MBA留学日乗 2001年12月     | 前月へ |  | 翌月へ |  | ホームへ |


12月1日(土)    日本行きのチケット

日本行きの航空券が届いた。クリスマスから年末にかけては家族も再渡米してきてこちらでのんびりと過ごす予定だったのだが、多くの企業が米国でのインタビューを延期したことから計画を見直さざるをえなくなり、結局年末は日本に一時帰国することにしたのだ。それにしても、あとわずか三週間後の自分が現在頭の中で懸案となっている事柄のほとんどを片付けて機上の人になっているのだとは、とてもじゃないが信じられない。

来年こそは、家族三人で当地の静かなホワイトクリスマスと年明けを味わいたい、と思いつつも、とりあえず日本に帰れることを楽しみにしている。

 

今日は一週間の中で唯一スタディグループのない日である土曜日だったのだが、来週はグループプレゼンがふたつ入っているため、その準備のために昼から集まって皆で作業をする(ポーラを除く)。今週末は休みなしだ。こんな週の楽しみといえば、ホッケーと風呂上りのビールぐらい、ということでスタディグループが終わってからT内さんとディスカウント食料品店"Price Chopper"に出かけてビールを買い込んできた。ついでに大型の雪かきシャベルと雪かき用手袋も買ってきた。冬への備えもだいぶ整ってきた。


12月2日(日)    けったいな発音

今日もスタディグループで明日の予習とチームプレゼン・週末のチームプレゼンに向けてどっぷりミーティング(ただしポーラを除く。。。。大丈夫かポーラ!そろそろ出て来いポーラ!さすがにやばいぞポーラ!)。

夜、図書館で先週金曜日にやった自分の90秒プレゼンをビデオで見る。自分で自分のプレゼンを評価したレポートを提出しなければならないのだ。いやしかし、、、発音がひどい。よくみんなこれで聞き取って笑えたな、と思うほどだ。ジャパニーズイングリッシュの発音の聞き取りにくさというよりも、無理してうまく発音しようとしているがために、余計に聞き取りにくくなっている感じである。これならバリバリのジャパニーズイングリッシュの方が聞き取りやすいのではないか、と思うほどだった。ということで、今後は無理して英語風の発音をしようなどとは思わないことにした。

 

夜はまたホッケー。


12月3日(月)    Honor Code

Macro Economicsの授業を受けていると、突然副学長と二年生の女子学生が教室に入ってきた。予定の行動だったらしく、Macro Economicsの教授が手際よくパワーポイントを準備すると、女子学生が自分はTUCKの"Judicial Board"のメンバーだと自己紹介をしてからおもむろにしゃべりはじめた。

曰く。

先週この課目で扱った東西ドイツ統一時のドイツ当局の金融・財政政策に関するケースで、TUCKのHonor Codeに違反していると思われる行動があったようである。Yale SOMでまったく同じケースを使った際の資料を入手した誰かがそれをコピーしてまわし、その内容をかなりの部分引用してケースライトアップを仕上げたものがいるようだ。大変残念なことだが、手元に複数の資料がある。我々は犯人探しをしてHonor Codeに違反したものを罰するつもりはない。Honor Codeを守るとはどういうことなのか、一緒に考えていきたいので、是非思い当たる者はJudicial Boardのメンバーに明日までに連絡してほしい---。

TUCK生として従うべきさまざまな規律について定めたHonor Codeに違反したと思われる行動が発見された時、学校当局がこれを取り上げるのではなく、学生たちが自らの手でこれを扱い対応策を決定する---これがJudicial Boardの主旨だ。したがって今回のような場合も、やはりJudicial Boardとしては動かざるをえないだろう。しかし、僕にとってはこれが入学後初めて遭遇したHonor Code違反だったため、色々と考えさせられた。自分がその資料を手に入れていたなら、読む前に捨てただろうか、あるいはこれは読んでもよいか?などと教授に相談しただろうか。たぶん否である。深く考えずに読んだに違いない。また、「犯人探しが目的ではない」とは言っても、一学年わずか200数十人しかいないこの学校では、誰が犯人かなどすぐ分ってしまうのではないか。それは本当に必要なことなのか。

午後、ちょうど別件で副学長(米系企業のVPと同じく山ほど副学長がいます)にアポイントを取っていたので、このへんについて意見を言ってみた。自分が資料を手にしていたとしても多分教授に相談はしていないと思う。大部分がそうだと思う。できるだけ誰が犯人だとかいう話になることを避けてほしい、と。彼も「自分もまったくそう考える。他校の資料を読んでなるほど、と思うぶんにはまったくかまわない。ただ今回はそれをコピーして配っていたようなのが残念だが。いずれにせよ、これを扱うのはMBAオフィスではなく、学生達自身だ」と言う。「彼らがうまくこの件をさばいてくれるのを期待しているが、自分から何かを働きかけたりはしない。僕はただこうあってほしい、と望んでいるだけだ」。

彼の言葉に安心させられた。

Judicial Boardの存在。彼らの本件への対応。副学長の考え。そして、Honor Code違反をした学生が今後取るであろう反応。すべて、米国の成り立ちと価値観を投影しているものなのだろう。


12月4日(火)     アントレプロジェクト

実は昨日正式に自分のアントレのプロジェクトを断念した。土曜日に朝までかかってFinancial Modelも一応作ったのだが、なかなか人数も集まらないし、このままこのプロジェクトに拘泥しつづけることはあまりにもリスクが高いと判断したのだった。昨日「一緒にやろうか」と言ってくれていた人間にそれぞれ断念する旨伝えた。皆たいがい平行して他のプロジェクトも当たっているので、すんなりと他のチームに決まっていったのだが、パトリックだけは我々のアントレプロジェクトに相当重心を置いていたようで、あまりリスクヘッジもしていなかったようである。散々引きずりまわした挙句にギリギリのタイミングで諦めることは本当に彼に対して申し訳ないことであった。

そして今日、興味を持っていた別のプロジェクトの人間とミーティングをし、ある教育関係のアントレプロジェクトに参加することに正式に決めた。パトリックにその旨を伝えたところ、何と彼も僕が入ったプロジェクトのメンバーになったという。まったく偶然ではあるが、何はともあれ良かった。新しく入ったプロジェクトのメンバーは、三十代前半から後半までの比較的年齢層の高い落ち着いた連中が多い。メンバーには非常に恵まれたと思う。

 

さて、秋学期B終了まで、あと8日。スタディグループのビルも、さすがに今週は「ひどい週だ。まだ火曜日なんて信じられない」とつぶやいている。おそろしく頭の切れる、何をやっても早い彼がそう言うからには、誰にとっても今週は相当きついのだろう。一方で、牛のような速度でリーディングをこなしている僕にとっては、ある程度の忙しさを超えてしまえばもはや一緒です。


12月5日(水)    職人気質か?

金曜日に行うManagement CommunicationのOral Examination(チームプレゼン)の準備にここのところ、かなり時間を取られている。一度決めたフレームワークをああでもない、こうでもない、といじくりまわしているため、時間はいくらあっても足りない。今日ももうほとんど出来上がっていたプレゼンの骨子をいきなり根っこから作り変えてしまった。プレゼン資料のような種類のものは、ある程度の時間が経過すると、もはや労力に見合ったリターンが得られるとはとうてい思えない。締め切りに向けてコストに見合わぬリターンを得ながらだらだら坂を登るばかりである。しかし、「何が何でも良いものを作る」という彼らの職人的姿勢の前では、「これ以上やっても収穫は逓減するばかりだから、今のレベルでもういいじゃないか。あとは練習に力を注ごう」という意見は無力である。コストを無視してまで品質にこだわるつづける彼ら。アメリカ人が合理的だなんて嘘だね、と夜のスタディルームでうんざりしながら思っていたのだった。おかげ様で明日のCapital Marketsの予習は途中でギブアップだ。


12月6日(木)    チームプレゼン前夜

夜、教室を借りて明日のチームプレゼンのリハーサルをする。が、明日が思いやられる出来だった。特に、自分で言うのも何だが僕とポーラの出来が悪かった。

直前まで資料に手を入れていたためリハーサルの段階ではなかなか内容を覚えるところまでいかなかったのだが、それでも何とかアンチョコを作って頭に覚えこませてリハーサルに挑んだ。しかし、いざ自分のパートのプレゼンをしようとリモコンでパワーポイントのスライドを進めたところ、まったく見覚えのないスライドが出てきた。フリーズする。「は?何これ?」「あ、ごめん。さっき全面的に見直したんだよ」とビル。先に言えよ、それ。というか、このタイミングで変えるなよ。そんなわけで、僕のパートはメロメロ。ポーラは、別の理由でメロメロ(単なる準備不足)。

その後、アンチョコを全面的に作り直し、自宅で練習をした。まあ、これで明日スライドが変わってさえなければ大丈夫だろう。

明日のチームプレゼンの準備のため、今日の晩は誰もが自宅や寮の部屋で何がしかの練習を行っているはずである。あのいい加減なポーラでさえ、多少は寮の自室で練習しているだろう。Management Communicationは一年生全員が履修するコア科目であるため、200十数人がいっせいに自宅でプレゼンの練習に励んでいるはずだ。それを想像すると何となく微笑ましい気がする。はてさて明日はどうなることやら。自分でも明日のチームの出来が非常に興味深い。


12月7日(金)    プレゼンとセクションパーティとパールハーバー

チームプレゼンは、さすがに本番までには皆きっちりと仕上げてきた。まあ上出来でしょう。ただ、ポーラだけが最後までうまく原稿を覚えられず本番もかなり緊張していたのが、何となく気の毒ではあった。いつも面倒なことは他人に押し付けて、他人の作る資料のどうでもよい個所に文句ばかり言っているので相当頭にきていたのも事実なのだが、こうして本番でボロボロになっているのを目の当たりにすると、やはり実に後味が悪い。プレゼンが終わった後も「成績はどうなのかしら」と気にしていたが。。。

他のグループがプレゼンしている間には、我々はPeer Feedback Sheetなるものに各個人の評価やチームとしての評価を記入していたのだが、普段授業中にがんがん発言するアメリカ人でもプレゼンでは緊張して手に持ったカードがぷるぷる震えていたりするのが印象的だった。一方で、おとなしめの学生が実に堂々とプレゼンしたり。今日は、皆"Dress professionally"と指定されていたため、スーツ姿である。ほとんどの連中のスーツ姿を見るのはこれが初めてだった。皆、普段は大判のテキストとPCの入ったリュックやずた袋のようなかばんを抱えており、服装もTシャツ・短パンにベースボールキャップだったりする。スーツ姿を見ると、改めてああこうやって皆数ヶ月前まではスーツを着て働いていたんだな、一年半後にはまたこうやって実業の世界に戻っていくんだな、と当たり前のことを実感する。

 

三時前にプレゼンが終了した後は、一時間ほど仮眠してからだいぶ伸びてきた髪を切りに行こうと思っていたのだが、気がついたらもう夜の7時であった。あわてて寮のT内さんをピックアップに向かう。今日は、一年生の各セクションがそれぞれセクションパーティをすることになっているのだった。秋学期は月曜日から金曜日まで同じセクションの連中で一緒に授業を受けつづけてきたわけだが、冬学期からは再びセクションを組みなおすことになっているらしい。そのお別れ会というわけだ。会場となったのはバーモント州側に住むアメリカ人学生の自宅。山小屋のような風情の趣味のいい家である。60人のセクション3のほとんど全員が家族を含めて参加していた。ひさしぶりにテキーラなどを皆で一気飲みし、しこたま酔う。「いいセクションだったな」とか言いながら思い出話。「これじゃまるで卒業するみたいじゃないか」と笑いながら、またテキーラの一気飲み。どこでも若者のすることは同じである。

 

今日は"Pearl Harbor Remembrance Day"であった。同級生の女子学生から全TUCK生に当てて、「このサイトを見てパールハーバーを忘れないようにしましょう」というメールが流れていた。メールの内容も軍人の日記を引用して色々と書いてある。どれだけパールハーバーというものの歴史的背景と近年明らかになってきた事実を正確に理解しているのか、と思う。彼女自身TUCKに来る前は海軍のパイロットであったため、愛国心もとりわけ強いのだろう。いたずらに学校内に民族間の対立というかコンフリクトを起こしたくないので、真っ向から反論するつもりはまったくないのだが、ただ残念なことだった。TUCKに存在する二十六名の日本人と十名前後の日系人の感情について彼女の胸に少しでもよぎったものはあったのか。ただ「忘れないようにしよう」ということ以外に将来のリーダーとして必要な言葉を思いつかなかったのか。ただ「忘れないようにしよう」など、猿でも言える。もとい、猿にはさすがに言えんな、小学生でも言える。普段、非常に感じの良い彼女なだけに残念でならぬ。


12月8日(土)    論文審査

久しぶりに二日酔いというものを経験した。なかなか布団から起き上がれなかった。

午後、Kマートに行って買い物をするが、クリスマス前のセールのため、あの広大なKマートの駐車場で駐車スペースが見つからぬほどの混雑ぶりであった。店内に入ると一番目立つ場所に「パールハーバー」のビデオが平積みになって置いてある。居心地悪く買い物をすませた。

車のタイヤをスノータイヤに履き替える。ふわふわして何だか気持ちが悪い。しかし、来る冬に向けて雪道ビギナーの僕には必要な存在である。夕方四時から夜の十時まではスタディルームにこもって、原稿用紙二十枚分の中小企業診断士資格更新論文を一気に書き上げた。これについては、海外居住者の存在をはなから想定していない事務局担当者とのやり取りに相当頭に来ている。言いたいことは山ほどあれど、とにかく、何はともあれ、ようやく懸念事項のひとつが片付いた。こいつのおかげでしわ寄せをくらった来週の予習にこれから気合を入れて頑張らねば。

深夜はまたホッケーだ。


12月9日(日)      10000アクセスを超えた夜

午後6時からスタートしたスタディグループミーティングは休憩なしで何と午前二時までぶっ通しで続いた。途中、「自分の部屋で計算をしてくる」と言って抜けていった女性陣二人はついに最後まで帰ってこず。完全にスタディグループは崩壊状態である。残った男三人でEconomicsのケースライトアップとDecision Scienceのプレゼンの双方を仕上げるはめに(実質ビルの負担が大きいのだけれど)。今週いっぱいでこのグループともお別れだし、彼女達も完全にやる気を失っているのだろうが、何とも後味の悪いスタディグループの終わり方になりそうだ。今まで決して文句を言わなかったビルも、今日は初めてぼそぼそと文句を言っていた。

いくらチームワークを重視するTUCKとはいえ、すべてのチームがうまく運営されるわけではありません。我々のチームのようなのは悪い方の極端な例でしょうが、これもまたTUCKに存在する40数個のスタディグループのひとつの姿でございます。

 

このサイトのアクセス数が気が付いたら1万を超えていた。昨日の夜から雪が降り積もり、ハノーバーはすっかり一面の雪景色に変わった。昨晩は窓の外の雪景色を見ながら隣人I氏と日本酒の熱燗で明け方まで飲んだ。僕はホッケーで左膝をひねり、今朝は足をひきずりながら雪かきをした。例のパールハーバーに関するメールについて、友人と話をして少しく思えることなどもあった。。。。色々書こうと思っていたこともあれど、今日はちょっとその気力なし。


12月10日(月)     サリー

アドミッションディレクターのMs. Sally Jaegerにインタビューをする。来週の日本でのインタビューの準備と1st Roundのアプリケーションの処理でてんてこ舞いのようだったが、何とか時間を割いてくれた。30分しか時間がなかったので聞けることにも限りがあったが、興味深い話が聞けたのでは、と思う。まあ、何よりも久しぶりに彼女と話ができて楽しかった。ちょうど昨年の今ごろ東京でサリーのインタビューを受けたことを思い出す。彼女の何ともいえぬ魅力的な笑顔にふっと肩の力が抜け、ああこの学校に行きたいな、と思ったのだった。何も彼女がTUCKのすべてを体現しているわけでもないのだが、組織に対するイメージなんてそんなものだ。ちなみにサリー、アドミッションディレクターをするのは今年が最後とのこと。今日のインタビューの内容は遅くとも今週中には当HPに載せますので、TUCKアプリカントの方、もうしばらくお待ちください。

 

昨日の朝、一面の雪景色になったハノーバーはまた再び雪が溶けはじめた。昨年に比べて今年は暖冬のようである。

【雪化粧のSachem】


12月11日(火)     そして英語との戦いはつづく

信じられないことだけれど、一昨日このサイトも10000アクセスを超えた。開設当初の、もっぱら家族友人知人に対する「元気でやっています報告」からかなり性格が変わりつつあるのも感じる。多くの方からメールをいただくし、思いもよらない人から日記の内容についてコメントをもらったりする。パブリックに対してオープンになる度合いが増すにつれて、この日乗を書くにあたってのこちらの姿勢にも多少なりと変化が生じてきてもいる。構えるようになった気がするのだ。ありていに言うと格好悪いことはオブラートに包むようになっている。そのことがすなわちここに書かれていることが虚構の世界ということにはならないにせよ、現実の心象風景とは若干違ったものが、ややマイルドに置きなおされたものがここに描写されているように思う。

今日はマクロエコノミクスの最終授業だった。ケースは日本の「ENDAKA」について。授業開始時にはスクリーンに日の丸がはためいている。否応なく気分が盛り上がる。取り扱う産業は自動車産業。国も産業も僕のバックグラウンドそのものであり、まさにここで貢献せねばどこで貢献する、というケースである。日本人同級生とも「ここでがんがんやらないとやばいでしょ」と話しており、昨日は相当気合を入れて明け方まで入念に準備をしてクラスに挑んだ。。。。

が。。。今日はとりわけリスニングの調子が悪い。教授の質問が聞き取れない。学生の発言を聞いて、「何だ、そんな質問だったのかよ」と思うこともあれば、その学生の発言すら聞き取れないこともある。時間は刻々と過ぎていく。やばい。このままでは授業が終わってしまう。焦る。尚更英語が聞き取れない。今コールドコールをされたら、何を言っていいか分らない。そういう時の自分は教授から目を逸らしてPCのモニターを見ている。「俺を当てるな」というわけか?何やってんだ俺。もう時間がないぞ。あれ、今の教授の質問はこういう意味か?それなら最高のコメントをできるぞ。でもたぶん違う質問かもしれない。ちょっとここは手を上げるのは待っておこう。そう思いつつ学生の発言を聞くとやっぱり質問の意図を取り違えていた。推測で発言しなくてよかった。などと言っている場合ではない。時間がないんだ。あれ、今の教授の質問はこういう意味だよな。これも昨日さんざん考えたことだぞ。でもまた意味を取り違えているんじゃないか。手を。。。やめておこう。学生の発言を聞くと今度は正しく質問の意図を把握していたようだ。しかも彼の発言はずっと浅い。くそっ!俺ならもっといいコメントができた。やばい。もう時間がない。教授が今日の授業のまとめに入っちまった。。

結局一度も発言の機会を捉えることなく、今日の最終講義は終わった。講義が終わった時、なぜか疲労困憊であった。自分が腹立たしく、なかなか席から立ち上がれなかった。

このようなことを書くと、「何やってんだよ」と、特に帰国子女のアプリカントの方などは思うだろう。実際僕も今日はそう思ったのだ。「何やってんだよ。お前」と。結果として授業はほとんど昨日準備したノートどおりに進んでいた。日本語での講義であれば、間違いなくクリティカルな発言を何度かしてクラスをリードできるだろう、と思い、そしてアメリカに来ておきながらそんなことを思う自分がまた腹立たしかった。

一年前にTOEFL250点台をやっとの思いで取ったような人間はここに来てはいけなかったのではないか、とさえ思った。たとえアカデミック的には問題なく、英語も徐々に改善してそこそこの良い成績で二年間を終えることができるにしても、こんな(自分にとって)重要なケースで貢献できず日本人のプレゼンスを上げられないようでは、何の言い訳もできないのではないか。少なくともリスニングくらいは完璧になるまで日本でしっかり準備をするべきだったのではないか。他の学生にとっては今日の「ENDAKA」は数ある授業のひとつでしかなく、皆さざめきながらランチに向かっていったが、僕はしばらく席に座ったままだった。

最近英語も多少は改善しつつあるな、などと感じていただけに、本日感じた自分への憤りのようなものは大きかった。ちなみに僕は一度反省したことをすぐに忘れる性格である。したがって、今日感じたことを記憶しておくためもあり、あえて本日の極私的心象風景の一部始終を書いてみた。一年生秋学期終了間際になって、あらためて感じた自分への憤り、そして焦りである。

 

今日はスタディグループの最終回。女性陣はやはり参加せず、男三人で行う。いつもならば、コンセプトを確認すると「あとは個人で作業しよう」と先を急ぐこともあるが、今日は「もうこれで最後なんだから答えが合うまでゆっくりやろう」と、夜中までじっくり取り組む。おかげで深夜一時過ぎからCapital Marketsのライトアップを始めることになったが、最後くらいこういうのも悪くない。


12月12日(水)     眠気

今日でDecision Scienceの授業は終了。明日でCapital Marketsの授業も終了だ。ひとつひとつ秋学期も終わりに近づいていく。

午後、ケースのモックインタビューをTさんとした後、フォーラムプロジェクトのクライアントとなるダートマスの心理学の教授達との初顔合わせミーティングを行った。非常に興味深い話を色々と聞けたが、やはりアカデミックの世界にいる人々はビジネスパースペクティブから見るとけっこう現実と乖離したことを言う。ビジネススクールの教授からさすがにそれを感じることはないが(あったら大問題だが)、これは日本も米国も変わらないようだ。今後のプロジェクトでは、このへんのギャップを先方の意見を尊重しつつもいかに埋めていくかも課題となりそうだ。

しかし、昨日も二時間しか寝ていなかったため、教授がコンセプトを説明している間眠くて眠くてしかたがなかった。最初の顔合わせで寝たらさすがにしゃれにならん、と必死にメモを取りながら聞いていたが、後で読み返すとさっぱり自分でとったメモの意味がわからない(笑)。メモの中でもっとも分らなかったのは、下記の数式である。

B*e^rt + element=petential

何だそりゃ?途中までは昨夜やっていたオプションプライシングの式を朦朧としながら書いていたようだが、"element"とは何を指すのか意味不明。"petential"にいたっては、つづりも違うし、さっぱり分らん。後で読み返して笑ってしまった。努力の甲斐あって何とか寝ることなく最後まで乗り切る。後で聞いたら皆眠気と戦っていたらしい。

今日は会う同級生皆、"How's going?"の答えが、"fine"や"good"ではなく、"I'm tired", "sleepy", "exhausted"だった。もう少しだ。


12月13日(木)     Final近づく

Final Examが近づいてきてだんだん学生の様子も慌しくなってきた。普段から頻繁に各課目のレビューセッションが開かれているのだが、Examが近づくとレビューセッションの出席率もぐんと上がる。今日はEconの「試験前総まとめ」的なレビューセッションが夜7:45から行われたためにそれに参加するも、少しく眠る。その後慌しくケースのモックインタビューをこなしてから、皆はホッケーの練習に出かけていったが、先日ひねった左膝がまだ治りきっていない僕は今日はホッケーには行かず、大人しく帰宅した。

 

最近このサイトのアクセス数がやけに上がったな、といぶかしく思っていたが、Haasに行っている友人Kさんが某メーリングリストで紹介してくれていたらしい。Kさんといえば、本日付のNIKKEI NETに彼が書いた"P2P蜂"に関する記事が載っています。"P2P蜂"って何だ?と思った方、是非読んでみてください。非常に興味深いです。

ところでKさんには先日のボストンではニアミスしてしまったので、久しぶりに会いたくなった。Kさん日本帰る?(メールで聞けよ)


12月14日(金)    授業終了

本日午前中のCorporate Communicationの授業で秋学期の授業はすべて終了した。あとは四つのFinal Examを残すばかりである(明日Macro Econ、日曜日Management CommunicationのTake Home、月曜日Decision Science、火曜日Capital Markets)。それが終わればいよいよ日本に一時帰国だ。

ここのところずっとメールでやり取りをしていた帰国後のインタビュー日程がようやくほぼ固まった。当初考えていた「年末年始を家族でのんびり」というプランとはだいぶ違ったものになりそうだけど、これだけ集中してインタビューを受けられる機会もそうそうないので、楽しんでくる所存なり。

さて、EconのFinal Examに向けて勉強をしますか。しかしどうもOpen Bookだと勉強する気になれないんだよなあ。(前回の反省が活かされていない)


12月15日(土)    Econ Exam とワインパーティー

EconのFinial Examは特に難問奇問が出るわけでもなく、極めてオーソドックスな問題ばかりであった。「奇問」といえば、試験の最後にこんな問題がついていた。

「バーナード教授のマスコット"Sock Monkey"に名前を付けなさい」("Sock Monkey"というのはよく分らないが彼のマスコットらしく、よく小さなぬいぐるみをポケットに入れて授業している)
「○○大学ビジネススクール(今度二人いるMacro Econの教授のうちの一人が学長として転出するビジネススクール)のマスコットとして適当だと思うものを次の中から選びなさい」

ちゃんとそれぞれ5点ずつ配点されていました。

 

しばらく仮眠した後、夜は同級生のSさん夫妻宅で催されたワインパーティーに参加する。ファイナル真っ最中のため奥様だけ参加しているところも多く、何だか華やかである。今日のメインゲストは、ダートマスの学部で日本音楽を教えているというアメリカ人女性と日本人男性の夫婦。「長唄をこっちで一緒に出来る人がいなくて寂しい」という彼女の話から、TUCK一・二年生の中にお琴やら三味線やら小唄ならできる、という人間がいることが分り(一人は師範)、驚かされた。皆、色々とやってますなあ。日本人でありながら、そのへんをまったくできない自分をちょっと恥ずかしく思ったりもする。

深夜三時までお邪魔していたが、気が付いたらワインの空き瓶は合計十数本にもなっていた。それにしても、ホスト役のSさんの気配りにはいつもながら感服。ファイナルの最中にも関わらずパーティを企画してくれる余裕も素晴らしい。こういう人が将来偉くなるんだろうなあ、とワイングラスを傾けつつしみじみ思った。


12月16日(日)    Man Comm Exam

朝起きるとかなりの二日酔い。しかし今日はManagement Communication (通称Man Comm)のTake Home Examの締め切りがあるため、寝ている場合ではない。インスタント味噌汁(二日酔いには味噌汁でしょう)で気合を入れて、Take Home Examに取り掛かる。奮闘の結果、何とか締め切り一時間前の4時には3ページのレポート完成。指定は「3ページから5ページ」であったが、とてもじゃないけど、5ページなんて書けません。やっぱりライトアップ系の試験は苦手である。

夜は8時過ぎから行われたCapital Marketsのレビューセッションに参加するつもりが、これはすっかり寝過ごした。そして明日のDecision Scienceの勉強である。

【Take home exam奮闘中の書斎(窓の外は雪に覆われた裏庭です)】


12月17日(月)    Dec Sci Exam

今日のDecision ScienceのFinalも9:00-12:00の三時間。後ろの席には風邪をひいているらしく辛そうに洟をかみつづける男子学生。前の席には犬(三時間寝ていた)。試験が始まってすぐに問題をパラパラとめくり、「ああ、三時間もあれば楽勝だな」と、Eメールなどを書いたりしていたところ、あやうく時間が足りなくなる。終了間際にようやく指定されたLANドライブにEXCELファイルを何とか保存することができた。

今日の試験で面白かったのは、試験中の訂正や追加指示が教授からすべてEメールで送られてくること。したがって試験中もメールはチェックしなければならない。ついでに友人・家族からのメールも入っていたりすると当然読んでしまう。読むと返事も書きたくなる、というわけだ。

 

三時間の試験の間に外はすっかり雪になっていた。いつものように図書館にこもって明日の試験勉強をするつもりだったが、夜まで学校にいると車が出せなくなるのではないか、と思いそのまま帰って家で勉強することにする。まだ除雪車の出動も間に合わない町は、文字通り一面の白。十年前に行った網走の町をふと思い出した。

さて、あとひとつ。


12月18日(火)    Final Exam終了

今日のCapital Marketsの試験でFinal Examもすべて終了した。今回の四つの試験では最も難しく、解いていてまったくすっきりしない試験だった。どうだ、解いたぞ、感はほとんどなく、「これでええんでしょうか?ねえ?」と思いながら解き進めるタイプの問題ばかり。まあ、終わったんだからいいが。

試験後は日本人同級生で集まって来年の一年生向けのTUCKガイド作成の打ち合わせ。昨年は生活の立ち上げの際にかなりこのガイドにはお世話になったので、恩返しの意味もこめて新しいものも是非いいものにしたいところである。その後はTさんとスタディルームにこもってホームページ企画の作業。

夕方6時からは、一年生の秋学期終了を祝い、我が家で打ち上げをする。今日午後からNYの投資銀行をまわる"Finance Trip"に多くの一年生が出発してしまったため一年生の参加者は少なかったが、そのかわりに二年生とその家族がたくさん参加してくれた。この狭い、ソファもないSachemの我が家のリビングで12人で床に車座になって飲む。

 

これにて秋学期終了である。MBA二年間の修学の25%が早くも終わってしまった。この三ヶ月、何だか輪っかの中をぐるぐる回るねずみのように、あるいはランニングマシーンの上のおっさんのように走りつづけていた気がする。深くモノを考える時間もうまく持てなかったような気がする。視点はどんどん下がって気が付くと地面にはいつくばりそうな場所ですべてを見ていたような気もする。もちろん遠くなんて見えようもない場所で。休暇の効用というのは、この下がりきった視点を引き上げて高みからもう一度ものを考えることだろうし、三ヶ月間マシーンになりきっていた反動は、よい意味で働いてくれるかもしれぬ。

三ヶ月前、秋学期が始まって間もなく家族が日本に帰宅した夜。こんなことを書いていた。

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次に家族がやってくるのは12月半ば。その時には既にハードな秋学期も終了しており、僕はだいぶMBA学生生活にも慣れており、当地には時に零下20度を下回るという冬が訪れており、自宅のまわりもすっかり雪景色に変わっているはずだ。この三ヶ月間が正念場である。英語力も飛躍的に向上させないと話にならない。
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その後予定は変わり、家族が渡米する前に僕が帰国することになった。秋学期は予定どおり終了した。僕はMBA学生生活にも慣れた、といえるかもしれない。零下20度はまだないが、零下10度を下回ることは何度もあり、自宅のまわりはすっかり雪景色に変わった。英語力は、まだ話にならないレベルであがいている。

色々と考えることはあるけれど、もう少し整理してみたい。


12月19日(水)     イルミネーション

何もしなくて良い一日。昼過ぎまで何度も目覚ましを消しながら寝ていた。寝ることが好きであることには変わりはないようだ。

午後からホームページ企画の最終作業をし、夕方Tさんとアップロード。何とかハノーバーを離れる前に目処をつけることができて一安心である。夕食はTさんと"Panda House"にて。

 

娘が来たら遊ばせてやろうと思い、ソリを買いにKマートへ行ってみたが、すさまじいばかりの車の列に嫌気がさして、"Ames"というややショボめの店(現在更生法適用中)に行ったところ、やはりソリは売っていなかった。

今日あらためて思ったが12月に入ってからの町のイルミネーションが美しい。メインストリートの木々も電飾で飾られているし、ダートマスグリーンにある大きなクリスマスツリーのイルミネーションもなかなか見事だ。普通の家々も庭の木やテラスに電飾で飾り付けをしている。いつの間にできたのか、「電飾屋」さえ何軒かWest Lebanonのモール街に建っている。緯度の比較的高いこの町では長い時間イルミネーションを楽しむことができるし、他に明るい街の光などが存在しないから、尚更美しく思えるのだろう。

電飾で飾っている家はだいたい2割程度だろうか。飾り付けをしている家はきっと子供のいる家庭なのだろう。老夫婦が自分達のためにわざわざ電飾で飾り付けをしているなんて、なんだかぞっとしない。

例えば。。。。

我が家を建ててちょうど40年目のクリスマスを迎える老夫婦が、ふとした話から久しぶりにクリスマスの飾りつけをしよう、ということになる。早速イルミネーションを買いにでかけるが、当時とは違ってすっかり電飾の色や種類が豊富になっていることに驚く。休日の昼過ぎから飾り付けを始めた老夫婦は慣れぬ脚立などを使って四苦八苦したあげくに、あたりが薄暗くなる頃ようやく家の飾りつけを終える。

「よし、じゃあ、いくぞ」

そう老紳士が言い、スイッチを入れた瞬間、暗闇に包まれていた庭が眩いばかりの柔らかな明かりに包まれる。声にならないため息を漏らす老婦人。イルミネーションの光に照らされた顔が小さな子供のように輝いている。

「きれいですね」

「きれいだね」

「久しぶりですね」

「うん、久しぶりだね」

夫婦だけの短い会話。

「覚えてますか。まだあの子たちが小さかった頃、同じようにいつも夜までかかってあなたが飾り付けをしてくれたんですよね」

「ああ、でもあの木はまだ私の肩くらいまでしかなかったから、今日ほど大変じゃあなかったよ」

しばらくの間夜の闇に浮かび上がった庭の木々を眺めている二人。

「今日は久しぶりに子供達に電話でもしてみるか」そっと老いた妻の肩に手をおいて老紳士はそう呟き、ゆっくりと家に向かって歩き始める。

。。。。

いい話じゃん。やっぱりありかな、こういうのも。


12月20日(木)      ボストン ローガン空港へ

散髪に行ったり、パッキングをしたり、買い物をしたり、ハウジングオフィスに10日間不在の連絡をしたり、一日慌しく過ごした。ハウジングオフィスへの不在の連絡は厳寒の当地では特に重要である。住人不在の間にセントラルヒーティングが故障でもしたらあっという間に水道管が破裂して大変なことになるからだ。"Heat Watch Candle"なるものを窓際に置いておく。華氏50度を下回るとこれが自動的に点灯し、定期的に巡回している職員がチェックできるようになっているらしい。

【不在の間 家を凍結から守ってくれるHeat Watch Candle】

午後5時発のハノーバー・ボストン間の定期バス"Dartmouth Coach"でボストン・ローガン空港へ。三時間ひたすら寝ていた。

現在ボストン ローガン空港に隣接しているヒルトンホテルでこれを書いている。プライスラインでここを取ったら50ドルであった。定価の4分の1近い値段である。ホテルに関してはもはや通常の値段でなんてばかばかしくて泊まれない。

いよいよ明日は日本である。自分の目に映る日本はいくらか変わって見えるのだろうか。


12月21日(金)     カナダ上空にて

ニューヨークから成田に向かう機中でこれを書いている。現在カナダの上空一万メートル。眼下には何もない、ただただ雪に覆われた凍てついたカナダの地平。

時差の関係で成田に着くのはもう12月22日の午後である。ほとんど空白の12月21日だ。

それにしてもエコノミークラスの座席ってこんなに狭かっただろうか、というほど狭い(決して普段ビジネスクラスに乗りなれているという意味ではありません。念のため)。ラップトップはまるで「お腹の上に乗せている」という状態であるし(ラップトップが乗るほど腹が出ているわけではありません。これも念のため)、手を伸ばせないためピグモンのような状態でキーボードをタイプしている。

東京へ向かう飛行機の乗客は日本人の乗客が半分強ほどか。時期がまだ早いためかビジネスマンや家族連れはあまりいない。ほとんど若者の年末帰省のようだ。空港などでの彼らの行動を見ていると、二派に大別される気がする。ひとつは、じっと腕を組んで瞑想しているか本を読んでいる(だいたい一人)派。だいたい楽器やら何か大きな荷物を抱えている。もうひとつは床にだらしなく座り込んで仲間うちで笑いあっている(だいたい4−5人)派。両者とも茶髪が多いことは共通。前者は堂々としている者が多いが、後者はアメリカ人に話し掛けられると途端におどおどしていたりする。

うっかり窓際の席を取ってしまったため、トイレに向かうのもままならない。しかしそのおかげで、自分のホームページで長い間作りかけのままになっていた受験体験記などをかなり作ることができた。(何だか隣の日本人女性がずっと画面を見ているような気がするなあ)


12月22日(土)    日本へ

長い長いフライトの末に日本へ到着。成田に迎えにきた嫁さんと久しぶりに再会する。

銀座へ向かい夕食を取る。アメリカと違って食事がうまい。

久しぶりの日本で感じた表層的な事柄-----女性が段違いにおしゃれで綺麗である。不況とはいえ、やはり街にはエネルギーがある。人が多い。電車で皆寝ている。携帯のメールの普及率がすごい。食事がうまい。物価は高い。電飾看板がケバケバしい。店員の礼儀が素晴らしい。ブランド品の所持率が凄まじい。----表向きはどこまでも豊かな幸せな国民に見える。


12月23日(日)    娘との再会

昼過ぎ嫁さんの実家へ行き、娘と三ヶ月半ぶりに再会する。久しぶりに会った父を見て、足をばたばたさせながら「あっ!あっ!」などとと言っているものの、なかなか照れて近寄ってくれない。手を伸ばしても嫌々をするので、どうなることかと心配したが、その後は意外にも数分でまたなついてくれた。

それにしてもたった三ヶ月の間に丈が随分と伸びていることにびっくり。おむつももうしていない。言葉も当時よりもずっとしっかりしている。長い言葉をしゃべるしゃべる。父がアメリカで三ヶ月間に得た遅々とした成長とは比べ物にならない成長ぶりだ。

しかし。

「サンタさんからクリスマスプレゼント欲しい?」
「うんっ!ほしい」
「何が欲しい?」
「んーとね。おまんじゅうっ!!」

そんなもんでいいのか?


12月24日(月)    クリスマス・イブ

にぎやかなクリスマス・イブだった。嫁さんの実家、嫁さんの弟夫妻、そして我が家の9人で、近くにあるビアレストランに行き食事をしてきた。自家製のビールを出すというのが売り物のこの店、料理の方は何でもない店のはずだが、うまく感じる。ハノーバーにあれば、大繁盛店になるはずである。本当にアメリカの食文化というものは貧弱だ。「食文化」があるかどうかも疑わしいが。隣人I氏は、アメリカ料理を「あんなの餌じゃん!」と切って捨てる。その割にアメリカ人は料理番組が好きなようでさまざまな料理番組が放映されているのは不可解なり。自分になきものを求めるのかもしらん。日本の「料理の鉄人」も、そのまんま「アイアンシェフ」として放映されており結構人気があるようなのだが、出演者皆が吹き替えの中で加賀丈史だけが字幕であること、実況アナの名前が英語吹き替えでも「フクイサン!」であることには笑わされた。

さて、帰国した途端に飛び込んできた東シナ海の不審船問題。今まで北朝鮮による密輸入や拉致、中国軍艦による日本近海の測量行為などやりたい放題やられ、舐められっぱなしであっただけに、ようやく、の感はあるが、実に正しい行動であったと思う。某大新聞の論説委員氏が、「排他的経済水域でこういう行為を行ったことは問題ですよ。アジア諸国の対応が心配です」としかつめらしい顔で抜かしていたのには呆れ果てたが、マスコミの支配的論調とはならずホッとした。


12月25日(火)     接客?

本日の就職活動はランチを取りながらのインフォメーションミーティングのみ。7名のMBA一年生が参加していたが、その中には同級生Tさんの姿も。何とはなしに気恥ずかしいような気になってしまうのだった。

その後、埼玉県杉戸町にある実家に大荷物を抱えて移動。一足先に八王子から移動していた嫁さんと娘、それから姉一家とも合流して食事する。娘も久しぶりに会った従姉妹三人と畳の上を走りまわって大はしゃぎであった。

 

ところで、うっかりアメリカからレジュメを持ってくるのを忘れていたことに気づいた僕は、途中虎ノ門のKinkosに立ち寄ってレジュメのプリントアウトをしてきた。赤外線ポートなどもあり「便利になったなあ」と感心していると、後ろの席で色々と質問していたサラリーマンに若い男の店員がいきなり「切れて」いる。「だからさぁー!そんなの自分でやってもらわなきゃ困るんですよっ!」

「あーあー。まったく最近の日本の接客はどうなっちまったんだ」と呆れつつ、ノートPCから赤外線ポートを通じて共有フォルダに移したレジュメをプリントアウトしようとすると、店のPCがパスワードでロックされていて起動できない。店員のお姉ちゃんに、「すいません。これパスワードでロックされているんですが」と言ったところ、今度は僕がいきなり「切れ」られた。「何ですか!赤外線ポート使ってたんじゃないんですか!なのに何でそっちのPC使うんですか!まったく、訳分かんないよ!」店長らしき男性が「まあまあ、そうエキサイトしないで。お客さんなんだから」となだめているが、こちらとしては、ただただ唖然、である。開いた口がふさがらぬ、とはこのことだ。

つい先日日本の店員の礼儀は素晴らしい、と書いたばかりだったが、早速撤回。これではガムかみながら舌打ちしてレジを打つアメリカの店員の方がよほどマシである。こうなるともはや「接客」とか呼べる代物でさえない。憤りを感じるよりも、得体の知れぬ若い店員達に恐怖に似たものを覚えた。

おかしい。日本。なぜそんなに殺伐としている。


12月26日(水)    師走の東京の一日

午前中、某コンサルティング会社でシニアマネージャー・パートナーとそれぞれ一時間のケースインタビュー。二人とも「できた人」かつ「できる人」とお見受けした。普段できない会話を二時間もできて楽しかったのではあるが、残念ながらインタビューの出来の方はあまりしっくりこなかった。特にパートナー面接では通常の雑談からいつの間にかケースの質問に変わっていたことに気づかず思い切り雑談トーンで応酬してしまうという失態をのっけから演じる。

夕方は帝国ホテル内の喫茶店で某企業のプロダクトマネージャーの方と二時間のフィットインタビュー。これまた楽し。

昼はMBA友の会のIさんと有楽町で寿司。夜は古い知人と新宿で食事。久々に会えて懐かしかった。

盛りだくさんの師走の一日だった。

それにしても新宿を午後10時過ぎに出て埼玉の実家にたどり着いたのは既に日付が変わっていた。純粋にコミューティングに使用した時間、片道二時間。ハノーバーからボストンまで毎日通っているようなものである。


12月27日(木)    今日もインタビュー

今日も某コンサルティング会社にてケースインタビュー二本。普段あまり頭を使ってないので、二時間頭をフル回転させてぐったりと疲れる。しかし、さすが某社。室内の調度品やコーヒーカップ・ソーサーなどが一流品であることに妙に感心する。

ところで現在実家のADSLを借りてこのホームページの更新などをしているのだが、実に快適だ。普段Sachem Villageの遅いダイヤルアップに慣れているので、尚更である。まさかアメリカに行ってダイヤルアップしかないとは思いもしなかったが、アメリカでも田舎の方ではまだまだブロードバンドはカバーしていないところも多いらしい。ただし、Sachemも建て替えがなった暁には学校のイーサーネットにつながるらしいので、ご安心ください。

日本に来てから大学のメールアカウントの調子が悪い。メールに返事を出せていない皆さん、すいません。


12月28日(金)    表敬訪問

本日もまた某コンサルティング会社にて説明会およびケースインタビュー二本。さすがに三日連続ともなるとかなり「場慣れ」してきたようである。また、四日間で四社のインタビュー・説明会に出席したのだが、一口に戦略コンサルティングファームといっても各社各様のカラーがあるもんですな、というのもだいぶ分ってきた。

途中、以前働いていた会社に顔を出し、久しぶりに元上司・同僚と会う。退職してから既に5ヶ月以上経っているとは信じられないほど、何だかそこにいることが自然に思えた。当時のまま変わっていない会議室で色々と話しを聞きつつ、しかしやはり着実に色々と変わっていることも知る。元上司によると「ホームページをいつも見ているから、改めて聞くようなこともないよ」のとこと。たしかにそれはホームページを作ることの功罪といえる。その一方で、このホームページのお陰だったこともある。元同僚からEカラカートリッジをクリスマスプレゼントとしてもらったのだ。「兄弟船」が入っているカートリッジが売切れだった、という記述をこのホームページで読んだためにわざわざそれを買ってくれた、とのこと。ありがとうございました。歌います。

一時間ちょっとお邪魔してまたインタビューに戻る。それにしても、当初元職場の忘年会に参加させてもらうことになっていたのに当方のスケジュールの関係でキャンセルせざるをえなかったのは実に残念なことだった。

会社の入っているビルには渡米前にはいなかったガードマンの姿がある。近くにアメリカ大使館があるため、周辺道路に歩哨に立つ警察官の数もすごい。911以前の基準で言えば大統領来日時の特別警護レベルの警護を毎日行っているようなものだ。この状況はいったいいつまで続くのだろうか。TUCKのあるハノーバー界隈にはテロの警備をする必要のあるものなど皆無であり、テロ対策の警備をする警察官の姿を見かける機会もまったくない。東京というのはアメリカの田舎よりもテロの標的となるリスクの高い都市なのだ、と今さらながら実感した都心での就職活動四日間だった。

とりあえず、これにて今回の年末帰省の所期の目的であった就職活動は終了である。明日からは純粋に日本の年末年始の空気を満喫しよう。


12月29日(土)    鬼怒川温泉

実家から電車で二時間の鬼怒川温泉へ来ている。両親が「温泉に行きたかろう」ということでセットしてくれたのだった。ハノーバーにはない、思い切り足を伸ばせる大浴場、露天風呂、畳の客室、日本食、そして熱燗。。。ああ、日本人で良かった、と思える時間だった。

風呂につかりながら今後について色々と考えた。あまりに長く考えすぎてのぼせたしまった。そういえば、風呂につかることのない欧米では「のぼせる」という概念自体を知らないのではないか、とふと思った。


12月30日(日)    猿

旅館からほど近い日光猿軍団にてお猿のショーを見る。娘も大喜び。その後は再び八王子の妻の実家に移動する。

いよいよ2001年も残すところあと一日。


12月31日(月)    そして2001年も暮れる

どの局でも「2001年を振り返る」調の番組が放送されている。共通するトーンは、「激動」「不安」「閉塞感」。経済・社会ニュースはほとんどすべてが暗いニュースで占められた一年だったことを改めて思う。そして極めつけのテロ。来年はどうやら良い年になりそうにない、しかし少しでも良い年であってほしい、そういうトーンを出すべく番組作りがなされていた。

しかし同じ一年を斬るにしても、米国から見たそれと日本から見たそれとはまた随分と違うものになるもんだ、と実感した。イスラムや第三世界からの視点も加えればその違いは更に際立つだろう。また、それぞれの国の中にも個人の数だけ違う2001年があったのだろう。誰にも2001年はあったのだが、それはどれひとつとして同じではない。

永遠につづくかと思えた2001年は、しかしその実あっという間に過ぎていった。そして2002年もおそらくはそうであろう。あっという間に過ぎ去ってしまうであろう来年という一年が、少しでも良い方向へ向かうよう。

【モノレールの車窓から見る2001年最後の夕闇に浮かぶ富士】


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