MBA留学日乗 20014     | 前月へ |    | ホームへ |


4月1日(日)  「日乗」

「日乗」とは何ぞ?「日常」の間違いではないのか?--というご質問を受けましたが、間違いではありません。永井荷風の「断腸亭日乗」にあやかってみたのですが、要は「日記」と同じことです。なぜ、普通に「日記」にしないのか。まあ、要はちょっと気取ってみたかっただけですね(笑)。

昨日と違い、多少は春らしい天気になったので、子どもを連れてプラプラと歩く。「ユニクロ」が我が地元新横浜にも出店したというので行ってみた。実は、恥ずかしながら、僕はまだ「ユニクロ」で買い物をしたことがない。今日は初ユニクロだったわけである。

買ったのは、デイバッグ2,900円也と靴下六足1,290円也。デイバッグの品質の良さに驚く。ちなみにすぐ隣の店舗で、ほぼ同じサイズのOutdoorのデイバッグが7,900円で売っていたが、品質的には同等かそれ以上に感じた。もちろん、「Outdoor」と「UNIQLO」では、ブランドバリューは現時点でかなり違うのだが。

しかし、価格と品質よりも驚いたのは、店員が実に良くトレーニングされていたことであった。入場制限するほどの客をてきぱきと、笑顔でさばいていく。ざっと20名は店員がいたが、全員実に良くトレーニングされていた。これはすごいことだ。

自分がカジュアル衣料品店チェーンを経営していて、店舗近隣に軒並みユニクロに出店されたらどうするだろう、と考えてみた。同様に中国に縫製工場を持つか、思いきり価格帯を上げて差別化するか、品揃えを特化するか。。。いずれにしても、マーケティング戦略の大幅転換は避けられなそうである。とりあえず、カジュアル衣料品チェーンを経営していなかった僥倖に感謝。

ユニクロといえば、セーフガードが最近話題になっている。タオル業界が中国を対象にセーフガードを申請し、さらに農産物関係も同じく中国を対象に申請を検討しているらしい。とりあえずタオルから入ってきたが、他の繊維にも広がっていき、最終的にはユニクロがターゲットになってこよう。しかし、対象の国はその都度指定するのだから、いたちごっこだと思うのだが。縫製工場を他国に移転し、また申請し、また移転し、いう繰り返しになるのではないか。で、その間根本的な国内産業の構造改革はまったく行われない。

個人としての弱者救済は非常に大事なことです。しかし、業界としての弱者救済を混同してはいかんのじゃないか。長期的に見ると、それは救済される側にとっても不幸なことでなのではないか、と。

以上、「日乗」について書くつもりが、気がついたら「ユニクロ」の話でした。


4月2日(月)  インタビューすっぽかされる

今日から新年度である。新聞には新年度から合併した会社の一面広告が載り、電車の中には一目で新入社員とわかるスーツ姿があふれ、テレビでは入社式の模様がニュースで伝えられていた。風物詩なり。

うちの職場にも新入社員が配属されてきた。組織が大幅に変更となり、ばたばたする中での入社となったが、彼の挨拶は非常に初々しく好感の持てるものだった。

入社式の時期にはどこからどう見ても新入社員と分かる彼らが、あっという間に他のサラリーマンたちの間に溶け込んでいく様は、まったく見事である。5月も後半ともなると、電車の中で「あ、新入社員だな」と分かるものなどほとんどいなくなる。スーツが体になじみ、ネクタイの締めかたもうまくなり、髪型もそれらしくなり、しゃべり方、考え方までがじわじわと学生の彼らとは変っていく。自分もかつて通ってきた道であるのに、常日頃はまったく忘れていることである。が、一年のこの時期だけは思い出してしまうのだった。

 

18:30からウォートンのAlumni Interviewをアークヒルズのスターバックスで受けることになっていたのだが、インタビュアーがなかなか現れない。結局、20:00前になっても登場せず、あきらめて帰宅した。まいった。いったいどうしたのであろうか。スターバックスの店の前で立っている一時間半の間に、何組もの新入社員集団が待ち合わせて、飲み屋へと向かっていた。社会人初日を終えての高揚を持ち寄って。

帰宅すると、Michiganより薄い封筒が届いていた。「Waitlist」である。


4月3日(火)

某大口取引先の人々とおやじ同士三対三の合コン(一般には接待というのか?)をする。うちの部長が役職定年でラインを外れることとなり、先方が一席もうけてくれたのだった。横浜西口モアーズ地下の「源九郎」。外から見た感じでは普通の飲み屋さんですが、実に魚がうまい。おすすめです。

二時間ほど楽しく飲み、語る。

昨日インタビューをすっぽかされたウォートンのAlumniからメールがあり、「忙しくばたばたしているうちに失念してしまいました。何とお詫びしてよいやら」とのこと。失念って。。。。いったいどういうスケジュール管理してまんねん、と思いつつも、率直なものいいに何となく好感も覚えてしまった。


4月4日(水)  幼児虐待の増加

渡米する前に歯の治療をしておかねば、と思い、憂鬱な気分を奮い立たせて昼休みに歯医者に行ったが、飛びこみでの治療は相当待たされると聞き、そのまま帰ってきた。何となくホッとする。実際には、虫歯は相当悪い状態にある。つめものが取れたのにそのままにしておいたら、その歯の半分近くが欠けてしまったのだ。

早く処理しなければならないのに痛みを伴う治療を先送りしている---まさに問題の先送りだ。これでは不良債権処理を先送りしてきた銀行の経営者を批判できないなあ。

 

今日は、朝から新聞の社会欄を読んで実に暗い気持ちになった。埼玉県杉戸町で起きた幼児虐待死事件である。毎日多くの記事を目にし、そのほとんどが実にネガティブな感情を呼び起こすものばかりであるが、なかんずく幼児虐待に関する記事を読むことほど陰鬱な気分になるものはない。

埼玉の事件では、三十一才の母親が、二才の男児が「ぬいぐるみのボタンをひきちぎって渡さなかったことに腹が立っ」て、「顔や腹を殴った上、畳の床にたたきつけ」脊髄損傷などで死亡させた。胸が苦しくなるような事件である。言葉がしゃべれないんだから、何か愉快でない気分の時は、いつだってボタンをひきちぎることくらいするだろうに。

まだ言語野の発達していない二歳の子どもは、突然の理不尽な攻撃を受けて、恐怖を言葉にすることもできず、ただとてつもなく大きな混乱と恐怖の中で短い一生を終えたのだろう。母親は我に返ったあと、もはや何回寝ても取り消すことのできない事実を一生背負って生きていくのだろう。夫は、いつもどおりの職場に突然かかってきた警察からの電話によって、最愛の子どもの死と、妻の逮捕と、朝家を出るときまではいつもどおりだった家庭の崩壊を、聞かされたことだろう。

通勤電車の中でそんなことを想像しながら、本当に暗澹たる気持ちになって出社した。

近頃、幼児虐待に関する事件が毎日のように新聞の社会欄で報道されている。確実にその件数は増加している。大家族から核家族になり、親子間の関係が濃密になり、逃げ場がなくなったことや、親を取り巻くストレスフルな環境、などなど色んな理由があるだろう。

しかし、こうも頻繁に同種のニュースを目にすると、立花隆が著書「文明の逆説」の「子殺しの未来学」の章で書いているような、「密度効果」による「人口調節」が働いてしまっているのではないか、とも思えてくる。生息密度が上がると、ストレス過剰になり、さまざまなかたちで表に現れてくる。「子殺し」も、生殖を伴わない「性倒錯者の増加」も、花粉症やシックハウス症候群などの「免疫異常」も、「密度効果」によるストレス過剰の産物である、と。「人口調節」による大量死を起こした動物は、皆ストレスにより副腎が何十%も肥大しているらしい。そしておそらくは人間も?

初めて読んだ時にぞっとしたことを覚えているが、しかし、だからといって、「大きな自然の摂理だからしようがない」と片付けるわけにはいかない。あまりに救いがなさすぎる。ストレスは緩和できるはずであるし、ちょっとしたことで、「畳に叩きつける」は「笑いながらボタンを取り上げる」に変えられたはずだ。

こんなかたちで人生を終わらされ、冥福などできないかもしれないが、すべての「虐待で殺された子供達」の冥福をお祈りします。


4月5日(木) 31回目の誕生日

三十一歳なのである。立派なおっさんである。

「絶対に若いうちにナニモノかになってやる」と、焦っていた頃、小説をひたすら書きまくり、文学賞に応募していた頃、「三十一歳」という年齢ははるかかなたの霞の向こう側にあった。僕は、十代最後の「文学界新人賞」の最終予選で落選した後、日本酒を一升以上痛飲し、記憶のない中でひどい怪我をするほどべろんべろんに酔っ払った。「若いうちにナニモノかになる」という根拠のない、しかし絶対的な命題からすれば、何も持たぬまま二十代に突入することはおよそ耐えられないことだった。

そして今、僕は三十一歳になった。今僕は、何も焦ってナニモノかになる必要はない、と感じている。「ナニモノ」とは果たして何のことを言っていたのか、とも感じている。これが進歩なのか後退なのかは、分からないけれど。

 

会社の同期皆が誕生日ランチをしてくれた。入社以来絶えることなくつづいてきたこの誕生日ランチも、僕にとって早9回目である。入社時6人の、その後嫁さんが産休に入るのとほぼ同時に中途入社してきたHちゃんを加え現在7人のこの同期は、家族のような存在である。それぞれの奥さん・彼女・子供を加え、この「家族」は今後もどんどん拡大していくだろう。おっと旦那や彼氏もね。一応「外資系」の当社にて、同期全員が入社9年目にもなって一人も退職していないのは、我々の代だけだったのだが、この誕生日ランチも僕に関しては今年が最後になるのであった。

 

夜、西早稲田の「源兵衛」にて、大学時代の同級生のツナオとM本と飲む。

ツナオは、早稲田を卒業後、武蔵野美大に再入学し、現在はインダストリアル・デザイナーをしている。M本は、一年留年したあと、山一証券に入社し、その後まったく行方が知れなくなっていた。同窓会サイト「ゆびとま」にて、たまたま名前を見つけて、7年ぶりに再会したM本は、山一自主廃業後の紆余曲折を経て、現在は香港で日本人向けの塾を起業し、50人の生徒を抱えているというアントレプレナーである。ツナオも通常の仕事に加え、デザインのコンペで睡眠時間を削って作品を作り、準グランプリを受けたという。卒業後、まったく異業種に進んだ彼らとさまざまな話をしながら、本当に刺激を受けた。「みんな頑張ってんな。俺も頑張らな」と素直に思った。

「源兵衛」のお母さんから、「奥さんと子供さんに」とお土産のしゅうまいをもらって帰る。ここのしゅうまいは絶品である。学生時代、ほとんど毎日のように入りびたり、ゲロを吐き、たまには暴れ、くだをまいたこの「源兵衛」のお父さん・お母さん・お兄ちゃんは、呼び名のとおり、これまたまさに家族のような存在であった。新宿のおかまバーにも連れていってもらった。卒業式の後、ただでお酒を浴びるほど飲ませてくれたのも忘れられぬ思い出である。渡米前にまた来ます。

M本との再会のきっかけとなったのは、このサイトです。なかなか驚きの再会があり、楽しいです。小学校時代のはなたれ小僧から、二十年の空白を経て、「今、ウェブ・デザイナーやってます」とか「半導体の開発してます」とか言われると、「時空の腸捻転」的なショックを受けます。まあ、僕も元はなたれ小僧として同じショックを与えているのかもしれませんが。一度お試しあれ。

なお、香港駐在の日本人で中学生の子息をお持ちの方(絶対見てないだろうけど)、M本の経営する「パンセ香港」を一度覗いてみてください。教育の質はどうだか知りませんが(笑)、香港の大手塾からM本が独立するときに生徒がごそっと移ったらしいので、きっと魅力があるのでしょう。


4月6日(金)  子供を連れて銀座へ

会社のフロアを自分の子供が走り回っている光景というのは、何とも言い表せない違和感と肩身の狭さを覚えさせる。

昼下がり、会議室での打合せを終えて、自分の部署のあるフロアに戻ると、見覚えのある子供がキャビネの鍵をがちゃがちゃやっていて、僕を見るなり、「あ、パパ!!」と叫んだ。遠くに見える笑う顔、苦虫をかみつぶした顔に向かって軽く「いや、すいません、ほんと」と会釈しながら、「はいはい、静かにね」と子供の頭をなでる。

二年間の育児休職をとっていた嫁さんは、僕の留学に伴い復職の予定を変更して会社を退社することになった。旧所属部署である人事部へ、その説明と打ち合わせをするために来社していたのだった。嫁さんが元上司と話している間にも、時々「あーっ!!」とかいう、およそオフィスにて聞こえるはずのない幼児の叫び声がフロア中にひびく。落ち着かないこと甚だしい。

 

夜は銀座で一日遅れの誕生日ディナーをする予定であった。しかし、案の定というか、レストランに入って椅子に座った瞬間に、子供が「いやー!まー!」とか騒ぎ出す。店は一応こじゃれたレストランバーである。カップルどもの白い視線が集中。しばらくあやしていたが、どうにもならず、とりあえず嫁さんと僕とで順番に子供を連れて店の外を散歩させることにした。

金曜日の夜、銀座。本来ならば二歳に満たぬ幼児などいるはずのない場所である。しかも連れているのはスーツ姿の男。このあまりのミスマッチぶりに、出勤途中のホステスさんとおぼしき女性たちから、「あらあら」「かわいーねー」「お嬢ちゃんいくつ?」とあちこちで声がかかる。これは悪くない。

しかし、結局散歩作戦は何ら効果がなく、ビールをひとくち飲んだだけでその店は退散し、カラオケボックスに行くことにした。「キティちゃんルーム」にて一時間半、軽く食事をし、歌なども歌う。しかし、「ここなら思う存分暴れてもいいぞ」というシチュエーションを与えてやったのに、子供はおとなしく椅子にちょこんと座っているのだった。

 

その後の電車がまた一苦労。日比谷線、東横線の車内で、座っているのも抱っこされるのも嫌がり、「いやー!!!あー!!」と騒ぎまくり。

「あらあら大変だねえ」と好意的:「ちっ!何でガキなんか連れて乗ってんだよ!」と睨みつける:「我関せず」でポーカーフェイス、の比率は、だいたい1:4:5てな感じある。思いのほか、世間の視線は子供に厳しい。休日の昼間の車内では、これがだいたい4.5:0.5:5くらいな感じだけど。

まあ、たしかにこんな時間に乗せてる我々が悪いんだけどね。と思いつつ、こっちをにらんでる性格悪そうなおっさん、姉ちゃんたちに一人一人メンチをきっていく。「何でしょうか?おっしゃりたいことでも?」と目で訴える。

しかし、銀座から菊名までの間の長いこと長いこと。新横浜までたどり着いた時は心底疲れきってしまった。ディナーのチャレンジは見事失敗。残業の十倍は疲れた。

幼い子供を連れての外出、というのがいかに大変か、身にしみた夜。まあ、いい経験であった。しかし、子供が生まれた女性の行動半径が一気に小さくなるのというのもむべなるかな、である。昼間のオフィス、こじゃれたレストランバー、夜の銀座、地下鉄の車内。。。「子供連れがいるはずのない場所」をはしごした一日。しかし、「子供連れがいるべき場所」というのは、実は極めて制限されているのだった。そして、ほとんどの母親はそこに押し込まれたままだ。

 

帰宅すると、Kelloggからの不合格通知レターがポストに入っていた。疲れ、さらに倍(笑)。エッセーの完成度が自分としてはかなり高い学校であり、なぜか合格しているものと決め付けていた。これで、全15校中過半の8校から結果が返ってきた。残るは7校である。正直、早く行く先を確定したい。


4月7日(土)  花見

雨の予報とはうってかわって、雲ひとつない快晴であった。

今日は昼から新宿御苑でMBA受験仲間との花見である。嫁さんと子供を連れて参加する。大人が9人、子供が2人。風が吹くたびに文字通りの桜吹雪がいっせいに舞う、ぽかぽか陽気の絶好の花見日和。

ピクニックシートを広げ、ビールを飲み、青い芝生の上に寝転んで、雲ひとつない青空を見上げる。青空を桜吹雪が横切っていく。気の置けない仲間たちと嫁さんが笑う声が聞こえる。。。。少しずつ眠りに引き込まれていく。。。この一瞬は、ちょっと上回るものを思いつかないほどの幸せな時間であった。たいがい、胸の上にダイブしてくる子供によって断ち切られたけど。

皆は、花見の後さらにボウリング大会、飲み会へと移動していったが、僕は家族づれであったため後ろ髪引かれる思いながら、花見だけで帰る。

 

土曜の昼間の電車。子供連れも多く、昨日とはまったく雰囲気の違う、おだやかな車内。子供も行きかえりの電車の中はすやすや眠っていた。

昨日みたいな時に限って、子供は騒ぐのだ。しかし、これは理由のないことなんじゃなく、やっぱり土日のリラックスした車内と、平日夜の無数のストレスを持ちこまれた車内との雰囲気の違いを子供なりに感じているからなのかもしれないな、などとぼんやり考えていた。

向かいに座った若者が持っている「東スポ」一面には、「イチロー初本塁打、四安打」の大見だし。


4月8日(日)

昼過ぎに不動産屋に自宅に来てもらい、マンション売却の件で再打ち合わせ。来週から新聞オリコミチラシを入れることになり、その価格を決定する。査定価格帯の上限レベルであり、現下の中古マンション市場からすると強気の値付け、ということになるのだろうが、こちらの財政事情としては、それでも譲歩できるギリギリのラインである。

何とか買い手が見つかりますよう。

 

夕方から八王子の嫁さんの実家へ電車で向かい、近くの京王プラザホテルにて食事。今月誕生日を迎える三人(僕を含む)の誕生日祝いディナーであった。子供はここでも騒ぐ。が、今日はまだ全部で8人の家族がいたため、興味を引く対象が多く、何とかごまかしごまかし最後まで乗りきれたという感じである。

帰りは、嫁さんの弟夫婦の車で新横浜まで送ってもらう。車のありがたみを実感。特に小さい子供などがいると尚更である。

しかし、昨夏に売却した車も、ほとんど駐車場・保険料などランニングコストを削減してMBA受験費用を捻出するために売却したようなものなのだった。実に申し訳ない限りである。


4月9日(月) 

自動車ディーラー向けのシステム開発のプロジェクトで、韓国人・シンガポール人と一日ミーティングをし、自分の英語力のなさを再確認。いや、まずいまずい。

 

帰宅すると、Yaleから薄っぺらい封筒が届いていた。「Wait List」であった。

嫁さんも最近ではすっかり「thin letter 慣れ」してきて、「この微妙な薄さはwait listだね」と当てる始末。(不合格は、通常レター1枚のみ、ウェイティングは2−3枚の紙が入っているので、「微妙な薄さ」なのです。)

これで9校目。出だしに三連勝したあと、三分と三敗である。

 

片平秀貴教授の「パワーブランドの本質」を読む。正直、「ブランドなど当るも八卦当らぬも八卦のもので、作ろうと思ってる作れるもんでもあるまい。学問といえるのやら」と考えていたが、この本はその点も冷静に捉えた上で、きわめて示唆に富むことが多く書かれていた。

「パワーブランドの本質」が書かれたのが1999年夏、それから二年弱しかたっていないのに、何か遠い昔の話のような気がする。この本に書かれたメルセデス・ベンツ・ブランドに関するストーリーが、である。

たしかに、僕が入社した当初、この本に書かれているような、強烈な自社ブランドに対する「求心力」が存在したのだ。(この本は日本法人の若手社員たちが持っている自社ブランドへの強烈な自負心についても触れている。)現在は、明らかにそれは拡散しつつある。

ひとつの企業の傘の下に複数のブランドのプラットフォームを持つことは、たしかに多くの企業で採用されているのだが、真のパワーブランドをそのスタイルで維持・高揚していくことは本当に可能なのだろうか。その意味で壮大な実験である。世界じゅうの何十万人の従業員とその家族の生活を巻きこんだ。


4月10日(火)  MBA 2003

広尾のバーで、Class of 2003のネットワーキングのためのパーティがあり、参加する。

僕は、今年入学し2003年に卒業する予定です。MBAでは(米国は学部でもそうなのかも)、卒業年を基準に"Calss of XXXX"と呼称するもんであるらしく、つまり僕はClass of 2003ということになります。今日のパーティーは、学校をまたいで「同期」としてのつながりを作っていきましょう、という趣旨のものであり、40名以上の「Class of 2003」たちが参加していました。

MBA受験生などというのは所詮狭い世界であり、結構皆どこかで見知った顔であったりする。予備校や、TOEFL・GMATの試験会場や、学校が日本で開くレセプションや、奨学金試験や、MBA Forumや、インタビュー会場や、MBA友の会や、等々である。「えっと、どこかでお会いしましたよね」そんな会話で始まることが多い。

それでも、やはり初対面の人というのは相当数おり、それらの人々とひたすら名刺を交換し、話をした。何人か、極めて魅力的な、かつ気の合いそうな人にも会った。早速、連絡を取ることにしよう。しかし、誰もが皆頭が切れそうに見える。「見える」だけかもしれないが。

 

気付いたら、食事はすっかり払底していた。終電で帰宅してから、食事をする。これがいかん、ちゅうねん。


4月11日(水)  壮行会ミーティング

MBA友の会で5月に行う大壮行会の幹事をやらせてもらっている。今日はその初回のミーティングが京橋の某社会議室にて行われたので、参加してきたのであった。

19:00からミーティングをし、終了後、京橋の飲み屋にて軽く皆で飲む。全然飲むつもりはなかったのだが、少し飲んでしまった。一応「二日酔い防止」の錠剤を飲んでおいてよかった、とホッとする。この二日酔い防止の錠剤は、日本ハムが開発した豚肉ペプチドの成分を抽出した「ペプコール」である。課に一瓶常備されており、上司以下、皆お世話になっている。「どうもペプコールを飲むと酔えない」「まったく効き目がない」という人もいますが、僕には実に良く効きます。体質によるようですが、二日酔いのひどい方、分かっていてもつい飲んでしまう方、一度試してみては?

今日の集まりも楽しい会であった。

 

東洋経済の「MBA100人が選んだベスト経営書」を読む。「これは面白そう」と思った本のページに付箋をつけていたら、ほとんど付箋だらけになってしまった。読まねば。

本との出会いはまさに一期一会であり、出会った時に少しでも「読みたい」と思ったものは全部買うべき、「今度来た時に、金のある時に買おう」などといっていては、結局その本との出会いを逃すことになる---これをモットーにしてきたつもりであった(立花隆が「ぼくはこんな本を読んできた」の中で同じような主旨のことを書いており、「うむ。おっしゃるとおり!」と思わず膝を叩いた)。「であった」と過去形なのは、MBA受験を始めてから、少し参考書類以外の本を買うのを控えていたからだ。しかし、これからはまた、モットーに立ち戻ることにしよう。

友人・知人の家に行って、本棚を覗くことは実に楽しいことです。その人の好きな作家、好きな小説、本について聞き、語る事は、もしかして何よりもその人のハートに触れることかもしれません。ご多分に漏れず、僕の本棚も思い入れの強い本たちで埋め尽くされています。そして、渡米を前にできるだけ荷物を減らす方針である僕のこの本たちは、遠からぬうちに何らかの形で処分される運命にあります。

午前二時、静まり返った部屋の中で、何とも複雑な気分をもって背表紙を撫でたりしているのであった。


4月12日(木)  Wharton Alumni Interview

前回すっぽかされてしまったWhartonのAlumni Interviewをアークヒルズのスターバックスにて無事受ける。

インタビュアーは、五歳上のClass of 99の男性。親切な方で、まさに喫茶店で先輩と将来のキャリア談義をしている、という感じで楽しめた。

しかし、インタビューの内容そのものよりも強く印象に残ったことは、フィラデルフィアの治安の悪さである。軽い気持ちで「治安ネタ」に話題を振ってみたところ、「ああ、私も一度駅のホームでホールドアップ(拳銃強盗)に遭ったことがありますよ」との回答に思わず固まる。さらに、「ちなみに私の日本人同期は全部で30人前後でしたが、私を含めて3人ホールドアップに遭ってますね」と追い討ち。ホールドアップ率10%。よく分からんけど、とりあえずすごい。

やはり、妻子を連れていく立場としては、そんなとこには住むわけにはいかんな、と受かってもいないのに偉そうに考えていたのだった。

 

これで、インタビューはすべて終了である。合計10校(アドミッション2校、グループ1校、電話2校、卒業生5校)のインタビューを受けたが、実に楽しかった。自分に対して興味津々の相手にひたすら自分のことをプレゼンする機会なんて、ありそうで実はなかなかないものである。

次はサマーインターンシップのインタビューだ。もう数ヶ月後の入学早々には始まるのである。


4月13日(金)  妻の退職と上司の送別会

会社の人事部マネージャーと嫁さんの退職について打ち合わせをする。育児休職中の社会保険料の返済義務などのからみで、やはりすぐにでも退職した方が良いとの結論に至った。慌しいが、4月15日付で嫁さんは退職することになった。週明けには退職だ。

急ぎ会社から自宅にその旨メールを送り、社内の電子掲示板に載る前に嫁さんの方から同期にだけはメールで退職の挨拶を送る。1993年4月から休職期間中も含めると丸8年勤めた会社を、ばたばたとあわただしく退職することになり、やはり嫁さんとしては、複雑な気持ちがあるようである。

来週の月曜日には社内じゅうにオープンになる。また色々と聞かれることだろう。

 

夜は、新入社員の歓迎会と3月末で役職定年となった前部長の送別会を六本木で行う。前部長には、推薦状も書いていただいたり、本当にお世話になった。直属の部長になってからは意識してプライベートでは距離を置いていたものの、他部署にいた時分には、自宅に遊びに行ったり夫婦揃ってお世話になった。

送別会の最後に嫌がる前部長を無理やり六本木の路上で胴上げする。

 

帰宅するとメールが山のように届いており、その中にMITからの不合格メールと、USCからの合格メールがあった。これで、全15校中、11校の結果が判明したことになる。残るはあと4校。

 

今日、MBA受験仲間のMLにこのホームページのことを流したところ、あっという間にアクセスカウンターが伸びていた。ひょいと覗いてアクセス数が増えていると素直に嬉しい。なるほど、HPを作るということは、これが楽しいのか、などと納得する。見てくれた皆さん、どうもありがとう。今後とも宜しくお願いします。


4月14日(土)

会社の同期の女性陣二名を自宅に招待する。

二人ともうちの娘が産まれた直後から知っているので、そこらじゅうを奇声を上げて走り回る娘の姿を見て感慨もひとしおの様子である。

退社・渡米もカミングアウトしたので、いろいろとつもる話をしよう、というつもりであったのだが、夕方からクイズ・ボードゲームの「トリビア」で盛り上がっているうちに、あっという間に終電の時間になってしまい、肝心の話をほとんどしないままに午後11時頃、お開きとなってしまった。

「トリビア」はお気に入りのボードゲームだったのだが、既に製造中止になって久しく、クイズの内容も1993年当時の風俗で時が止まってしまっている。
問 - 「ワイシャツの下のランニングが透けている中年男性のことを、OLたちは何と呼んでいるか?」
答 - 「月の輪おやじ」
どこで誰が使ってたんだ、そんな言葉。

土曜の昼下がりから深夜まで、実に楽しい時間であった。

 

自宅マンションを売りに出すチラシが、本日一斉にまかれ、我が家のポストにもそのチラシが入っていた。自分のポストに入った自分の家の売却のチラシ。なかなか複雑な思いである。早速レスポンスのあった夫婦が、明日我が家を見学に来ることとなった。

 

そういえば、午前中、UC Berkley (Haas)から不合格メールが届いていた。


4月15日(日)

午後、我が家のチラシを見た夫婦が家を見に来た。部屋をぐるっと見て、「きれいにお使いですね」「ああ、洗面所広いですね」などと一言コメントをたくさん残して帰っていった。その間わずか15分程度。丁度同年代くらいの夫婦である。まだ子供はいないが、マンション一階にある託児所の存在が気に入ったポイントであるという。

我々がこのマンションを購入した際のポイントもやはりそこであった。結局一時預かり以外は利用しないままに終わってしまったのだが、以外とそういった付加価値は馬鹿にならないものなのだ。

若夫婦の一言コメントからは、真意はとてもはかり知れず。あとは待つしかない。


4月16日(月)

嫁さんの退職届けを人事部に提出する。僕より一足早めに4月15日付の退職。ご苦労さん。とりあえず、社内向けの電子掲示板への掲示は5月1日ということに相なった。

 

銀座で行われたMBA友の会の定例会に参加する。初めて参加してからちょうど一年である。今日も、顔なじみの人々、初めて会う人々、とさまざまな話をし、刺激を受ける。当たり前のことだが、同じ会社内の人々とする話とはさまざまな意味でまったく違う。同じ「現在の仕事」や「将来のキャリア」について話をするにしても、やはり格段に幅がある。どちらが良いとか悪いとかでなく、それは単なる「違い」である。そして、その単なる「違い」に触れているということがけっこう大事なのかもしれんなあ、と今日ある人と話していて思わされた。

この会に限らず、終業後何らかの会合に出席するというのは、やや気の重いものである。もしかすると、他の人はそんなことは感じてもいないのかもしれないが、根が怠惰な僕にとってはどうも少し気が重かったりする。どうせなら、家に帰ってテレビで野球でも見ていた方が、あるいは残業でもして仕事を片付けていた方がそれは気は楽である。もちろんそれは、「気が重い」という言葉ではっきり認識できないほどの、微妙な感情であるけれど。

しかし、実際に参加した後は、時間が過ぎるのも忘れて様々な人と飲み、語り、刺激を受け、必ず何がしかの高揚とともに帰宅することになるのだった。今日もそうであったように。

うーむ。

これは何かを象徴しているかもしれない。


4月17日(火)   MBAを「取る」ということ

やはりじわりじわりと退職の件が社内に広がっているらしく、また今日も「やめるんですか?MBAなんでしょ?」と聞かれる。

それはまあいいのだが。

「あいつもMBAなんか取ったってしょうがねえのにな。」と何某さんが言っていたよ、と耳に入れてくれる人がいた。うーん。

しかし、やはり「MBAを取る=外資・コンサルの華やかなイメージに憧れるミーハーな奴」というステレオタイプな発想の人は結構多いらしく、僕に関することでなくとも、一般論としてそのような物言いは時々耳にする。そういう人々にとっては、「そんなもん取ってもしょうがねえのに」ということになるのであろう。

また、「MBA」と聞くだけで、なぜか無条件に批判的になる人も時々いる。このような人は、MBAには批判的であるのに、まるでMBAのすべてを知り尽くしているかのように語る。たいがい、そういう人の批判の根拠は、「元同僚」や「友人」の話であったり、「戦略コンサルファームの無能なコンサルタント」であったりするのだが。

「MBAという学位を得ること」などは、「二年間のB-School生活で得られること」と比べると、相対的にまったく重要性は低い、と少なくとも今の僕は考えている。一方、MBAに批判的な人は概して、「連中はMBAという称号を得るために留学するのだ」と考えているように思える。これは、大きな認識の隔たりだ。二年後の僕が今と同じように感じているはずとは、100%言いきれないが。

いずれにせよ、少し残念なことではあった。

 

某衆議院議員のマスコミ批判の発言が、極めて非倫理的な発言であるとマスコミに叩かれている。決してヒューマニストを気取って彼を糾弾するつもりもないし、「人道ファッショ」「倫理ファッショ」とでも呼ぶべき一部の報道には辟易してもいるのだが、まあ、しかし呆れたお方だ。

こういうことを言うといったいどうなるか、少し想像力を働かせれば分かりそうなものだが。「想像力の欠如」は、日本のさまざまな問題の底に共通して沈殿している大きな問題だ。


4月18日(水)  子供の学習能力  大人の学習意欲

子供と接していると、その学習スピードの速さに本当に驚かされる。つい一ヶ月前までは単語の羅列でしかしゃべれなかったものが、気がつくときちんと文章のかたちで会話をしていたりするのだから。こちとら、一ヶ月で習得した内容なんて、実に限られているというのに。

今日、まだ二歳にならぬ娘がCDに合わせてMISIAの「Everything」を歌っているのには驚かされた。アメリカに行ってもきっとこの調子で、あっという間に英語を覚えてしまうのだろうなあ。なんか悔しいぞ。明石康氏が、子供に「パパの英語発音が変!」と言われた話を書いていたが、そう言われる日も近いか。よく、保母さんや幼児教育者等、多くの子供に接する職業の人々が「子供の可能性は無限です」などと発言しているのを聞くが、毎日何人もの子供のこんなすさまじい学習速度を見せられたらそのような境地に至るのも分かる気がする。

年を取るとどうしても学習効率は落ちる。家電メーカー等が工場の人員を整理する際に余剰人員全員にSE転向教育を施したとしても、28歳を超えると、急激にSEとして「使える」ようになる割合は下がるという。かくいう僕も、「三十過ぎるとGMATの学習効果もなかなか厳しいよなあ」、などと仲間うちで言ったりしていた。そういえば、僕が入社した時の上司(転職されて連絡がつかなくなってしまったが)に、「君はいいなあ。一ヶ月前の君とはもう知識量が全然違うよ。僕の年齢だともう過去の蓄積を食いつぶすしかないからねえ」と、しみじみ言われたことがあった。今思えば、その上司もその時まだ40歳になったばかりだったのだが。

年をとれば学習効率が落ちるのはどうしようもないが、それでもまだ学ぼうとするか、あきらめて過去の蓄積を食いつぶすか、でやはり大きな違いが出てくる。経済的な違いでなく、人間としての「魅力」というべき違いが。あ、これは決して「チーズはどこへ消えた?」的な意味合いで言っているのではない。あれはどこまでもアングロサクソン的な経済性に重きを置く価値観であって、「学び」には当てはまらない。

先日、今年90歳になる祖父から「Eメール始めました。宜しく」と、メールが届いたのには、心底驚いた。以前、還暦をゆうに越えた父から、PowerPointで新規ビジネスのプレゼンを見せられた時も驚いたが、祖父のメールはその百倍は驚いた。祖父みたいに新しいことにチャレンジしつづけることは、明らかに経済的メリットなぞではなく、人間としての輝きを生んでいると思う。じじいになったら、こうありたいものだ。

スキーのジャンプ競技は、まるで空を飛んでいるように見える。特にフライング・ヒルなんかになると、空気を切り裂いてどこまでも飛んでいくかのようだ。しかし、もちろん単に落下しているだけだ。「物体が落下する時は、だいたいこの程度のスピードで落ちていくはず」という我々人間の常識をずっと下まわるスピードで落ちているために飛んでいるように見えるだけで、「鷹の常識」で見たら「思いっきり落ちとるやんけ、おい!」ということになるであろう。

人の学習能力は年をとると「落下」していくのはしようがない。しかし、それでも前向きに何かを学ぼうとする人々は、過去の蓄積を食いつぶそうとしているあまたの人々に比べると、空を飛ぶジャンプ選手のように見える。落ちていくおっさんより、飛んでいるジャンプ選手のほうが魅力的なのはいうまでもない。うん、やはりそうありたい。

なあんて、脈略もないことを、娘の「ほにゃほにゃMISIA」を聴きながら考えていた。

 

台湾の李登輝前総統のビザ発給問題で、我が日本政府はまたも煮えきらない態度に終始している。「倉敷での病気加療」という大義名分まであるのに、何を迷う必要があるのか。陰に陽に、それこそさまざまな筋から圧力がかかっているのは容易に想像できるが、煮えきらない態度を取っているから圧力をかける隙も生まれるのだ。病気がどの程度のものなのか、そんなものは放っておいて、「人命重視のため、何をおいても我が国はビザを発給する」と、即座に通告すれば良かったのだ。「大使召還?なにゆえ?わが国には世界一流の医療設備があり、かたや医療を求める人がいる。それに対してビザを発給するのは、人道的に当然のことではないか」と本音はともかく、堂々と言いきれば良かったのだ。

あげくの果ては、ぐずぐずしているうちに、李登輝前総統からも「日本は嘘つき」「弱虫」「蟻の心臓」とまで罵倒される始末。国辱もいいところである。ちょっとニュース画像を見ていて、こぶしがぷるぷるきた。こう言われたら、逆に断固として強く抗議して、最低でも「強い遺憾の意」(これもどうかと思うが)くらいは外交ルートから表明すべきだろう。本来謝罪を要求してしかるべきだ。罵倒されて、なんとなく弱腰になって、きちんと抗議もできぬままにビザを発給する、なんてことになったら最悪のシナリオである。頼むよ。それだけはやめてくれ。

留学先ではこういうニュースがあるたびに、我が国を擁護する論陣をつたない英語で張らねばならぬのか?英語やらなきゃ。


4月19日(木)  首相公選制

水道橋の文京シビックホールで開かれた、東京青年会議所の首相公選制フォーラムに参加する。中曽根元首相の講演につづいて、舛添要一、田中康夫、田原総一郎、山本一太各氏によるパネルディスカッション。脱線に次ぐ脱線であったが、非常に面白かった。

興味深かったのは、マスコミで「閉塞感」という単語が高い頻度で使われる現在と昭和十年頃との共通点に関する話題であった。当時、閉塞感を打ち破る「ロマン」として満州に国民の興味が向かったように、現在もまた閉塞感を打ち破るものを国民は探しているのではないか、という指摘だ。それが、ナショナリズムの台頭や、新たな原理主義的テロリズムの台頭などであっても不思議じゃないぞ、というのはよくなされる指摘であるが、そのとおりだと思う。

ここのところ、同時多発的に首相公選に関する運動が各地で起こっている。大きなうねりとなりそうなムードも感じられる。しかし、皮肉な話だが今政策実行力のある首相が登場することは、首相公選に向けたこうした動きを押しとどめる方向に働いてしまうのかもしれない。実に皮肉なり。

 

先日受験したTOEICのスコアが返ってきた。実に、驚きの結果であった。昨年受験時より160点UPの915点。一瞬目を疑った。上司のIさんには、「受験者の取り違えじゃないの?」などとからかわれる。

TOEFL向けのテスト勉強でテストスキルは向上したとは思うが、それにしても。こんなに話せないのにこのスコアとは、いかにTOEFLやTOEICといったテストのスコアが英語の実力を正しく反映していないか、ということを再確認したのだった。


4月20日(金)   サザエさん通り

桜新町の「サザエさん通り」の近くにあるディーラーへ、販売店向けシステム開発の件で出かける。

このディーラーには三階に「開かずの間」があるという。以前のビルのオーナーがその部屋で首を吊って死んだために、「夜中に声が聞こえる」だの何だのという噂があり、誰も近づきたがらないとか。早速案内してもらったが、たしかに薄気味悪い。その部屋につづく階段がもうゴミだらけで何ともいえぬ雰囲気を醸し出している。その手の話は信じない僕も、「どうぞ入ってきてください」という言葉に思わず、「や、やめときます」と即答してしまった。びびったの巻。

途中、ディーラー近くのセブン・イレブンへ飲み物を買いにいったところ、入り口ドアに「三河屋」の文字が。「サザエさん」でサブちゃんが注文を取りに来る店と同じ名前ではないか。「サザエさん通りで三河屋とは出来すぎですね」と後でディーラーの人に話すと、「あ、あれがサザエさんの三河屋のモデルなんですよ」とのこと。つい一年前まで酒屋として営業していたものの、経営が苦しくなり、他の多くの酒屋さんと同様にコンビニに業態転換したという。

そういえば、カウンターの中でごましお頭の親爺がおでんをつついていたが、もしかしてあれが「サブちゃん」なのでは。。。。

 

夜は六本木へ戻り、会社の新入社員歓迎会に出席。今日は、他にもお世話になった予備校のCelebration Partyもあり、また他にも是非参加したい集まりもあったため、どこに出席しようか迷いに迷う。結局、「もうすぐやめるのに会社にちゃんと恩返ししてないよな」という訳のわからぬ理由でこちらに参加することにした。飲み会に出ることがいったい何で恩返しにつながるのか、まったくもって不明であるが。

二次会のカラオケへの思いを、「せなで断ち切り」帰宅する。


4月21日(土)  野球すっぽかされる

冬のような寒さ、しかもそぼ降る雨の中、会社の野球部の試合、港区野球大会一回戦のために三郷まで出かける。しかし、試合開始予定時刻の午後二時になっても相手チームは現れず、一回戦は不戦勝となった。

結局、空いたグラウンドを使って、小雨の中、久々の練習をした。あまりのナマりぶりにちょっとショックを受ける。まともに投げられないわ、ゴロはお手玉するわ、フライはまったく感覚がずれてるわ、打球はまともに飛ばないわ。日頃の運動不足もさることながら、いわゆる「野球センス」というものが、ほとんど枯渇してしまったようだ。センスってそういうもんなのか?

内容はともかく、体を動かすのは気持ちいいことではある。

正味一時間半のプレーのために、午前9時半に家を出て、渋滞を抜けて帰宅したのは午後6時。こうしたちょっとした環境の違いも、我々日本人が「生活の豊かさ」を実感できないひとつの要因だよなあ。

 

本日二万枚もまいたマンションのチラシに対するレスポンスはなし。見とおしはなかなか厳しく、価格引き下げも検討せねばならなそうである。


4月22日(日)  大道芸

家族三人で横浜の「野毛大道芸」を見に行く。野毛商店街会場はものすごい人出で、人垣の隙間からようやくパフォーマーの頭が見える程度。お祭りの楽しさは満喫できたが、とても芸を楽しむ、という状況ではなかった。その後移動したみなとみらい会場ではさすがにスペースが充分とってあり、芸を堪能できた。外国人ジャグラーの芸に、娘も大喜びで拍手しまくっていた。全然意味分かってないだろうけど。また、二年前に日本に来たというアメリカ人青年が日本語で歌った尾崎豊の「I Love You」と松任谷由実の「あの日に帰りたい」は、そのミスマッチ感もさりながら、歌の合間のつたない日本語のトークもあって、なんだか胸にじんと来るものがあった。遠い異国でいろいろあったんだろうな。

それにしても、いくら超広域型とはいえ、商店街主催のイベントを二十数年の努力でここまで育てたというのは、他の商店街も参考にすべき素晴らしい事例といえるだろう。大したものだ。

 

夜は自宅の売却や、資金調達の件で、嫁さんと長い長い二人鳩首会談である。やはり自宅は賃貸にせざるをえないか。頭が痛い。自分のわがままで、ここまで気苦労をかけることに本当にすまない気持ちと、その分何としても将来楽させてやる、という気持ちで一杯である。まずは資金を確保しないことには、始まらない。


4月23日(月)  「癒し」マイブーム

今日も資金調達に頭を悩ます。夕食後、ネットで調べた教育ローン・住宅借換ローン関連のさまざまな資料を前に嫁さんと二人で検討する。娘は、それを尻目にソファですやすやと眠っているのであった。

とりあえず、深刻な顔をして「うーん。。。」と悩んでいても、娘の寝顔を見ると「ヒーリング」効果で落ち着くというか癒されるというか、そんな気持ちにはなるもんである。偉大なり、父性愛。(一方で、店の中などでぎゃーぎゃー暴れられる時は、まさに悪魔に見えることもあるが。)

 

ヒーリングといえば、僕は犬が好きである。とりわけポメラニアンが大好きである。あのもこもこふわふわした毛の感じなどは、もうたまらない。ポメの子犬なんていったら、もう極めつけである。ぎゅぎゅーっとするだけで、癒されるというもんだ。

かつては実家でポメラニアン「ポンタ(どうもこの名はポメに多いらしい)」を飼っていたが、今は残念ながら飼っていない。よって、受験勉強で疲れた夜更けなどには、ポメラニアンのホームページを見てひとりヒーリングをするわけである。会社の昼休みなどにもたまに一人ひそかに癒されていたりする。

お勧めのHPは、やはり「ポメラニアン倶楽部」であろうか。実に写真が充実している。「ポメラニアン リンク集」などもなかなか良い。アメリカのかの有名な(一般にはそんな有名でもないか?)「Mr.Winkle.Com」などは、ポメなんだか何なんだかさっぱり分からないが、やはり捨てがたい好ページなり。このMr. Winkle、アメリカではすさまじい人気らしい。いつもベロをちょこっと出してるあたりが、あざとさを感じさせつつ、やはりかわいさには勝てない。しかし、着せ替え人形よろしくいろんな服装を着させられてカレンダーなんかにされているあたりは、往年の「なめ猫」を想起させて、何だか切なくもある。どうか着せ替えはやめてやってくれ、ご主人。

 

留学中、ポメラニアンを飼うのは難しそうだ。そうなると、ストレスフルな生活の癒しはもっぱら、娘との触れ合いに求めることになるだろう。その娘に、「いや、パパくちゃい!一緒にお風呂入りたくない!」とか言われたら、どうしよう。。。

考えないことにします。


4月24日(火)  笑顔の写真

今日は、来年受験組のapplicantの飲み会に参加させてもらう予定で楽しみにしていたのだが、とある事情で行けなくなってしまった。
新しい出会いもあっただろうに、残念である。

 

昼休みに学生Database用写真としてTuckに送る顔写真を撮りに行く。パスポートサイズの「笑顔」の写真である。しかし、生まれてこの方、スナップ写真以外で笑顔で写真を撮られたことなど一度もない僕は、意味もなく緊張してしまった。日本人の多くの方は笑顔で証明写真を撮る機会などそうないのではないだろうか。

「いやあ、アメリカに出す写真なんで、笑って撮らなきゃいけないみたいなんですよ。なんか照れますよね。」
自然な笑顔開陳に向けてムードを盛り上げるべく、写真屋の姉ちゃんに愛想を振り撒いてみたが、
「はあ、そうですね」
と低いトーンで返される。盛り上がりに水を差すことはなはだしい。

「じゃあ、撮る直前に"はい"と言いますからね。そしたら笑ってください」姉ちゃんは終始事務的な低音で指示する。

「いきますよ。。。。はい」
よし、とっておきの笑顔だ!!
「。。。。。あれ?おかしいですね」

どうもうまくシャッターが下りないらしい。

「すいません。じゃあ、もう一度。。。。はい」
スマイル!!
「。。。。あれ?どうしたんだろう?」

どうしたんだろう?じゃねえだろあんた。結構恥ずかしいのよ、これ。

「もう一回いってみましょうか。。。。はい」
(えー?どうせまた駄目なんじゃないの)
パシャッ。

五分後に出来あがってきた写真は、予想どおり思いきりひきつった笑顔であった。これが、学生Databaseに永遠に保管されるのか。。。

僕が女優だったら、「あなた撮りなおしなさい」と言うところだ、がしかし日本男児としては「これ、笑顔がいまいちだからもう一度」などとは口が裂けても言えず、そのまま引き下がったのだった。

 

小泉純一郎が自民党総裁に確定した。候補四人の中では、もっとも民意に近い首相選びということになるだろう。「首相公選」「郵貯民営化」「憲法改正」「靖国参拝」「財政構造改革優先」などなど。。。個人的には支持したい点多し。財政構造改革をあまりドラスティックにやって、カオス状態になりはしないか、という惧れもあるが、僕は正直期待している。あまり、何でもかんでも政治に関わるものはすべてシニカルにものを語るような昨今の風潮は、いただけない。まこと困ったものである。

しかし、新首相をある期待を持って見るというのは、実に久しぶりの気がする。まずはハネムーン期間中に、じっくりお手並みを見せてもらいたいところだ。


4月25日(水)  突然の訃報

隣の課のマネージャーであるGさんが突然亡くなった。54歳だった。
三月に肺炎でしばらく入院加療していたのだが、その後一旦は回復して職場にも復帰していたのだ。今月13日の前部長の送別会は、Gさんの復帰祝いも兼ねていた。「Gさんおかえりなさい」と乾杯したのは、ついこの間なのに。

その後再び体調を崩して入院したとは聞いていたが、まさかそこまで悪いとは思いもしていなかった。

Gさんの弟さんからの電話を上司が受けている間、部員全体がかたずを飲んで静まり返っていたが、電話を切った上司が「亡くなった」と言った瞬間、一気に体の力が抜けた。向こうの方でK君が頭を抱えて机につっぷすのが見えた。会社が合併してからの付き合いだったが、本当に人柄の良い方だった。一年ほど前、絶対来ないだろうなと思いつつカラオケに誘ってみたら意外にも喜んで来てくれ、僕達が馬鹿騒ぎするのを楽しそうに見ていた。しまいには、無理やり店に備えつけのセーラー服やイブニングドレスなどを着せてしまった。苦笑いしながらも、うれしそうに着ていたのが忘れられない。翌日、「いやあ、ありがとう。ほんと楽しかった。何かやみつきになりそうで怖いよ」と笑っていた。その後も、「次回のカラオケのために、最近女房誘って二人でボックスで練習してるんだよ」などと言っていたし、「じゃあ、次はキャンディーズを振り付けでやりましょうね」なんて一緒に馬鹿話して盛り上がっていたのに。

思い出すことといえば仕事がらみのことよりも、一緒に馬鹿騒ぎをしたことばかりであり、だからこそ余計に悲しくてしようがない。

合掌。

 

僕は普段、どうしても自分が今生きているということ自体に無自覚になっているし、いつか自分を含め誰もが死ぬということもつい忘れてしまっている。時間も生も浪費してしまっている。「自分は明日死ぬ」と知っていたら、当然今日の生き方は変わるだろう。「十年後に死ぬ」と知っていても、今後十年間の生き方は変わるに違いない。しかし、三十年、四十年、とにかく想像の埒外の将来、ということになった途端、いかに生きるかについての思考を停止してしまう。完全に、生きていること自体に対して無自覚になってしまう。

朝日新聞の神奈川版で、上野創さんという二十代の記者が自身のガン闘病記を連載している。僕はこの記事を読むたびに、彼自身の壮絶な闘病を、読者のがんとの向き合い方を読むたびに、つい自分と自分の周囲の愛するものに置き換えてしまい、ぶわっと涙が込み上げることがある。僕が当たり前の平穏な日々の中にいて、彼らがどうしようもなく不条理な境遇におかれていることの違いはどこにあるのだろうか、と考える。恐ろしく大きな両者の隔たりは、しかし、実はほとんど簡単に消えてしまうようなものでしかないはずだ、とも思う。でも、その一方で、自分が本当のところ彼らの不条理な境遇を遠い世界のこととしてしか捉えていないことにも気付いていて、何とも言えず情けない気持ちにもなるのだ。ぶわっとこみ上げた感情が再び潮のように引いていったあと、まるで何事もなかっ
たかのように、不条理なことなどまるであずかり知らぬかのように、再び生を浪費し始める自分に対して。

上野創さんの連載「がんと向き合って」は、asahi.comでも読むことができます。


4月26日(木)  弔問

夕方、同じ課の四人でGさんの自宅へ弔問に行った。

不謹慎かもしれないが、川崎市のGさん宅へ向かう車の中で、「Gさんが亡くなって、今自分たちは弔問に向かっている」という事実を時々ふっと忘れた。夕日を正面から浴びて首都高を走りながら、まるで四人でどこかの取引先にでも向かっているかのような気がしていた。馬鹿話もして笑った。何度も静寂と笑い声の間を行きつ戻りつした。断続的にやってくる静寂の中では皆が同じことを考えているのが分かった。

マンションの一室で対面したGさんは、いつも見慣れた、本当に穏やかな顔だった。今にも「ああ、よく寝た」と起きてきそうな。Gさんの奥さんとお父さんと話をした。「面倒見てもらうつもりだったんですけどねえ」とお父さんは何ともいえない笑顔で言った。

駅へ向かう車の中は、また馬鹿話。静寂から逃げるように、「松島奈々子と藤原紀香だったらどっちがいい」ずっとそんな話ばかりしていた。


4月27日(金) 

午前中、MBA友の会代表のHさんを当社の企業品質担当のマネージャーに紹介し、企業のミッションの浸透などについて情報交換する。なかなか他社の実情というのは興味深い。それにしても、話していて感じるのは、ミドル以下の立場から会社という組織を変えて行くことの難しさ、である。

夜、来年MBA受験を予定している友人と学芸大学で飲む。受験、将来の夢、日本の未来、などについていろいろと語っているうちに、いつの間にか日本酒の銚子を12本も空けて、へべれけになってしまった。

「顕在化してきたさまざまな問題にたいして、俺達の世代がシニカルになってへらへら笑っていたら、日本は変わらない」午前中のミーティングでも、夜の飲みでも何度も口に上った言葉である。

カーネギーメロン大学よりWaitlistのメール。これでWaitlistも四校目なり。


4月28日(土)  実習同窓会

気がつけば、今日からゴールデンウィークなのである。

昨年一月に診断士の三次実習で同じ班を組んだ仲間五人で久しぶりに新横浜に集まり、同窓会をした。

わざわざこのために名古屋から日帰りで来てくれた61歳のEさん、44歳の銀行マンYさん、36歳SEのTさん、そして紅一点29歳コンサル会社勤務のMさん、である。たまたま班を組むにあたり、事務局が割り振っただけのメンバーであるが、この5人の組み合わせは、仕事のバックグラウンドも年齢も実にまちまちであり、絶妙の取り合わせであったと思う。

今日もナイスなトークの連発に笑わせてもらった。刺激も受けた。そして、いろいろ考えさせられもした。

今後もそれぞれのフィールドで、頑張りましょう!


4月29日(日)  告別式

11時より川崎市の斎場で行われたGさんの告別式の手伝いに出かけた。むしむしするような天気。幕を張り巡らせた受付の中は風が吹きこまず、皆汗を拭いながら黙々と受付をした。斎場の前には、テニスコートがあり、テニスボールを打つ音と読経の声とが交錯していた。日常と非日常、ハレとケのコントラスト。

11時から告別式は始まり、そしてあっという間に終了し、12時過ぎにはもう出棺である。

 

途中、同僚と話をした。自分の葬式はどういう式がいいか。「湿っぽいのはかんべんしてほしい」「無宗教がいいな」などなど。しかし、今俺達死んだらきっと仏式の普通の葬式だよね、という話になった。どこにも自分の葬式のイメージなんて書き残していないのだから。

自分の葬式について何人かの人と話したことがあるが、意外に「無宗教の葬式がいい」と思っている人が多いのに驚いた。しかし、実際に行われる葬式はほとんどが仏式のオーソドックスなものになる。肉親の死に臨み、遺族は多かれ少なかれ混乱し、悲しみに打ちひしがれる。そんな中で「普通と違う」葬儀を行うのは、かなりのエネルギーを必要とするだろう。

同僚とそんなことを話しつつ、「自分の葬儀への希望はきちんとした文章にしておかねば」と、改めて思った。


4月30日(月)

祝日である。

夕方から青山一丁目の某社会議室にて、MBA友の会の壮行会に関する小グループの打合せを行う。

 

マッキンゼー式 世界最強の仕事術 -The McKinsey Way」を読む。邦題がちょっといかがなもんか、とは思ったが、書店で平積みにされており、ぱらぱらとめくったところ面白そうでもあったので読んでみた。
が、いまひとつ。だから何なんだ、と言いたいようなこと多し。


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