分づつスピーチするという進行予定であったものの、最初の社長が予定を55分オーバーして一時間もしゃべったため、他の役員のスピーチはほとんどカット。しかも、その内容たるや、恐ろしくバランスを欠いたものだった。合併企業である当社で、合併した二社のうちの一社サイドについては、ほとんど何も触れなかったのだ。いや驚いたな、しかし。これまで数多くのスピーチを聞いてきたが、これほど時間をオーバーし、かつ中身のないスピーチは初めてであった。とにかく唖然とした。何かがあったのかもしれない。しかし、たとえ何があろうと、このような馬鹿げた行為をする正当な理由にはならない。明らかにこの人物には、「常識」というものが欠落している。「何かわけ」があって、あてつけとしてやったとしたら、成人式で騒ぐ連中並の行為であるし、何のわけもなくやったのだとしたら。。。それは、やばいだろ。あんた。
危うい。と、思った。言いようのない、危機感と、もどかしさを覚えた。
その後、会場でビールを飲み、酔っ払って帰宅。ソファでうとうとしていると、突然電話がかかってきた。「ミシガン・ビジネス・スクールですが、今から電話インタビューをしてもいいかしら?」そう言われて「嫌だ」ともいえまい。そのまま、抜き打ちの電話インタビューを受ける。一応、二日連続だったので、電話インタビューに対する戸惑いはなかったものの、そのかわり今日は寝起きというハンデがあった。やはりメロメロ。しかし、抜き打ちインタビューなんて初めて聞いたぞ。
3月8日(木)
どういうわけか仕事が多忙。残業終了後、六本木へ移動して飲む。
UCLAからNozawa FellowshipのInterviewのInvitationがくる。5名の最終候補者から1名を選ぶとのこと。私費の自分にとっては、年$20,000のこのFellowshipはやはり素晴らしく魅力的である。
3月9日(金)
今日はDuke大学の合格発表予定日である。が、何の連絡もなし。不合格者にもメールで連絡が来ることになっているのだが、それもなし。実はDukeには要求された財政証明書を出しておらず、それがネックになっているのかもしれない。
3月10日(土)
有楽町の日本外国特派員協会にてUCLAのNozawa Fellowshipのインタビューを受ける。インタビュアーは三名の元Fellow。インタビュー開始早々、「これは最初のアピールでpushすべきポイントを間違えた」と悟る。何となく違和感を覚えたままインタビューは終了。先方もきっと違和感を覚えたであろう。これでは落選の可能性大である。
インタビューというものの難しさを実感した一日であった。
3月11日(日)
快晴なり。散髪をする。
3月12日(月)
銀座「日比谷BAR」で行われたMBA友の会の定例会へ参加。初めてこの会に参加したのが、丁度一年ほど前であった。それ以降、この会を通じて実に多くの友人を得た。今日も何人かもユニークな人々と新たに話す。また、新たに受かった受験仲間の「おめでとう」乾杯をする。
終電で帰宅。
帰宅すると、Georgetown大学 (McDonough School of Business) より合格のPackageがDHLで届いていた。
3月13日(火)
大崎のイタリアンレストランで行われたTuckのパーティーに参加する。卒業生が何名か、Field Studyに日本に立ち寄った在校生が何名か、そして今年の合格者が14名。全19名の合格者のうち、多数が参加していた。
19:00から始まり、23:00前までひたすら立食。
四時間で実感したこと。やはりTuckはいい学校であること。合格者にも「人柄の良い」人間が多いこと。四時間立食しているとついつい椅子に座ってしまう我々日本人と違い、欧米人は実に「パーティー体力」があること。自分の英語力がないこと。
特に英語力の低さは深刻だ。渡米までに何とかせねば(なるのか?)。
帰宅するとIndiana大学 (Kelley School of Business)より合格のパッケージが国際郵便で届いていた。非常に魅力的な学校であり、素直に嬉しい。奨学金、ローンなどの関係もあって、単純にどこの学校、とはなかなか決められない。
3月14日(水)
渋谷のForum8で20:00から開かれた若手中小企業診断士の勉強会に参加する。独立開業を目指す20−30代の診断士が集まって、講師の話を聞き、情報交換をしよう、というものである。
半分興味本位もあったが、講義のあとの居酒屋での懇親会にも参加し、刺激を受ける。
3月15日(木)
Duke大学に「結果はどうなった?」とE-mailを送っていたところ、発表日よりほぼ1週間遅れで不合格のE-mailが届く。「あなたにとってこの結果が受け入れがたいものであることは重々承知してはいますが。。。」など、長文のかなり気を使ったE-mailである。いや、恐縮です。
3月16日(金)
Cornell大学のwebをチェックしたところ、「Waitlist」の文字。やはり、何となく縁薄い感じを覚えていたところには、それなりの結果である。
スプリング・ジョブで二週間同じ課で働いていた一橋の学生の送別会を、飯倉の焼肉屋で行う。韓国どぶろくのマッコリを飲み過ぎ、かなり酔う。帰宅したのはまだ11時前、そのままソファで寝てしまったらしい。
3月17日(土)
毎日何かしらを書くべきか、それとも何か書くべきことがあったときにだけ、コラム調のものを10日に1回なり1ヶ月に1回なり書いていくべきか。これまた悩むところであった。すでにもう毎日書くスタイルを採用してしまってはいるのだが。
当然毎日書いていると、どうでもいい内容も多くなる。一方、コラム調のものでは、「近況報告」という目的はやや弱くなる。
結果、やはり「粗製濫造」でいくことにした。
3月18日(日)
午後、家族三人で港北ニュータウンの東急百貨店へ買い物へ。
Yahoo! Geo Citiesへ当ホームページを登録する。あまりにもあっけなくできてしまい、何となく拍子抜け。5年前にはじめてインターネットを使ったときは、つなげるようになるまでに二週間も悪戦苦闘をしたのだが、素晴らしい進歩だ。
3月19日(月)
どうも花粉症になったらしい。一日鼻がむずむずし、目が痒い。病院でアレルギーの薬をもらってくる。
Whartonのon-line statusをチェックすると、「インタビューを受けろ」とのメッセージ。
3月20日(祝) 少年野球
休日。強風の中、子供を連れ、横浜市営地下鉄で一駅の岸根公園へ行く。大型滑り台をすべったり、芝生の上をぷらぷらと散歩。
公園の端に少年野球場があり、試合をしている。ついネット裏で試合を見学する。
そろいのジャンパーを着た監督・コーチらしき大人が一塁側チームには7−8人もおり、それぞれが厳しい指示を飛ばしている。
三塁側チームには監督が1人。
一塁側チームはグリップエンドをこぶしふたつほども余してバットを寝かせて持ち、ひたすら叩く。右打者は右へ。左打者は左へ。
一塁ランナーが盗塁すると、ウエストボールでも空振りでアシストする。無死走者なしでも、1球ごとに打席を外してベンチを見る。
「あごを上げるな。叩け」とか「ストライクゾーンを小さく絞っていけ」とかそのたびにジェスチャーで指示。ワンアウトランナー一塁で
三遊間にヒットを打ったバッターは「引っ張るんじゃねーよ!」と複数の大人から怒鳴られている。
かたや三塁側チームは、自由奔放。ぶんぶんバットを振りまくり、サインもほとんどなしである。
試合は、一塁側チームの圧勝であった。たかが小学生の野球である。
「小学生なんだからのびのびやらせるべきだ」というのは簡単である。
僕自身小学生の時は一塁側チームのような野球をやらされていた。(しかも間違った指導が多く、厄介だったが)。
しかし、僕は、がちがちの管理された野球でもやっぱり勝つ方が嬉しかった。
弱いチームの子供と道で会っても、何ともいえぬ誇らしさを覚えることができるからだ。
現在の僕のような第三者の大人が客観的にこの試合を見ると、一塁側チームの「管理野球」に眉をひそめ、三塁側チームの
「のびのび野球」に好感を覚えがちである。しかし実際には、子供たち自身が、一塁側チームのような野球を求めていることも多い。
問題は、「なぜ小学生は一塁側チームの野球を求めてしまうのか?」ということなんじゃないのか。
3月21日(水) 日銀ゼロ金利復活
かなり思いきった。しかし、宮澤財務大臣のコメント
「もうこれで日銀には後がない、ということの効果が大きいのではないか」
。。。。。そうなのか?その効果はポジティブなのか?
神田のイフ外語学院にて、Tuckの一年生江口さんによる、Informal
Sessionが開かれ、参加する。先日のパーティで会った合格者も
10名弱参加している。非常に参考になるプレゼンであった。
その後、合格者8名で、神田駅前で軽く飲む。皆、頭が良く、かつ人間的にも面白い。
江口さんはこのサイトの作者です。このサイトには受験プロセスを通じて非常にお世話になりました。今やMBA受験生でこのサイトを
知らない人はいないでしょうが、もしいたとしたら必見です。
3月22日(木) 日米首脳会談
どうやら風邪をひいたらしい。微熱がある。
森首相とブッシュ大統領の顔を見ていて気付いたことがある。2人とも微笑したときに口角が上がる、いわゆる「パタリロ顔」(あるい
は「ごまちゃん顔」)なのだ。一般にパタリロ顔の人間は「甘えんぼ」だと言われている(言っているのは僕だけかもしらんが)。
そういう意味では、甘えんぼ同士の首脳会談だったわけだ。
不良債権問題について、日本側は「半年」と言質を与えた。NMDにも理解を示した。一方、アメリカ側は、普天間基地の代替施設の
使用期限については、「そいつは難しいな」と答えた。もともと予定していた「減税・景気対策」と「えひめ丸に関する遺憾の意」を繰り
返しはしたけれど。
「意味ないじゃん」と方々から言われながらも、踏みきった甘えんぼ首脳会談。
やはり脱力感を感じたのは微熱のせいだろうか。
3月23日(金)
関節痛み、下痢も。会社を休み、一日眠る。
3月24日(土) 「まだまだひよっこ」という幻想
風邪のため何度もトイレにかけ込む一日。
日本オリンピック委員会(JOC)の八木祐四郎会長が再任することになった。
八木氏は71歳。JOCには「満70歳で理事定年」という内規があるが、今回のは特例措置ということだ。「今交替すると、大阪五輪の
招致活動に大打撃になる」からだそうだ。
これは「特例」でも何でもなく、今後定年を75歳に、80歳に伸ばす、あるいは定年制を廃止する一里塚という考えなのだろう。
20名のJOC理事・幹事の平均年齢は63歳超。次期改選時には定年となる68歳以上が5名もいる。
八木会長のコメント:
「社会の高齢化もあり、70歳定年が妥当かどうか。会長は誰もができるものではない。現状では60歳以降の方に限られる」
笑止。
71歳の彼から見れば、50代の人間などあまねく「ひよっこ」に見えるだろう。彼のまわりに存在する、彼が長年なじんできた人脈
の中では、50代の人間など実に頼りない存在に見えるだろう。しかし、残念ながらそんなものは幻想である。
いかなる組織でも、ある一定の年代・地位の人間にすべて即刻退場してもらい、その下の年代・地位の人間にすべて置き換えたと
しても、彼ら上の世代の期待するような混沌などはまずもって起こらない。粛々と(この言葉は嫌いだが)彼らの思う「ひよっこ」たち
によってものごとは立派に運営されるのだ。認めたくもあるまいが。
戦後の公職追放において、「大物」なき会社を運営した「三等重役」たちは、果たして会社を混乱に陥れたか?立派に運営し、戦後
復興に貢献したのではなかったか。
幕末の志士たちの多くは、藩の実権を握っていた大物たちから見れば、皆まだ20代〜30代の「ひよっこ」ではなかったか。
政界・財界・そしてスポーツ界(JOCをスポーツ界と呼んでいいかはともかく)。。。高齢化社会の進展に伴い、「老害」も進展しつつ
ある。益々のいやさか、である。
人の上にたつもの、自らの能力に矜持を持つのは大いに結構だが、一方でその下の世代の力は正確に把握しておきたいもので
ある。上下関係というバイアスを排除した真の力を見る「想像力」を持ちたいものだ。
先々、他山の石とせねば。
しかし、全然MBA留学には関係ない内容ばかりですね。少し反省。
3月25日(日) 風邪 怠惰な自分
咳は止まったが、ずっと寒気がしている。だいたい悪寒というものは、熱が上昇する過程で覚えるものだが、熱はずっと「微熱」
ゾーンにとどまっており、いっこうに上がる感じもない。何だか気持ちが悪い。
嫁さんと子供が週末実家に行っているのを良いことに、布団の中などでぐだぐだと寝たり本を読んだりテレビを見たりして過ごす。
基本的に自分はこうして怠惰に過ごしている時間が好きなのだ、と思い出す。時間が許せば本当に二十時間くらいは平気で眠る。
学生時代は、南の島で何もせずに暮らす方法はないものか、と本気で考えていた。理想としてイメージしていたのは、NHKの人形劇「プリンプリン物語」に出てきた「オサラムームー島」である。(島民はみんな腰ミノかなんかつけて「働くよりー寝ていた方がーいーいー」とかいつも歌っている島だ。)
しかし、だからといって、トンガやフィジーなどに実際に出かけて夢の実現のためのフィージビリティ調査をするでもなかった。だって、パスポートを取ったり、航空券やホテルの手配をしたりするのが、面倒臭かったから。
「どうしようもなく怠惰な自分」、これが嫌で、社会人になってから無理やりに勉強を始めたようなところがある。しかし、週末風邪をひいてベッドの中でうだうだしていると、この甘美な魅力に再びからめとられそうな不安を感じる。会社を辞めて借金までしてアメリカに行って、「怠惰な自分」が爆発的に復活してしまったらどうしよう、という馬鹿げた空想もしてみた。当然ながら、実に馬鹿げた結末になるはずである。
まあ、こんなくだらないことを考えるのも、悪寒のせいに違いない。
夜、熊本の祖父から「合格おめでとう」の電話。
「で、どこに受かったとか?」
「ダートマス大学とか」
「あー?、ポトマック?」
「いや、ダートマスいうてさ、東海岸のね。。。」
「あー。。。知らん」
日本人にはあまり知られていないようである。
3月26日(月) 久しぶりのTOEIC
会社で、一年ぶりにTOEICを受ける。
しばらくTOEFL・GMATからも遠ざかっていたので、プロ野球でいうとだいたい12月の花試合(出身地別東西対抗とか)くらいの調子だったのだが、それでも去年とは明らかに違っていた。リーディングで時間が15分余るなんて前代未聞である。
また、GMATの四時間コースに慣れたおかげで、以前あんなに長く感じたTOEICの二時間があっという間に感じた。これもMBA受験の副産物であった。
入社する前に内定者全員がTOEICを受けさせられたことがあったが、その時の点数は実に300点台半ばである。人事採用担当のDさんが、「英語。。。勉強しような。。」と切なそうな顔をしてスコア・リポートを返してくれたことを思いだす。
その頃に比べたら格段に進歩したとはいえ、しかし相変わらず低レベルであることに違いはない。ちなみに僕の昨年のTOEICスコアは755点。こんな奴クラスにはきっといるまい。
帰宅するとTuckのFinancial Aid Officeより封筒が。
奨学金のオファーはもらえなかったが、international向けのローンの案内だった。年$30,000×2年。おー、外国人学生向けのローンははなからやっていない学校が多い中(実はTuckもやっていないと聞いていた)、これでもありがたいぞ。で、金利は何%だ、と見てみると、何と「T-bill+4%」!学校側の資料の想定金利では9.65%!である。高利貸しか!あんた!
ああ、うらめしや米国の高金利。
日本の金利を低く押さえ、日米の金利差を広げ、米国債をがんがん買わせ、資金を米国に還流させる、けしからん!などと怒ってはいたものの、どこかで「まあマクロはともかく自分にはあまり関係ない話だわな」と思っていた。今回初めて実感した次第である。
円安もしかり。為替など、これまでほとんど興味もなかったのだが、ここのところ、ハラハラしながらブルームバーグを見ている。これから、円安がまだまだ進むであろうことは目に見えているのに、手元にドルに変える現金がない寂しさよ。
そんなわけで、資金調達の悩みは尽きないのであった。
3月27日(火)
帰宅すると、UCLAよりthin letterが届いている。3rd roundで出願しており、本来のnotification dateは5/24だったのだが、随分と気の早い結果通知である。どういうことだ?Fellowshipのからみで通常のevaluation自体を早めたのか。
会社で、ある人に「おい、ハッシー会社やめるんだって?」と聞かれる。また他にも、僕の上司のところに「ハッシー会社やめるらしいですね」と聞きにきた人がいるらしい。まだ会社ではほとんど話をしておらず、いったいどういう経路で広まっているのか謎であるが、いずれにせよ、何となくよろしくない。
どんなに早くても6月一杯までは目一杯働くつもりではいるのだが、この状況が拡大すると4、5、6月の三ヶ月、実に働きづらい状態に陥りそうである。すなわち、留学を前にした公然の「腰掛けリーマン(?)」的存在と見られてしまいそうだ。
実に人の口に戸は立てられぬもの也。
明日は朝から横浜にてUSCのインタビューである。
3月28日(水) USCインタビュー
夜中三時頃にようやくまどろんだ頃にUSCのアドミッションからの電話で起こされる。
「明日のインタビューだけど、ニューオータニイン横浜って言ってたのはニューオータニイン東京の間違いだったの。ごめんなさい」
「ニューオータニイン東京?ニューオータニじゃなくて?」
「そう、ニューオータニイン東京」
「住所と電話番号言ってみて」
「OK。チヨダク キオイチョウ。。。」
「ニューオータニやんけ、それ!」
ニューオータニイン東京とニューオータニは全然違うところにあるのだが、住所と電話番号の方を信じて、ニューオータニへ向かった
ところ、無事Admission DirectorのMr. Keith Vaughnに会えた。サミーソーサをだいぶ格好良くしたような黒人である。
インタビュー自体はきわめてオーソドックスな内容であり、リラックスした雰囲気で楽しむことができた。
最後に"Maybe, you'll receive a good news within two weeks."と言われたが、これは合格という意味なのだろうか。
今日から運行を開始した東横線の特急に乗って帰宅。渋谷から菊名までのあいだに自由が丘と武蔵小杉しか止まらず、きわめて
便利である。てゆーか、現在の急行は止まり過ぎだ。渋谷駅で、特急列車のまわりを100人以上のカメラを持った鉄道マニアが取り囲み、写真を撮りまくっていた。車両自体は各停と変らんのだけど。
3月29日(木) アメリカ京都議定書をついに離脱
夜、大崎で行われた若手診断士グループの集まりに参加する。「若手」といっても、診断士の世界では、40歳くらいまでは充分若手
で通用するのだった。この手の集まりでいつも感じるのは、おのれの経験のみですべてを語る、そして実質的にさまざまな会合を牛耳っているじいさん達に対する、「若手」の憤りだ。
薬害エイズ訴訟で無罪となった(まったくふざけた話だが)安部被告とその取り巻きに関する報道を読んでいると、医学会にも相通じ
るものを感じる。徒弟制度的なつながり・特定の老「先生」への権力集中・批判どころか疑問も許さぬ雰囲気。
医学会や診断士の世界のみならず、閉ざされた世界にあまねく見られる、いかにも日本的な悪しき体質なのであろう。おそらくは、JOCも極めて良く似た体質を持っているに違いない。
さて。
ついにアメリカが京都議定書からの離脱を明言した。ブッシュが政権を取った段階で予想されたこととはいえ、まったくすばらしいエゴである。「アメリカの経済に悪影響を及ぼす」とのことだ。「テキサスの石油メジャーに顔向けできない、とパパに怒られたから」と正直に言えばいいではないか。
アメリカは国家として見ると、時にどうしようもなく醜悪になる。日本は、アメリカに譲歩して批准を目指すべきではない。毅然と主張・要求をし、国際世論に訴えるべき。それでも受け入れられなければ、アメリカなんぞ抜きにして、発効させてやればいい。
こういう時こそ、日本の首相には即EUと連携してアメリカに飛び、プレゼンスを発揮してもらいたいものだが、まあ天地がひっくり返っても無理だろう。そもそも97年の地球温暖化防止京都会議の時から、橋本内閣の不信任案対応のために、環境庁長官が会議をほっぽって出ていこうとしたり、日本は恥をかきまくりだった。(しかも説得されて結局京都駅から引き返したりして恥の上塗りまでした)
排出権取引の是非でずっと議論していたけど、排出権もクソもなくなってしまった。どうなることやら。
3月30日(金) 阪神開幕戦
パ・リーグにつづき、いよいよセ・リーグも開幕した。我が愛するタイガースの開幕戦の相手は、にくき読売である。
が。。。。予想を上回る大敗であった。3−17って何ですか?
それにしても、彼我の実力差はどうにも覆いがたく、見ていて切なくなってくるほどであった。上原が150kmに迫るストレートで押しまくる一方で、我が虎チームは、星野・伊藤・川尻などが130km前半のストレートを少しでも早くみせようと、あの手この手でかわしにかかるのだが、いとも簡単にはじき返される。しかも、打球のスピードがタイガースの打者とは数段違うのだ。
読売のバッターのトスバッティングの打球スピードを計測する番組を見たが、皆160km台を出していた。おそらく、阪神の打者のそれ
は彼らより軒並み20〜30kmは遅いだろう。ただでさえ、小粒な打線から新庄・大豊が抜けた今年、いったいこれでどうせえっちゅうねん、と悲しくなるような戦力である。それでもファンはやめられないんだなあ。まあ、今年も一年間、頑張っていきましょう!
しかし、日本テレビのテレビ中継を見ていて腹立たしかったのは、「午後八時の男」とかいうわけの分からんコーナーである。八時に
なった瞬間に打席に立っているバッターを当てるというクイズで、八時直前になると画面の右上でジャビットがカウントダウンまでする
始末。そして、試合そっちのけで「ゲスト」のDa Pumpを、ハガキ抽選をするアナウンサーを、長時間映す映す。視聴率長期低落傾向の歯止めとして、考えたのだろうが、実に嘆かわしい。そんなことを考えるよりも、アナウンサーに野球を勉強してもらいたい。
まったくもって日本のスポーツジャーナリズムは腐りきっている。ジャニーズのジャリタレを呼んで、実態の伴わないW杯を大々的に盛り上げて、競技レベル自体を地に貶めたバレーボールと同じ撤を、プロ野球はまさに踏もうとしている。
腐ったテレビ中継、増えつづける人工芝と体育館野球、休日なのになぜかナイター。。。。こんなファン無視の腐りきった運営をつづけ
ていたら、心ある、良識ある、野球を愛するファンは、間違いなく日本のプロ野球から離れていくだろう。スワローズの石井一久、ライオンズの松坂・松井、バファローズの中村紀、読売の松井、カープの金本、このへんがメジャーに行ってしまったら、子どもでさえメジャーを見るだろう。
嫁さんが読んでいた中井貴恵の「ニューイングランド物語」というエッセーを読む。旦那さんがダートマス大学の大学院で研究して
いた際に、ニューハンプシャー州ハノーバーという小さな町で、一年半暮らした日々について書かれたものである。ハノーバーとは、まさにダートマス大学の地元の町なのであった。
いかにハノーバーが小さく、住みやすく、人々が温かく、魅力的な町であるか、ただそれだけを訴えた本である。しかし、彼女のハノー
バーに対する、あたかも恋人に対するかのようなくるおしい愛情が実に良く伝わってきた。
そうか、そこまでいい町かハノーバーとは、という感じである。いよいよ、住んでみたくなった。
今日の新聞を読むと、ドイツのシュレーダー首相はブッシュ大統領との会談で京都議定書の件を強く非難するらしい。一方、日本は、
川口順子環境庁長官のコメントはあったが、森首相のコメントは全然出てこない。
3月31日(土) 春の雪
もう明日は四月だというのに、部屋の中がしんしんと冷える。窓の外を見たら雪である。どうりで冷えるはずだ。
埼玉の実家のまわりの桜が見頃だというので、週末孫の顔を見せに泊りがけでいく予定であったが、母親が和室で転んで肋骨にひびが入ったらしく、埼玉行きは中止になった。孫の顔を見られなくなったということもさることながら、和室で転倒したくらいで骨にひびが入ったということにも母親はショックを受けている様子。
午前中不動産屋を呼んで、自宅マンションの査定をしてもらう。築三年であるが、約20%程度の下落。留学に先立ち、損を出しても自宅を売却して行くか、それとも二年間賃貸するのか、早急に決めねばならない。
ベストセラー「金持ち父さん貧乏父さん」を読む。少しくどいが、まあ言っていることはなるほど、というところもある。たしかに、金持ち
になりたいのであれば、著者を言うところは正論。しかしそれでも、どうにも生理的な反発が抑えがたい部分もまた多々あり。
司馬遼太郎が、「アメリカ素描」の中で、ハイテク以外のモノを作る機能を国外にどんどん流出させて、金融のみで儲ける国家になり
つつあるアメリカに対して「アメリカは大丈夫だろうか」「滅びるのではないか、という不安がつきまとった」と書いたのと通ずるような、
生理的な不快感を感じた。
しかし悔しいが、うなずかざるをえない部分もあったのもまた事実。
ベストセラーといえば、「チーズはどこへ消えた?」という本が売れに売れ、「社員研修のテキストに採用する会社、続出!」ということ
らしい。(帯にリストアップされた会社名の中には、我が社の名前も入っていたが。。。聞いたことないな)しかし、この本にはまったく
ピクリとも自分の感性は反応しなかった。どこかで、素晴らしい一章が出てくるのでは、と思いつつ読み進めて、そのまま何もないまま
終わってしまった。人はこの本のどこに何を見出したのだろう。