MBA留学日乗 2001年7月 | 前月へ | | ホームへ |
7月1日(日) マーフィーの法則
自宅を売却でなく賃貸にしようと決めた途端に、ばたばたと引き合いが来、今日は一日で二件の内覧があった。ま、世の中てのはだいたい、こういうもんではあるが。
夕方に不動産屋の営業の人と打ち合わせ。専任契約がまだ一週間残っており、契約期間内のおおっぴらな切り替えは、やはりできそうにない。
宮城県立大学の糸瀬茂教授がガンで昨日亡くなった。金融機関から大学教授に転じた異色の存在として話題になった彼は、ガンを発病した後も、その事実を公表しつつ積極的にさまざまなメディアで鋭い「正論」を吐き続けていた。極めて優れた論客であった。
僕はメディアで彼の姿を見るたびに、強く鼓舞された。彼の発言からは「日本を何とかせねばならぬ」という強いミッションが常に感じられた。彼が浸っているであろう、濃密な、凝縮された時間を思い、自分がともすれば浸る希釈されたような時間を思うことは、自分にとって辛くもあるが、やはりひとつのモチベーションでもあった。
小泉・ブッシュ会談終了。アーリントン国立墓地の無名戦士の墓に献花する小泉首相の姿を見て、いろいろと思えるところあるも、それについてはまたおいおい。
7月2日(月) 先輩と
会社の元人事課長であったDさんと飲みに行く。
Dさんは僕を当社に採用してくれた方であり、僕が非常に強い影響を受けたビジネスマンの一人である。入社後も何かと相談に乗っていただいていた。現在は某米系ベンチャー企業の人事担当ディレクターをしている。
ビジネススクール出願の推薦状・奨学金の推薦状、なども書いていただいており、今日はそのお礼をしたい、ということで誘ったのだったが、結局逆にご馳走になる形になってしまった。
新橋の飲み屋から銀座のクラブ(「ク」にアクセントのある方)、さらには蒲田のクラブ(アクセント同じ)へと移動して飲みつづけた。蒲田のクラブが閉店になって、最後ラーメンを食べて帰宅したのはもう午前3時過ぎである。
その間、「今日は君のお祝いだから」と、Dさんの財布からは、福沢諭吉に羽が生えたように飛んでいっていた。申し訳ない限り。
本当にありがとうございました。これまで頂戴した数々のご恩にまたひとつ加わってしまいましたが、いつか必ずお返しをいたします。
7月3日(火) また二日酔い
3時間ほど寝て目覚めたが、天井がぐるぐる回る状態。尋常ならざる二日酔いである。これまで、何度も二日酔いで出社したことがあるが、今日のは中でも結構な大物であった。
夜の友人との約束は申し訳ないがキャンセルさせてもらい、本日は早々に帰宅する。
櫻井よしこ著「迷走日本の原点」を読む。
日本が現在の低迷状態に陥るに至った原因を、重層的に分析している。経済政策・憲法改正・税制・農政・教育・軍備・外交。。。極めて優れた著作である。
このような、正論をきちんと主張できる女性にこそ国政に進出して欲しいと思うのだが、実際に進出してくる連中といえば、ヒステリックなフェミニスト大学教授や、「平和主義者」の美名のもとに、現実離れした論を振りかざして羞じぬような輩ばかりなのである。
7月4日(水) 1ミリの突起
親知らず二本目の抜歯はえらい騒ぎであった。
午後六時にスタートして、完全に抜けたのは午後八時過ぎ。だんだん歯医者の顔に血しぶきが増えていくは、麻酔は切れてくるは、「ん!何でダメなんだこいつ!」「すごい難物ですね!」と医者と看護婦が会話してるわ、こちとらアゴ外れそうになるわ、でかいペンチみたいなやつをぐりぐりこすりつけられて唇の端が擦りむけるわ、で大変であった。
歯医者は「今年一番の大物でしたよ!」と、鯛か何かを釣り上げたように言う。まあ、一番てのはいいことだ。
何でも「根っこが少し鍵状に曲がって」おり、それがひっかかって抜けにくかったらしい。抜き終わって見せてもらったところ、わずか1ミリちょっとの単なる突起である。こんなもんがなあ。
「神経をかなり圧迫していますから、前回とは違って今日は後が大変だと思いますよ」と脅かされたが、まっさきに気になったのは、「こんなにぐりぐりやって、明日の飲み会行けなくなったらどうしよう」ということであった。
7月5日(木) Cof2003ML
心配していた抜歯の影響も何とか少しの腫れと出血にとどまり、飲み会に参加できることになった。歯医者は、「いやあ、タフだわ。たいしたもんですね」と妙に感心している。
今日の飲み会は、昨年の受験仲間で作っていたMLメンバーによるもの。今年留学組の最終組の離日がいよいよ近づいてきたので、その前に久しぶりに皆で集まろう、ということになったのである。
六本木に三々五々集まる。今年留学組は僕を含めて4名(Kellogg, UCBerkley, IESE, Dartmouth)、今年再挑戦・初挑戦組が5名、そして今日初めて会った人が2名、の計11名である。
誰もが仕事と受験の両立に悩み、愚痴を言い合ったこの仲間の間には、単純につきあった時間では測れない特別な親しさのようなものが流れている。気の置けない、兄弟のような存在でもある。
馬鹿話して笑っているうちに、あっという間に夜12時をまわっていた。
皆が繰り出す二次会に猛烈に惹かれつつも終電に乗り、最後はタクシーで帰宅した。
7月6日(金) 野球部送別会
朝、恵比寿のCITI BANKにて送金小切手を作る。現地のHousingの申込金と一ヶ月分の前払家賃である。何とか$750/monthの物件を紹介してもらうことができた。欲を言えば現地に行って実際に確かめてから決めたいところであったが、やむをえずデジカメの写真を送ってもらい、それをもとに決定した。
少し部屋が狭い・キッチンが小さそう・やや古そう、などなど気になるところはあれど、そのへんの条件をクリアする物件はこんな低価格ではまず存在せず、やむをえないところであろう。何はともあれ、コストセーブである。
夜は会社の野球部の有志が送別会をしてくれた。会場は、六本木の「バックスカフェ」である。会話をしながらもレースクイーンを目で追うメンバーたち(笑)。
引き続き、カラオケ屋で二次会。男ばかり13名が詰め込まれたカラオケ・ボックスはかなりむさ苦しい(笑)。そのむさ苦しい部屋の中で、先輩・後輩と一緒になって馬鹿騒ぎをし、肩を組み歌い、最後は少し泣いてしまった。
本当にありがたかった。
7月7日(土) 友人夫婦宅へ
七夕である。
夕方から友人夫婦宅へ家族で遊びに行く。友人は、来年MBA留学をすべく現在受験勉強をしており、一家の置かれたシチュエーションが極めて我が家のそれと近いのだ。男性・私費・女房子供持ち、という条件の受験生はそう多くないので、非常にシンパシーを感じてしまう。
彼は極めて優秀であるので、きっと来年の今ごろには良い結果が出ていると信じている。
友人の息子とうちの娘は年も近いこともあり、いっしょに遊んでいたが、やはり男の子と女の子、少しお互いに意識しているようであった。
最近、たてつづけに「ホームページ発見したよ」という声をいただいた。
一人目の方は、現在ダートマス大学メディカルスクールでバイオの研究をしている方。このホームページの作者である。Googleで見つけていただいたとのこと。うーん、こういうのって嬉しいものである。早速現地でお会いする約束をした。(ちなみにこの方のホームページのこのコーナーを見ると、ダートマス大学とハノーバー市のことがよく分かります。実は、あまりにも友人の間での「ダートマス大学」の認知度が低いので、自分のHPにも学校紹介・町紹介コーナーを作ろうと思っておりました。しかし、遅々として進んではおりませんでした。今回この方のHPを見て、「詳しくはこのHPを見てね」ですべて済ましてしまおうか、という甘い誘惑にかられおり候)
二人目の方は、上司のIさんである。これには驚いた。「ハッシーのホームページ見つけちゃったよ」といきなり言われたのだから(笑)。Yahoo!で「ダートマス」と入れたら出たとのこと。チェックしてみたら、どうも「ダートマス」、僕の氏名、「留学日乗」などでヒットするらしい。サイト自体の登録はダメだったようであるが。
お二方、こんなサイトを見つけていただき、どうもありがとうございました。
7月8日(日) 先輩夫婦宅へ
午前中不動産屋と打ち合わせをし、午後から駒沢の先輩夫婦Mさん宅へ遊びに行く。渡米前のご挨拶訪問である。
もともとは、Mさんの奥様が当社人事部で我々夫婦を採用してくれたのがそもそもの出会いであり、その後は夫婦揃ってすっかりお世話になっている。旦那さんのMさんは僕にとっては年長の飲み仲間でもあるのだった。
住宅街の中にあるタウンハウス。屋上にはテラスがあり、吹きぬける風が実に気持ちいい。娘も興奮して騒ぎまくった挙句、なぜかうんちを漏らし、最後はソファで寝てしまった。
娘が寝入った後は、奥さん同士は二階のリビングで話しこみ、我々旦那同士はテラスで風に吹かれながら酒を飲んだ。久しぶりに色んな話をした。あっという間に時間が過ぎていく、本当に気持ちのいい日曜日の午後であった。
7月9日(月) 部送別会
六本木で部内の送別会。
これまで、幹事として送別会をしたことは多々あれど、主賓として送別会に参加する機会というのは今回の送別会シリーズが初めてのことであり、まったく「主賓慣れ」しておらず、腰の座りが悪いこと甚だしい。一次会の途中で「本日の主役」というタスキを肩にかけられてようやく落ち着いた。
どういうわけか一次会からイッキ飲みの応酬をする激しい盛り上がりとなり、早くもへべれけとなる。そのままの勢いで二次会のカラオケボックスへ移動し、そこでも大騒ぎをした。
普段はほとんど冗談しか言わない上司の「はなむけの言葉」に鼻の奥がつんとした。
大きな花束を抱えて帰宅。
7月10日(火) 取引先送別会
取引先某社の方々が横浜で送別会を開いてくれた。ここ数年、仕事で大変お世話になった方々である。本当にありがたい限り。
先方の会社を昨年末に退職して以来、久しぶりに再会する方もおり、懐かしくも楽しい時間を過ごす。
7月11日(水) 同期送別会
会社の同期が新橋で送別会を開いてくれた。1993年4月1日に入社した6人全員と、同期の一人と社内結婚したNさん、そして二年前に転職してきたHちゃんの計8人である。会場は、新入社員当時に飲みに行っていた飲み屋であった。
それぞれが家庭を持つようになってからは回数は減ったとはいえ、頻繁に飲みに行き、旅行などにもしょっちゅう出かけた、実に仲の良い同期であった。
嫁さんが育児休職に入っている以外は、転職したものもなく、社内の異動さえほとんどない同期であったのが、今回我々夫婦の退職につづいてY君の長期ドイツ駐在も決まり、色々と動きが出始めてきた。何となく、やはり回顧的な話に終始した。
久しぶりに皆で遅くまで語り、終電で帰宅する。
7月12日(木) 課送別会
昼休みはお世話になったエリアマネージャーのSさんOさんが送別ランチをしてくれた。
夜は、同じ課の仲間が六本木で送別会をしてくれた。上司のIさん以下5名プラス隣の課に異動したKさんと現在育児休職中のTさんの計7名である。
入社以来ほとんど一貫してこの課で仕事をしてきた僕にとっては、やはり特別な思い入れのある部署と人々である。
皆さんからそれぞれ餞別をいただく。SさんとI君からは僕の好きな酒を。Kさんからは、「アメリカで使用するように」、と金髪のカツラとTシャツを、そして上司Iさんからは「サインをいっぱいするだろうから」とモンブランの万年筆を。
皆さん、本当にありがとうございました。感謝しています。
二次会のカラオケボックスでは、普段冷静なSさんから酔っ払ってキスをされまくった(注:Sさんは男性)。
最後はKさんからいただいた金髪のヅラをかぶったまま東横線の終電に乗り帰宅する。
7月13日(金) 退職の日
8年3ヶ月働いた会社の退職の日である。本当にあっという間にこの日がやってきてしまい、まったく実感が追いついていない。
午前中に最後のミーティングをし、残った引継ぎをし、同期と最後のランチをし、メールの整理と机の中の整理をし、挨拶メールを書いていると、もう夕方であった。
慌てて社内各部署に挨拶まわりに行く。
あちこちで立ち止まって話をしているうちにあっという間に6時になってしまった。あわてて自分の部署に戻り、部員に挨拶をする。
今日は社内有志による我々夫婦の壮行会を同期が企画してくれていたのだった。最後の挨拶メールを送ってからタクシーで六本木へ向かう。
一次会は六本木のパーティルーム。あっという間に時間が過ぎた。全員と話をしたかったが、とてもできなかった。
二次会はいつも利用するカラオケボックスへ。例によってカラオケで大騒ぎをし、ビールを大量にイッキ飲みし、トイレで吐く。
三次会は再びパーティルームへ。肩を組んで歌い、飲み、クッションを投げ、大騒ぎをしつつ、この会社で8年間にあった色んなことを思い出した。三次会の終了間際になって、同期のNさんが泣きはじめてからは僕ももうどうにも涙をこらえきれなくなった。最後の挨拶では、情けないくらいに泣いた。
そして最後、四次会は六本木交叉点近くの飲み屋で朝まで語る。僕は完全にグロッキー状態であったが、朝まで実に19人もの人々が付き合ってくれた。
真夏のような朝の光の中をひとりひとりと握手をして別れる。最後は同期Hさんと菊名駅で握手をして別れた。嫁さんと二人で菊名駅のベンチに座って皆からもらった寄せ書きの入った写真アルバムを読んだ。電車がやってくるまで、黙りこくって読んでいた。
一生モノの宝、だと思った。
本当にこの会社で出会った上司・先輩・同僚・後輩のありがたさを実感した一日。自分が選んだ道は、こんな素晴らしい仲間と一緒に仕事をする、という日常を捨ててまで選んだものなのだ、という事実をあらためて認識させられた。
素晴らしい職場で、素晴らしい同僚に恵まれたことに、本当に感謝しています。あまりにありきたりで、もどかしさばかりが募りますが、僕にはとにかくこの言葉しか見つかりません。ただただ、この言葉を強く思っています。
「ありがとうございました」
7月14日(土) お見舞い
昼過ぎまで眠ったあと、嫁さん・同僚のK君と一緒に、入院している会社の先輩のお見舞に行く。
先週腫瘍の摘出手術を受けたばかりなのだが、思っていたよりも元気そうで安心する。「毎日健康的な食生活だから、普段より元気だよ」と笑う。「ナースをいかにしてナンパするか」などの話で盛り上がった。
渡米前に会えて良かった。
壮行会(飲み会)9連戦が終わった。この一週間で4キロも体重が増えてしまっていたが、不思議なほど体調は良好である。ただ、少し感傷的ではあるけれど。
7月15日(日) 家の売却
今日が三ヶ月の専任売買仲介契約の最終日である。昼過ぎに、三島まで新幹線通勤をするために新横浜駅前でマンションを探しているという夫婦が見学に来た。かなり念入りに細部まで見ていく。しかし、「今日中にもらう」ことになっていた結論はもらえずじまいであった。
実は、同時に姉夫婦からもマンション購入を検討しているという知人を紹介されており、かなり気持ちはそちらへ傾いていた。
結局電話で不動産業者と押し問答をした挙句、不動産業者の紹介の客に今後優先権を与えないことで決着した。
売却で動きがなく、賃貸の方向で気持ちが固まった途端に、売却の動きが活発になってきた。実に皮肉なり。
しかし、いよいよ渡米まで半月強となり、これからはすべての準備が時間との戦いである。
7月16日(月) 買い出し
家族三人で港北ニュータウンへ渡米に先立ち必要となる品々の買い出しに行く。
平日の昼間、家族とデパートへ買い物に来ているという事実は、どうにも違和感を抱かせるのだ。
会社の何人かの方からメールをいただいた。本当にありがたい。
7月17日(火) 体調不良
体調がどうにもすぐれず、ほとんど一日を寝て過ごす。夏風邪?クーラー病?
壮行会で増えた4キロの体重はあっという間に元に戻った。
7月18日(水) 体調不良つづく
微熱あり。単なる微熱でここまでダルイかおい、というくらいダルイ。
夜は嫁さんが友人たちとの食事会に出かけ娘の世話。
「あしょぼー!」「おどょろー!」「おにゃかしゅいたー!」に対応しているだけでぐったり。親の体調など、幼児の預かり知るところに有らず。やはり、育児なるもの、大変な重労働である、と実感した次第である。
7月19日(木) 高熱
会社の旧所属部署の送別会に嫁さんが出かけている間、今日も娘を見ていたが、夕方5時頃から熱が急激に上がりはじめる。あっという間に39度に。
何とか娘の食事の世話とおむつ替えだけはするものの、あとはベビーシッターとして何の役にもたたず。横になって、娘が何と言っても、「うー、ごめん」と繰り返すばかり。
玄関の方で「ママー」と、扉を叩き泣く声が聞こえるものの、なだめる気力なし。
7月20日(祝) 高熱なお
ほとんど一晩中眠れず。朝一番で嫁さんに休日急患診療所へ連れて行ってもらう。
頼りなげな老医師曰く、「うーん。扁桃腺腫れてますねえ。夏風邪、ですねえ」
それだけか?と思ったものの、まともにしゃべることもすらできぬ身、薬だけもらって帰る。
薬を飲んで一旦37度台まで熱が下がるも、しばらく後には再び39度台後半へ上昇。青息吐息。
今日は会社の大先輩Mさんが我が一家の壮行お食事会を企画してくれていたのに、キャンセルである。
7月21日(土) ついに救急車
未明に熱が40度近くへ上がり七転八倒。嫁さんが救急車を呼んでくれ、救急病院へ搬送される。
急性アル中以外では初の救急車体験。いつも呼ぶ側であったので(4回呼び→3回はそのまま帰られ、1回はタクシーで追走した)、乗車したのは初である。(ちなみに家族三人で乗車)
扁桃腺全体が化膿しており、「ウィルス性急性扁桃炎」とのこと。やはり昨日の医者はヤブであったか。じじいめ。
病院で点滴を打って帰宅。
自分では、「救急車を呼んでもいいものやらどうやら」と、混濁した意識で考えているだけで、とても呼んでくれ、と言える状況にはなかったが、呼んでもらって助かった。
帰宅後、何とか37度台まで一旦下がるも、また40度近くまで上がることニ度三度。
本日もMBA友の会のホームページ担当者のホームパーティーがあったのだが、当然キャンセルである。
7月22日(日) ようやく熱下がる
熱が下がらず、夜はほとんど眠れなかったものの、昼頃になって急に熱が引き始める。
実家の両親が孫の顔を見に顔を出した午後一時には、久しぶりに7度台前半へ、そして午後三時過ぎには一気に平熱の35度台に戻っていた。上がるときも突然であったが、下がるときも突然である。
四日ぶりにシャワーを浴び、さっぱりする。久しぶりに鏡に映った顔を見てみると、頬はこけ、ひげは伸び放題、高熱の影響か唇の周囲は爛れたようになっていて、まったく人相が異なっている。
しかし、何よりも驚いたのは、「白目の白さ」であった。ここ四日間、ほとんど日の光を浴びず、PCも活字も一切目にしていなかったため、充血のない、驚くようなきれいな目になっているのだ。「澄んだまなこ」とはまさにこのこと。普段鏡で見ている目とは木綿と絹くらい違う。嫁さんも「それは赤ちゃんの目だわ」と笑う。
しかしまいった。
健康の大切さを実感するとともに、今後の生活における何らかの改善策の必要性を痛感した次第。
とにかく、嫁さんがいてくれて助かった。
一週間近くまったく渡米準備ができなかったことで、いよいよ切羽詰まってきた。
7月23日(月) 渡米準備再開
朝、10時過ぎに先日救急車で搬送された労災病院へ行く。熱は下がったといっても扁桃腺はまだかなり腫れているとのことで、点滴と血液検査を受けた。
しかし、診察→点滴→採血→会計と回るだけで、もう午後4時である。
何でこんなに待ち時間長いの、大病院?何かおかしくないか????
何でじいさん・ばあさん、待合室であんなに元気に盛り上がってんの?今の老人医療費ってほんとーはどれだけ必要なの?
誰もが本音じゃ分かっているくせに、「老人医療費削減」を「弱者切り捨て」として批判するのは何でなの?
あまりに待たされているうちに、色々考えて別の意味で具合が悪くなりそうであった。
帰宅すると嫁さんはパッキング作業真っ最中、娘は段ボールの上に乗る作業真っ最中。渡米準備再開である。
咳だけはなかなか止まらず、時々あまりに激しく咳き込みすぎて、本当にゲロ吐きそうになるくらいである。それだけは、全力で回避しているが。
咳→ゲロへの無段変速。想像するだけで、色んな意味で人として辛すぎる(笑)。
7月24日(火)
咳も止まらず、また微熱があり、なかなか全快とはいかない。ほとんど一日を横になって過ごしている。
友人のLa Bamba氏より、サイトをオープンしたとの連絡あり。今年からスペイン・バルセロナのIESEに留学する彼は、ルックス・言動ともに日本人離れしていて、受験期間中も何かと楽しませてくれた。まだ、サイトの日記は「ラバンバぶり」が発揮されていないようであるが、そのうち本来の姿が出てくるでしょう。
宜しければ覗いてみてください。
7月25日(水)
本日も全快ならず。
夕刻、激しい雷と夕立あり。畳に横たわりてそれを聞く。
7月26日(木) 渡米日決定
多少体調改善。咳がずいぶん減った。
渡米チケットの予約をする。やはり8月上旬のチケットは相当厳しいようであったが、幸い予定していた日程で三人分のチケットを押さえることができた。
8月9日(木)15:25成田発ニューヨーク行 デルタ航空26便
何はともあれ、渡米日が確定し、すっきりした気分なり。
午後、不動産屋と自宅賃貸の件で打ち合わせ。
その後、スーツケースを購入して帰宅すると、懸案のビザが米国大使館より届いていた。
7月27日(金) 靖国参拝
病気のためしばらく中断していた歯医者に行く。渡米のタイミングと治療の終了、ぎりぎりである。
8月15日が近づくにつれて、靖国参拝問題がかまびすしくなってきた。小泉内閣の支持率が急落するとしたら、それは靖国参拝に関わる報道が過熱し、世論が問題を未消化のまま、「何となく、彼はタカ派なのでは?」と不安を抱きはじめた場合であろうと、思っていた。
今のところ、懸念したほどの過熱ぶりではないが。
靖国には参拝すべきである。現状、千鳥が淵戦没者墓苑の整備が不充分である以上、靖国に替わるものはない。戦没者に感謝し、冥福を祈り、平和を誓うために、一国の首相が参拝するのは、あまりにも当たり前のことである。何を他国にあれこれ指図されねばならないのか。
戦没者の少なからぬ人々は、南方の海に沈められたまま、あるいは南洋の孤島に、シベリアの凍土に打ち捨てられたまま、遺骨がもどってきていない。死んだら九段に戻る、靖国にまつってもらえる、そう信じて死んでいった人々も多いのである(もちろんその逆が存在することも否定しない)。彼らの存在を、国としてあだやおろそかに扱ってならぬのは当然である。
靖国に、25歳で特攻で戦死した海軍大尉の手紙が掲示されている。あまりにも幼く、父親の記憶のないであろう愛娘に宛てた手紙である。僕は、同じく小さな娘を持つ身として、いつもこの手紙を読むたびに涙を禁じえない。
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海軍大尉・植村真久命
神風特別攻撃隊大和隊
昭和十九年十月二十六日
比島海域にて戦死
東京都出身立教大学卒
二十五歳
素子、素子は私の顔をよく見て笑いましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。
素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。
私の写真帳も、お前のために家に残してあります。
素子という名前は私がつ
けたのです。素直な心のやさしい、思いやりの深い人になるようにと思って、
お父様が考えたのです。
私はお前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、仕合せになったのをみとどけたいのですが、若しお前が私を
見知らぬまま死んでしまっても決して悲しんではなりません。
お前が大きくなって、父に会いたい時は九段へいらっしやい。そして心に深く念ずれぱ、必ずお父様のお顔がお前の
心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思います。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを
見ると真久さんに会っている様な気がするとよく申されていた。
またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯を
かけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。
必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。
優しくて人に可愛がられる人になって下さい。お前が大きくなって私の事を考え始めた時に、この便りを讃んで貰いなさい。
昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ
追伸、
素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。
だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教えて上げます。
(現代仮名づかいに修正)
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小泉首相には、数多の抵抗勢力に負けず、是非とも靖国参拝を実行してもらいたい、と切に願う。
7月28日(土)
一日引越し準備に追われる。テーブルなども既に運び出され、一家三人懐かしのちゃぶ台生活なり。
7月29日(日) 参院選
元部長宅へ遊びに行き、昼食をご馳走になる。奥様とは久しぶりの再会、娘は初めての対面である。
公私ともに大変お世話になった方である。米国での再会を約して別れた。
帰路、参院選の投票へ。予想どおりの自民党大勝、そして予想外の低投票率であった。
それにしても、今回の低投票率には失望させられた。
7月30日(月) ビジョナリーカンパニー
午前中、病院へ。扁桃腺のウィルスの方はほぼ問題なし。しかし、「肝機能の数字が軒並み悪いですねえ」という予想外のご託宣あり。日々の生活というものは、意外に如実に出てくるものなんですなあ。
「ビジョナリーカンパニー」(ジェームズ・C・コリンズ、ジェリー・I・ポラス)を読む。3M、GE、ソニー、ウォルマート等のビジョナリーカンパニー18社を抽出し、その永続の源泉をライバル企業との比較を含めて徹底的に調査したもの
である。
取り上げられる企業の多くがアメリカを代表する企業であるが、巷間アメリカ的経営として捉えられている「株主価値至上主義」などを標榜する企業は一社もない。多くは、「従業員第一、顧客第二、株主は第三」なのであった。(当然だ。どこの従業員が、「株主のために」などと言われて働く気になるか)
数々の「神話」が本書を通して覆されていく。実に示唆に富む、力作である。今、この時点で読んでおいてよかった、と思う本であった。
7月31日(火)
午前中、おたふく風邪の予防接種を受ける。あとは、来週血液検査の結果を受け取れば終了だ。何もかもがぎりぎりなのであった。
午後から、義弟夫婦が遊びに来る。餞別(甚兵衛)をもらい、寿司までご馳走になってしまった。漫画家のたまごの義弟、僕が二年後に戻ってきた時、彼がその世界で大成功していることを願って止まない。
あっという間に7月は去り、明日から8月だ。