MBA留学日乗 20029     | ホームへ |      | 前月へ |  | 翌月へ |  


9月1日(日)      多摩川べりで

9月になった。サマーインターンのための日本滞在も足掛け四ヶ月目に入る。

MBAの受験勉強をしていた頃、受験仲間達と情報交換などのためのメーリングリストを作っていた。今日は多摩川の河原で、その友人達と久しぶりの「バーベキュー同窓会」である。当初予定していた二子玉川界隈はバーベキュー禁止だということで、丸子橋界隈まで移動してセッティングをする。

抜けるような青空は絶好のバーベーキュー日和だったのだが、如何せん河原を吹く風が強すぎる。急いで食べないと肉が砂まみれになるし、炭はあっという間に消えてしまうし、でなかなかうまくいかなかった。ついついバーベキューをほったらかしにして、短パン一枚で多摩川で水泳に勤しんでしまう。泳ぎながら、14年ほど前に僕がこのあたりに住んでいた頃に比べて、多摩川の水が比べ物にならないくらい綺麗になっていることに感動した。

日が傾いてきて、最後に河原で西瓜割りをしようと流れの方へ歩き始めた。川へ近づいていくと、周囲の人間が皆何やら一方向を見つめている。川の中心部には数人の男達が固まっていて、こちらに向かって何か叫んでいる。そうこうしているうちに、パトカー、消防車、救急車が集まり、ボートが川の中心部のあたりの捜索をはじめ、ヘリコプターが上空を旋回しはじめた。誰かが溺れたらしかった。それから一時間以上が過ぎても、ボートの上からは竿のようなもので川底をさらい、ダイバーは潜水を繰り返していた。もう奇跡でもなければ、生きていないのだろう。つい先ほどまで自分が泳いでいた場所で、溺れた人の捜索をしているのを見ているのは何とも言えない気分だった。

だいぶ時間が経ち、丸子橋の上にも人垣が出来始めた頃、突然二十歳前後の金髪の若者三人組が川に向かって飛び込んだ。捜索に加わるつもりなのか、と一瞬思ったが、どうも単なる目立ちたいがための行為のようだった。警察の「すぐに川から上がりなさい」という警告を無視して、悠々と川の反対側まで泳ぎきった奴らはやがて川岸に繋いだボートに乗り込んでボートを出そうとし、警官から怒声を浴びせられて引き上げていった。成人式で飲んで騒ぐ馬鹿と同じ種類の行為である。「いちびり」である。彼らはいつも一人ではできず数人つるんではじめてその種の行動をする。体は二十歳かもしれないが、精神は5−6歳にも達していない。奴らには、たった今そこで人がおそらく溺れ死んで、いまだ川底に沈んでいる、ということに対する何らの思いもないのだろう。こんな幼稚な、馬鹿な若者が日本以外に果たしているのか。


9月2日(月)       変化する組織

昼休み、飯倉片町まで出かけて先日の飲み会で会えなかった元同僚二人とランチをする。久しぶりに会った二人と話をして、この一年の間に会社もだいぶ変わりつつあることを感じた。一年という一定の時間内に組織内で起こる変化の量は、ある意味でその組織自体の持つアジリティに依拠しているのだと思う。同じ一年の間でも、「速い組織」の変化は激しく、「遅い組織」の変化はおそらくごくわずかでしかない。また、ある同じ組織を定点観測してみると(その組織の持つ相対的アジリティは一定であったとしても)、この十年の間に単位時間あたりの変化量は間違いなく増大しているのだろう。乗数的に、幾何学級数的に、今後もその変化量は増大していくだろう。何のために組織はそのスピードを速めていくのだろうか。外部環境変化に対応するため?ではなぜ、外部環境はその変化の速度を速めているのか。

午後からクライアント企業へ移動して仕事。入館カードを作ってもらってだいぶ「よそ者感」が消えてきたのだが、もう今週一杯でこの仕事も終了なのだった。

夜は某社にてインタビューを受ける。


9月3日(火)       あと三日

9月というのに猛烈に暑い一日。クライアント先で朝から晩まで分析作業に没頭する。現在従事しているプロジェクトは四週間の短期プロジェクトなのだが、実は正式なプロジェクト契約期間は僕の四週間のインターン期間よりも一週間後ろにずれており、最終報告会は来週金曜日である。つまり、僕がいなくなった後は、パートナーとマネジャー2人だけですべての作業をしなければならない、というわけだ(普通はコンサルタントが1−2名にアナリストが1人はつくもんらしいです)。そんなわけで、「君がいるうちにできるだけ先に進めておいてほしいなあ」的雰囲気(プレッシャー?)をひしひしと感じるのもむべなるかな、なのだ。

インターンも残り三日。早くハノーバーに戻りたい、と思った時期もあったのに、いざその時が近づいてくると何だか日本を離れるのが寂しいような気もしてしまう。自分の所有にかかるものよりも、既にその手から離れてしまったもの、離れていきそうなものが惜しく思えてしまう、ということなのか。


9月4日(水)       リユニオン

仕事を終えてから銀座でTUCKのひとつ上の学年だった四名の先輩達と飲む。身長190センチを超える大男で何かと面倒見のいいKさん、U君のパパとして有名なSさん、旦那さんと揃って留学されていたMさん、先週金曜日にも飲んだNさん、の四人。私費留学をして就職されたのが二名、派遣先に戻っているのが二名である。銀座の飲み屋で、ハノーバーで見慣れていた短パンにTシャツ、あるいはジーンズにフリースといった格好とはまるで違うスーツを着た先輩達から、それぞれの「その後」の話を聞いているのは、とても不思議な感覚だった。長い人生の中ではほんの一瞬にしか過ぎない留学生活。しかし、そこで出会った我々にとっては留学生としてのお互いの姿が、何よりも自然なものに思えるのだ。

そして、今日も口々に「いいなあ。あと一年あるんだよね」と言われた。この夏、数十名の留学経験者と会って話をしたが、その多くが異口同音にそう言っていた。「大変だな。あと一年もあるんだよな」と言う人は一人もいなかった。大変なことも含めて、後から思い返してそれだけ輝いていた月日だったのだろうな、と思い、残りの一年を大事に大事に過ごさねば、と思うのである。

最後は二次会のバーで看板まで飲んで帰宅する。

Deanより、「まだオフィシャルになっていないからおおっぴらには言えないんだけど、Wall Street JournalのランキングでTUCKが二年連続1位に選ばれたそうです。嬉しいなあ。」というメールが届いていた。


9月5日(木)       送別会

今週かかりっきりになっているM&Aによる統合効果を定量化するモデルをひたすら作る。何とか明日にはマネジャーに引き継ぎが出来そうな目途がついてきた。ここでもTUCKでやったモデリングのスキルが思い切り役にたっている。しかもエレクティブでやったモデリングでは、まさに今やっているような、種々の設備投資が事業価値に与える影響をシミュレーションし、M&Aのオファーを受け入れるか否かを決定する、というテーマを、マルティン、ジム、ペドロとひいひい言いながら夜中までやっていたのである。こんなところで役にたつんですなあ。

夜、マネージャーと、最近一緒に仕事をするようになったもう一人のマネージャーが、もんじゃ焼き屋で送別会を開いてくれた。もんじゃ焼き、間違いなく来年まで食べられないだろうな、と思いつつ、はふはふと食いまくった。うまかった。二人には、なぜこんな仕事をやってるんだろう、何がこの仕事のやりがいなんだろう、的な話を詳しく聞いてみた。実に楽しい会なり。

ついにあと一日。


9月6日(金)       インターン終了

14週間に及んだ全インターン期間の最終日。

午前中からクライアント先で、マネージャーとばたばたと引継ぎをする。最後のランチはマネージャーお勧めのそば屋で、これからしばらくはこんなおいしいそばは口にできないだろうな、とまたも思いながらざるそばを食す。クライアント先の人々に挨拶をし、夕方からは久しぶりに自社のオフィスに戻って最後の事務処理。お世話になった方にメールを送り、リクルーティング担当者と面談をし、四週間使った入館カード・館内PHSなどを社内便で担当者へ送り、午後六時過ぎにオフィスを出た。

会社近くで14週間のインターンの疲れを癒すべくマッサージを受けてから六本木へ。前の会社の同期との久しぶりの同期会である。現在ドイツ駐在となっている一人を除いて久しぶりに皆で飲んだ。元「同期」である妻も一緒だ。一次会で12時前まで飲んだ後は久しぶりに朝までカラオケをした。入社間もない頃、こうして彼らと明け方までよく飲んでいたことを思い出した。明るくなった六本木の街からタクシーで妻と湯島へ帰る。


9月7日(土)       八王子へ

明け方帰宅し、二時間強の睡眠時間でまた外出する。某企業でインタビューを受けるためである。都心某所のオフィスでの創業社長と二時間ものロングインタビュー、であったが、その実社長がほとんどの時間を喋っていた気がする。起業家特有のオーラを持った社長の語るビジョンはとても興味深く、つい話に引き込まれた。

夕方、パッキングをしたスーツケースを成田へ送り、四週間暮らした湯島のマンションを引き払う。電車で八王子の妻の実家へ移動して、二週間ぶりに娘と再会した。


9月8日(日)       サマーインターンを振り返る

最後の週末の日曜日は妻の実家でのんびりと過ごした。娘と家のまわりを散歩したり。

6月の初旬に日本に帰ってくる時に、帰りのチケットに書かれた"SEP 9"という文字を見て、「三ヵ月後か。随分先の話だなあ」と思ったことを思い出す。3ヶ月強にもなるこのサマーインターン期間はとてつもなく長く思えて、そして正直に言うと少し気が重かった。

この14週間のサマーインターンにおけるStatistics。

日本に滞在した日数、ちょうど100日。働いた日数、77日(うち休日出勤7日)。飲んだ回数、31回。カラオケに行った回数、11回。出会った人々、189人(神戸で133人、東京で56人)。読んだ本30数冊。訪れた都市、10都市。

この間に夏が始まり、そして終わった。色んな体験が凝縮された三ヶ月だった。この留学のことを振り返る時には必ず思い出すだろう三ヶ月間の夏。

明日の飛行機で101日ぶりにハノーバーへ帰る。


9月9日(月)       101日ぶりのハノーバー

朝6時前に家を出て成田へ向かう。僕は午後4時50分のユナイテッドで成田を発つのだが、午前11時過ぎのJALでアメリカへ向かう妻と娘の時間に合わせたためである。一足早く発つ妻子を見送って、のんびりとビールなどを飲む。

フライトの間は、コンサル会社のマネージャー推薦の三枝匡著「V字回復の経営」と、TUCKのT氏推薦の「ニューヨーク流たった5人の大きな会社」を読んだ。さらに卒業後のキャリアを決める上で考えておくべきこと、などをノートに書き出していく作業を延々とやっていた。大学ノートに10ページ近くにもなった。

行きの飛行機の中では、この夏のインターンを経験すれば、おのずと卒業後の選択については自分の中で決まってくるもの、などと考えていたが、結果は逆に色々な選択肢が新たに見えてきて、拡散に拡散を重ねた三ヶ月だったように思う。かえって混乱を極めたような。もうこれから数ヶ月以内には最終的な答えを出さねばならないのだし、そのためには一旦拡散しきったものをこれから頭の中で収束させていかなければならない。

シカゴの入国審査官の、ボストンのマクドナルドの店員の、バスのチケット売り場の姉ちゃんの、アホ丸出しで横柄な態度に接して、「ああ、アメリカに帰ってきたなあ」と思う。運転手一人に乗客一人というダートマスコーチでハノーバーに着いたのは深夜12時前。一足早く到着していた妻子が車で迎えに来ていた。

暗い街灯の下で見た101日ぶりのハノーバーは何も変わっていなかった。インターンの間に引越しをしていたSachemの新しいユニットに帰る。見覚えのない部屋なのに、なぜか「自宅に帰ってきた」という感を抱く。


9月10日(火)      ハノーバーの夏

時差ぼけで8時台に目覚めた。窓の外は眩しい朝の光。朝食をとって娘を家の前の公園で遊ばせていると、同じく子供を公園で遊ばせるために同級生のポールがやってきた。ニューヨークで12週間のインターンを終えて帰ってきたという。

真夏のような日差しの中車をぴかぴかに洗い、家族で食料品の買出しに出かけた後は、T内氏と近くの池へ出かけて泳ぐ。池といっても、人工の砂浜や芝生エリアなどのあるかなり大きめの池であり、たくさんの人々が水着姿で泳ぎに来ていた。

夕方からはドライビングレンジでの打ちっぱなしに家族で出かける。帰宅後、暗くなりかけた公園で娘を遊ばせていると、TUCKの一年生の奥さんという人が赤ん坊を遊ばせに来ていた。「毎日予習とスタディグループの繰り返しで、本当に大変そうなの。あんなのがこれから二年間もつづくのかしら」と言う。一年生は既に秋学期が始まっているのだ。去年の今頃のことを思い出し、もうあれから一年が過ぎたんだなあ、と思う。「大丈夫。秋学期が終われば、金曜日も休みになるし、だいぶ楽になるはずだから。秋はinitiationのようなものだよ。」などと答える。

明日からは秋らしく少し冷え込むらしい。最後にハノーバーの夏の残滓のようなものを一日だけでも味わえてよかった、と思う。


9月11日(水)     「あれ」から一年が過ぎたなんて本当なのだろうか

、と思う。

二時間目の授業に向かう途中の教室のスクリーンに大写しにされ、黒煙を上げつづけていたWTC。言葉もなくただそれを見つめていた自分、そしてTUCK生達。渡米からわずか一ヶ月後に見たあの光景はおそらく一生忘れられないものだ。自分の頭の中ではついこのあいだのことなのに、間違いなくあれから一年が過ぎたのである。

今日のハノーバーは、あの日とはうってかわって強風の吹き荒れる雨模様の空。しかし、テレビで中継される式典の背景に映るNYやDCの空は、あの日と同じ、「クリスタルブルー」の青空だった。その背景の前で、FOXは相変わらず衆愚を煽る番組づくりをしていた。

「あれ」は、NYから車で四時間も離れた片田舎に住んでいた僕の中にさえある痕跡を残している。青空に伸びる高層ビルを見ると落ち着かなくなるし、WTCの写真や映像を見ると心が泡立つのを感じる。ましてNYに住んでいた人々、直接目撃した人々の心には大きなトラウマとなって残っていることだろう。そんな中で、この一年間飽きもせず繰り返されてきたテロを国威発揚へと結びつけるロジックに、さすがのアメリカ人も辟易しはじめているのではないかと感じている。

T'02のEさんがハノーバーに遊びに来たので、夜軽く集まって飲んだ。深夜のダートマスグリーンに一面の蝋燭が揺れていた。


9月12日(木)      二年目のRegistration

昨夜車を走らせていたら突然凄まじい排気音が聞こえてきた。暴走族か?と窓を開けてみたが、異音は明らかに自分の車から聞こえてきている。路肩に車を止めてみると、マフラーが完全に外れてしまっていた。今日は二年目のregistrationの日だったのだが、そんなわけで、元隣人I氏(お互い引越して隣人ではなくなった今も結構ご近所である)の車に乗せてもらってすべてを済ませたのである。registrationといってもやることと言えば、オンラインでチェックインを済ませ、学校でTシャツをもらい、写真入り名簿をもらい、MBAオフィスの面々に挨拶をするぐらいなのだが。

Registrationの過程で同級生と再会する。それらの邂逅を経て、少しずつマインドセットが”ビジネススクールモード”へと戻っていく。


9月13日(金)      履修科目決定

今日も元隣人I氏の車に乗せてもらい、今学期のコースパケットを取りに行く。色々と悩んだ挙句、結局今学期履修することにしたのは、"Database Marketing" "Sales Promotion" "Supply Chain Management" "Corporate Restructuring"の4科目。さらに、12月には海外の企業へコンサルティングを行う"Field Study in International Business"が入り、計5科目を履修することになる。Field Studyを除く4科目については、いずれもこのサマーインターンで深堀の必要を感じた事項ばかりであり、そういう意味でかつてないほど履修前のモチベーションが上がっている。一年目のすべてが必修科目であった時とは、学期前の精神状態がかなり違うのだ。

夜は今年初めてのTuck Tails。多くの同級生と再会の抱擁を交わした。


9月14日(土)      Korean & Japanese Party

韓国系アメリカ人Paul Lee主催による"Korean & Japanese BBQ Party"が、Paulを含むTUCK生4人がシェアする大邸宅にて行われた。「韓国人は韓国焼酎を、日本人は日本酒を持ってきてくれ」、とのことだったので東京で仕入れた日本酒と神戸のインターン先で餞別にいただいた日本酒を持って参加する。

TUCKの日本人学生は二年生11人、一年生7人、一方韓国人学生は二年生2人、一年生7人である。さらに数人の韓国系アメリカ人及び日系アメリカ人が参加していた。韓国人一年生の一人は、「日本人とは仲が悪いものだという認識があるので、韓国人と日本人が一緒にパーティーを開くというのを聞いて、最初はちょっとびっくりした。でも、こうして日本人と韓国人が楽しそうに盛り上がっているのを見ていると、とてもハッピーな気分だよ」と言っていた。昨年こちらに来て気付いたのは、日本にいて見る韓国と、アメリカにいて見るそれとではだいぶ違って見える、ということだ。そして、その逆もまた真であるようである。この二ヶ国は、色んな意味で近しい国なのだ、という当たり前のことを再確認させられるのだ。

同級生にお下劣な日本語を繰り返し教えて、大笑いした。久しぶりに日本酒と焼酎を痛飲した愉快な夜だった。


9月15日(日)      二年目スタート前夜

昼過ぎまで快晴だった空が、徐々に曇りはじめ、夕方からは土砂降りの雨になった。

いよいよ明日から二年目の秋学期がスタートする。一足早く秋学期がスタートしている一年生と違って、いまだに頭の中がサマーインターンモード(とそれにつづく夏休みモード)から学期モードに切り替えられないでいる。これも明日になれば否応なく適応せざるをえないだろうが。

明日から始まるMBA二年目は、おそらく、本当に、あっという間である。これからの八ヶ月強、後に悔いを残さぬよう、勉強面及びそれ以外の面でも自分で決めた課題を実現できるよう、精一杯頑張る所存。

隣の部屋では娘が大声を張り上げて「げんこつ山のたぬきさん」を歌っている。


9月16日(月)      二年目スタート

15:00-16:30のCorporate Restructuring、16:45-18:15のSales Promotionでビジネススクール二年目の授業はスタートした。妻にレンタカーで(我が家の車はまだ入院中なのだ)送ってもらいながら、「またこの日常が帰ってきたな」と思う。こうして行き帰りの助手席から日々を眺めていると、ありがたみを感じもしない当たり前のハノーバーでの日常、しかし過ぎ去ってから思い返せば、いやそもそも二年前に受験勉強をしていた頃の自分から思い浮かべれば、いかにも貴重な、特別な、日常だ。

Corporate Restructuringは企業価値を上げるために行うさまざまな(いわゆる「リストラ」でない、本来の意味における)リストラクチャリング手法を学んでいく、というもの。事業売却、撤退、スピンオフ、LBO、トラッキングストック、などなどを扱う。

明日のCorporate Restructuringで扱うバリュエーションの予習をしつつ、半年前に学んだ知識が既に褪せつつあることに焦りを覚える。このままでは三年後にはもう跡形もなくなっているだろう。もちろん学んだことすべてを覚えておく必要なんて全然ないのだが、それでも1から10まで資料を参照しているようでは、実戦ではお話にならない。やはり二年目は自分なりのまとめ作業を通常の授業と平行して行う必要があるなあ、と再認識させられた。

明け方、日朝首脳会談で拉致事件を金正日が認めたという記事をネットで読む。驚く。


9月17日(火)      「違い」に馴染むこと

今日も昨日と同じ2科目の授業を受ける。ところでSales Promotionの授業を受けていてあらためて思ったのであるが、こちらでは販促手段としてのクーポンがやたらと多い。新聞を取っていない我が家でも、投げ込みチラシだけでかなりの量のクーポンが入ってくる。教授曰く昨年一年間に米国内で投下されたクーポンの総額は約3000億円だとか。翻って日本ではクーポンなんてほとんど見かけないのである。いったいなぜなんでしょう?という話を授業が終わった後で教授とした。リテーラーが集約され尽くした感のある米国と、まだまだ中小小売店が多い日本では、クーポンの回収コストがまったく違うのだろう、というのがその場で辿り着いた仮説。米国では"Clearing House"と呼ばれるクーポン回収・計算代行業者がメーカーから手数料を取ってすべての業務を行っているのだが、日本ではClearing Houseのビジネスモデルが成り立たないほどコストがかかるのではないか、と。

クーポンに限らず、日米で違うものというのは山のように身のまわりに溢れている。今回の留学前に渡米経験が一度もなかった僕にとっては、留学一年目というのはそれらの「違い」に気付き、驚き、呆れつづけた日々だった。スーパーに行っても、車を運転していても、びっくりするようなことが頻繁にあったのだ。しかし、いつの間にかそれらの「違い」に僕は馴染んでしまったようだ。馬鹿でかいサイズの食料品も、蛍光塗料で彩られたケーキも、遺伝子組み替え食品への無頓着さも、土足というものへの意識の違いも、すべてすべて、いつの間にか僕は自然なものとして受け入れているのである。

「いつか書きとめておこう」と思いながらいつの間にか馴染んでしまったそうした「違い」、もう一度新鮮な目で見つめなおしてみようと思っている。


9月18日(水)      ジャック・ウェルチ来る

3月の来校予定が手術のため延び延びになっていたジャック・ウェルチがようやくTUCKにやってきた。スピーチはCOOK Auditoriumと呼ばれる講堂で行われたのだが、講堂にはTUCKの全学生450人を収容するだけのキャパはない。今回の訪問は一年生のコア・カリキュラムである"TUCK Leadership Forum"における"CEO Speaker Series"の一貫だということで、会場に入るのは一年生が優先、二年生はチケットを先着順でゲットしたものだけ、ということになった。チケットは昨日の朝8時から配布されたのだが、チケット確保よりも睡眠確保を優先してしまった僕は10時前になってようやく配布場所へ到着、MBA OfficeのKatieから「5分ほどで全部なくなったわよー」と笑われたのである。

「俺達3月から待ってたのに一年生が優先だなんて何だか釈然としないなあ」などと言いながら、結局彼のスピーチは隣接する教室の画面を通じて見ることに(後で聞いた話ではチケットがなくても皆中に入れたらしいのだが)。手術以来かなり痩せて、驚くほど老け込んでいたジャック・ウェルチではあったが、さすがカリスマ経営者、人を惹きつける話術を持っている。「未来は君達の手の中にある。君達は何だってできる。『勝つ』ことはすなわち善だと思いなさい。とにかく勝ちなさい。勝って、勝って、勝ちつづけなさい。」という最後のメッセージがCorporate Americaのカリスマたる彼らしい、と思った。

公演後は、Stell Hallでレセプション。彼を取り囲む人垣の中でジャックまで1.5メートルの距離まで近接したものの、結局何もできず。ボタンダウンにジャケットを羽織ったその姿は意外にも身長165センチほどしかなく、巨大コングロマリットの元CEOというよりもどこにでもいるおっさんに見えた。


9月19日(木)      フィットネスな人々

昨日・今日と授業があったDatabase MarketingとSupply Chain Management(SCM)はいずれも上々の滑り出しで今後が期待できる内容だった。特にSCMは、昨年のオペレーションでお気に入りのジョンソン教授の担当であるし、工場見学・在庫管理ワークショップなど楽しみな企画が用意されており、期待したい。

授業終了後、ウィットモア寮内にあるフィットネスジムのオリエンテーションを家族で受ける。一時間以上かかるこのオリエンテーションを受けないと、ジム内に入れないシステムになっているのである。たかがジムのフィットネスマシーンの説明に何で一時間以上もかかるのか、と思ったが説明が始まってすぐに納得。おっさんいちいち小ネタを挟むのである。「皆、6つに割れた腹筋(Six pack)にあこがれてジムに来るわけだけど、実際はこーんなビールっ腹になってるんだよね。ビールのsix packばかり飲んでるから。。。。アハハハ。」さらに、「いいか。このマシーンをこんなふうに乱暴に使っちゃ絶対に駄目だぞ!」とジム中に響きわたる音でマシンをガッチャンガッチャンいわせている。それも1つのマシンだけでやるのかと思いきや、11のマシンほとんどすべてで同じことをやっていた。「いいか、こんなふうに使っちゃ絶対駄目だぞ!」。。。おまえがやりたいんだろ。

オリエンテーション後は、妻子は車で先に帰してSachemの我が家まで徒歩で帰宅。車だと5分の距離が歩くと35分もかかる。しかし、この夏の日本滞在中にさらに体重をゲットしてしまった現状にやや危機感を覚え、スタディグループのない時は歩くことにしたのである。徒歩帰宅初日の昨日は、Sachemに帰る同級生が車で追い越すたびに「ヒロシ、何やってんだ?乗っていくか?」と止まってくれた。そのたびに、「いや、ちょっと運動が必要でさ」とか言っていたので、もう「ヒロシダイエット始める」という認識がSachemに広まってしまったかもしれず、三日坊主でやめると少し恥ずかしいかもしれない。

歩いて帰宅する途中、ジョギング中の同級生Ernestとすれ違う。一時期かなり太っていた彼も夏が過ぎたら驚くほど痩せていた。そういえば、我々がオリエンテーションを受けている時にジムで自転車を漕いでいたPedroも夏の間に食事と運動で10キロほど減らしたという。皆、忙しい一年目が過ぎてみて、我が肉体の変わりように呆然としたというところか。

夜、T氏宅にお邪魔しゲームなどをする。


9月20日(金)       どうもパッとせぬ一日

午後から図書館へ出かけて就職活動関係の作業をしたり、Database Marketingのassignmentをしたり。週休三日とはいえ、明日は一日家族で遊びに行く予定であり、あさってにはスタディグループがあるので、今日じゅうにできるだけ予習を進めておきたかったのだが、結局ほとんど進まなかった。

遊ぶでもなく、家族で過ごすでもなく、かといって思い切り勉強するでもなく、何だか煮え切らない一日。週休三日というのは、この「アサインメントを早く進めなければと気になっているけど、何となくダラダラしてしまう」という最低な状態に最も陥りやすいスケジュールであるので、気をつけければいけない。

帰宅後Sachemの広大な芝生のフィールドをジョギングしていると、ブラッド一家がフリスビーを投げ合って遊んでいる。「明日海に行こうと思っているんだけどどこかお薦めのビーチはあるかな」と聞いてみると、さすが「日帰り旅行王」であるブラッド、「それならハンプトン・ビーチだよ」と詳細なルート説明とともに教えてくれた。明日行ってみるとしよう。


9月21日(土)       Hampton Beach & Portsmouth

昨日ブラッドから教えてもらった、ハノーバーから車で二時間ほど離れたニューハンプシャー州の短い海岸線に位置するハンプトン・ビーチまで家族で遊びに出かける。インターステートを二時間走って辿り着いたハンプトンは、ビーチリゾートを絵に描いたような町。人を99%カットして、砂浜を10倍長くした白浜という感じか。9月も後半だというのに、太陽はじりじりと肌を焼き、皆水着姿で泳いでいる。まさか泳げるとは思ってもいず水着を持ってこなかった我々は、波打ち際で子犬のように遊ぶばかりである。

それにしても、あらためて、、、デブが多い。。。。日本であれば出現率0.1%未満水準のレアものであるべきデブが、30−40%の確率で闊歩している。しかも妙にキワドイ水着をお召しになって。すごいところだ、アメリカは。ついでに言うと、このビーチにおけるタトゥー率は日本の100倍、70歳以上の割合は日本の300倍はあっただろうか(そもそもここがリタイヤした人々が余生を送るための町であるせいなのかもしれないが。それにしても、日本のビーチはあまりにも「若者のもの」でありすぎて、70を超えたおばあさんが水着でいるところなんてあまり見たことがない。じいさんばあさんだってビーチに行きたいこともあるだろうに)。

【Hampton Beach :広く、長く、遠浅で、そして水が綺麗】

その後は海沿いの道を北上してPortsmouthへ。せっかくなのでポーツマス条約に関連する記念碑・記念館などがあれば見ておきたいと思ったのだが、そもそもポーツマスまで来る予定を組んでいなかったので下調べも何もしていない。日本人にはポーツマス条約の締結地として有名なこの土地であるが、アメリカ人にとっては「ポーツマス条約?何それ?」ということであるようで、何一つ手がかりを見つけられなかった。結局ダウンタウン・海沿いを散歩しただけで帰路についた。

ところで、ポーツマス条約の後に起こった日比谷焼き討ち事件を思うと、いつも世論というもののいい加減さ、また裏返しとしての恐ろしさというものに思いが至る。南樺太の割譲・朝鮮半島における日本の優越的地位の確認・沿海州漁業権の日本への付与、など明らかに日本を戦勝国として扱ったこの条約の内容は、大国相手の戦争に疲弊しきっていた日本にとっては(ロシアが革命前夜で混沌としていたことを加味しても)相当高く評価してしかるべき内容だといえる。にもかかわらず大衆は「賠償金がない」ことを不満だとして、焼き討ちを重ねた。マスコミに乗せられて、後世から見ると信じられないような見解に時として与するのが世論というものである。皆が一斉にある方向へ奔流のように走っていく中で、マスコミに左右されず、自分の頭でどれだけ冷静に判断できるだろうか。そして、今般の小泉訪朝を批判する論調が日本では強いようだが、果たして後世から見るとどうなのだろうか、ということも思う。

ところで、1905年のポーツマス条約がらみで僕が好きな挿話があります。
日本の全権大使小村寿太郎は、条約締結後感謝のしるしとしてニューハンプシャー州に10000ドルの寄付をした。そして毎年その金額を国債に投資してその利息を州内のさまざまな施設に送ることにした。それを聞いたロシアの全権大使ウィッテも慌てて同額・同種の寄付をした。しかし、1917年にロシア革命が起こると利息は払われなくなった。日本は利息を毎年払いつづけたが、日米開戦に伴い1942年から支払いはストップした。しかし、1951年にいまだ戦後の混乱残る中で支払を再開する。しかも9年間の不履行分を補うために以後9年間は倍額の利息支払いをした。戦後の混乱期にこれがどれだけ大変なことであったか。しかし、日本は「約束を守る」という徳義を、誠実さを何よりも重視したのである。忘るべからざる徳義、美しき誠実。日本という国の素晴らしさを思う。


9月22日(日)       二年生初のスタディグループ

午後じゅう図書館で勉強し、夕方からスタディグループのはしごをする。Supply Chain Managementのグループは、ソニア(ブラジル)、ケビン(アメリカ)、アピチャイ(タイ)、そして僕の四人。Corporate Restructuringのグループは、パトリック(ガーナ)、Iさん(日本)、アピチャイ(タイ)、そして僕の四人だ。今学期、Database Marketingも含めて三科目で同じチームに入ることになったアピチャイ君は新潟国際大学からTUCKにやって来た交換留学生である。

こうしてみると、ソニアは冬学期に同じスタディグループであったし、パトリックとは冬学期のプロジェクトを一緒にやっていたし、Iさんとは先学期のShank及び失敗学で同じグループであった。どうしてもこれまでに一緒に組んで、気心の知れた人間と「また組もうか」という展開になるのは避けられないところか。

初日のスタディグループはそれぞれ二時間ほどで終了した。なかなか悪くない。全科目エレクティブとなった今学期も毎日1−2回はスタディグループミーティングをすることになりそうだが、うまくタイムマネジメントをしていきたい。就職活動・家族の時間・その他諸々、、、タイムマネジメントは今学期の大きな課題であります。

日本人同級生Nさんの奥様がヒッチコックメディカルセンターで昨日無事男児を出産されたとの報を人づてに聞く。新しい命の誕生の報せを聞くのは、本当に嬉しい。おめでとうございます!


9月23日(月)       二年目の日々

Corporate Restructuringのスタディグループを終え、今日も歩いて帰宅。帰宅後Sales Promotionのリーディングアサインメントを読む、Corporate Restructuringの読み残したリーディングを読む、Database Marketingのグループライトアップのデータの分析をする。そして気が付くといつの間にか午前三時である。腕立て伏せをし、シャワーを浴び、ベッドにもぐりこみ、眠る。

二年生になるとカリキュラムはだいぶ楽になるかと思いきや、まったくもってさにあらず。一年目の後半とほとんど変わらない日々を送っている(一年目秋学期だけは別格に忙しかった)。それでも一度来た道はまるで違ってみえるものだ。以前にも書いた「知っていることの安心」からくる余裕なのか。


9月24日(火)       7回目の結婚記念日

昨年はハノーバーと東京に離れて迎えた結婚記念日であったが、今年はSachemで無事一緒に過ごすことができた。

1995年のこの日に妻と結婚してから、いつの間にか7年が過ぎた。妻は小学校と中学校の途中までをドイツで過ごした帰国子女だが、僕は結婚するまでただの一度だって海外に出たことがなかった。新婚旅行のために初めてパスポートを取得し、結婚式の翌日初めてスーツケースなるものを持って成田へ向かったのだ。それまで二時間以上飛行機に乗ったことさえなかった。大学卒業時のTOEIC350点からは多少は英語力は向上していたとはいえ、それでも当時はまだようやく500点になったかならないかの英語力だった。-----そんな男が何で海外の大学院に留学なんてしているのだろう、と今さらながら不思議に思ったりする。

あれから7年が過ぎた。妻は娘を身ごもり、やがて産んだ。我々は当時共に勤めていた会社を辞め、無職になって、借金をこさえ、海を渡りこの町へやってきた。娘がいない家族はもはや想像できないのと同様に、ここで暮らした日々は家族にとって極めて重要なものになるのだろう。かつては存在しなかったもの、しかし今となっては欠くべからざるもの。

7年前の今日、ヒナ壇の上で想像もしていなかった人生を今、僕達は生きている。


9月25日(水)       ピーナッツ

ここ10日ほど、ずっと風邪をひきずっていた。洟水が止まらず、ティッシュが手放せない。書斎のゴミ箱はあっという間にティッシュで溢れかえった。

午後のDatabase Marketingの授業に向かって校舎の階段を下りていた時、鼻の奥の方に違和感を感じた。いや、違和感はここのところずっと感じていたのだが、それが俄かに大きくなった。「何だこりゃ?何だか鼻の奥にティッシュでも詰め込まれたみたいだ」。階段の途中で立ち止まり、「フンッ!」と思いっきり力んでみたところ、凄まじい勢いで右の鼻の穴から「何か」が飛び出した。10段ほど下の階段の上に転がっているそれは、、、、どうみてもピーナツである。ピーナツ?なぜ?

この間のパーティーでピーナツを食べただろうか?いやしかし、今目の前に転がっているピーナツは完全に原型をとどめているのだ。もしどこかで食べたピーナツがまかり間違って鼻の穴に向かったとしても(ないない)、こんな立派な姿をとどめているわけがない。原型のまま鼻から出てくるためには、原型のままピーナツを入れねばならないのだ。鼻の穴に。そう、入れたのだった。

謹んで申し上げますと、実は小生、宴会で枝豆やピーナツなどの「豆系」を、鼻の穴に入れて飛ばす芸を好んでやる傾向にあります。時として、それがクライマックスに向かうと、一粒のみならず二粒、三粒、、、最終的には八粒ほども片側の穴に入れて飛ばすこともあります。たとえ八発仕込んだのに七発しかターゲットに向かって発射されなかったとしても、なかなか気付くものではありません。

実はインターン時にも金曜日に入れた枝豆が月曜日の朝のエレベータで飛び出してきた、という今回と同じ症状が現出したことがありました。足掛け四日も入っていたなんて、と大笑いしたものであります。しかし、今回は四日なんてものじゃありません。渡米してからそんなお馬鹿な芸は一度もしていないのです。直近でやったのは、、、8月23日の六本木です。一ヶ月以上も。。。。

「いやあ、とりあえずピーナツを発射する瞬間を誰にも見られなくてよかった。」僕は何事もなかったかのように一ヶ月間共生していたピーナツを踏み潰し、Database Marketingの教室に向かって歩き始めた。あれほどとおりが悪かった鼻が、嘘のようにすっきりしていた。


9月26日(木)        インターン体験談

昼休みは同級生とスタディルームで、そして夜は別の同級生宅にてサマーインターンでお互いが経験したことについての情報交換をする。彼らがこの夏の間に体験したことを聞くことはとても刺激になった。それぞれの現場の話を詳しく聞くことは一種の疑似体験であり、なかなか得がたいものだ。

そろそろサマーインターン先からのオファーが出る時期でもあり、同級生達の間にも何となくピリピリした雰囲気が漂っている。非常にセンシティブな話題なので学生同士では"Could you get an offer?"などと無神経に聞くわけにもなかなかいかないのだが、意外にもパートナー経由でそういった情報が伝わってきたりする。これから卒業まで悲喜こもごもが繰り広げられていくのだろう。


9月27日(金)        不況の波はフィールドスタディにも

朝から一日じゅう雨模様の一日。家族でQuechee村にあるSLに乗りに行く予定だったのだが、それもできず、一日じゅう家の中でのんびりしていた。久しぶりにJC Pennyのサロンで髪を切ったり。

ところで今日朝イチで"Field Study in International Business"に関する説明会が行われた。12月に行われるこのフィールドスタディは、5−6名で1チームを組んだ学生が世界中のクライアント企業に対してコンサルティングを行うというプログラムである。そろそろチーム分けや担当地域・企業などが明らかになる頃なので、「きっとその発表とlogisticsの説明だろう」と言いながら会場へ向かったのであるが、実はそうではなかった。

「皆さんご存知のとおり、経済状況は益々厳しさを増している。実は予定していたクライアント数がなかなか集まらない。大変申し訳ないが、希望者全員に参加してもらうことができなさそうだ。ついては、当初予定していなかったことではあるが、これからセレクションプロセスに入りたいのでその説明をする。。。」

一週間以内に、もう一度レジュメを出し、過去のコンサルティング経験、国際ビジネス経験、このプログラムがなぜ自分に必要なのかの理由を添えてアプリケーションを出しなおすように、との指示であった。

フィールドスタディはTUCKの目玉とも言えるプログラムである。同様のプログラムを持つ学校は多いが、実はTUCKのように渡航費・宿泊費すべて(中には+αが出る場合も)がクライアント企業持ちというプログラムはそれほど多くない。これがTUCKを選ぶ決め手になった、という学生(個人的にはそれが「決め手」になるのはあまり理解できないが)もいたほど。

サマーインターン、フルタイムジョブ、と不況の影響をもろにかぶっているClass of 2003であるが、フィールドスタディにも及ぶとは思っていなかった。何とかセレクションに残ってくれることを祈ってアプリケーションを作成するだけである。


9月28日(土)        一年生歓迎会

昼から車で15分ほどの距離にあるQuechee村に出かけてSLに乗る。以前にも一度来たことがあるという娘は「きかんしゃのる!」と大はしゃぎだったが、敷地内を機関車が二周するうちにその心地よい振動にあっさりとご就寝になった。

【Quecheeの機関車。敷地内をゆっくり二周する。土地の広いアメリカならではのアトラクション】

夜は日本人一年生の歓迎パーティーをSachemのUnit11/12で行う。学生・パートナー・子供合わせて30名以上のTUCK日本人コミュニティの人々が集まった。今年の一年生とその家族も楽しい人々で、ついつい盛り上がってアルコールを飲みすぎてしまった。事前に用意していた120本のビール及びワイン・日本酒がすべてなくなる。昨年の二年生が卒業しメンバーの半数が入れ替わっても、こうして変わらずに楽しい集まりはつづいていく。「集まり散じて人は変われど。。。」という言葉が頭に浮かんだ夜であった。

大量の手作り料理を持参していただいた二年生パートナーの皆さん、本当にありがとうございました。

【TUCK Japanese Community集合写真】


9月29日(日)       Blue Sunday

一週間のうちで幸福感が最も高まるのは、木曜日の最後の授業が終わった瞬間である。「ああ、今週も終わった。さて、週末はどこそこに遊びに行って、どこそこのパーティに出て。。。」と自然に足取りも軽くなる。反対に一週間のうちで最もブルーになるのは日曜日である。月曜日のクラスに備えて通常日曜日の夜には何らかのスタディグループが入っており、そのために昼から図書館に出かけて週末じゅう少しずつやっていた予習の仕上げをしなければならない。今日はその最もブルーな日曜日なのであったが、さらに追い討ちをかけるように昨日摂取したアルコールが体内に深く沈殿していて、結構な二日酔の様相を呈している。普段に輪をかけてブルーな日曜日なのである。

明日のCorporate Restructuringでは、Leveraged Build Upのケースを扱う。そのスタディグループを午後7時からすることになっていたのだが、その少し前から突然メールが使えなくなった。どうやらサーバのメンテナンスをしているらしく、他の学生も一斉に使えなくなったようである。こうなるとチームメイトとはもはや連絡の取りようがない。しばらく図書館で粘っていたが、結局あきらめて帰宅したのであった。


9月30日(月)       歩いて帰ろう

今日は珍しくスタディグループのない日だった。したがって、授業終了後また自宅まで歩いて帰ることにする。アンダーグラッドの調和のとれたレンガづくりの校舎群、緑濃いダートマスグリーンの芝生、ダートマスグリーンを基調としたかわいらしいエクステリアの店が並ぶハノーバーのメインストリート、などなどを通り抜けると長い下り坂、そしてさらに長い上り坂へとつづく。上り坂を上り切ったあたりでTUCKを出てから30分ほどたった頃だろうか。ようやく我々が住む家族寮"Sachem Village"の入り口である。ここから右手に10面近く並ぶ芝のサッカーフィールドでプレーする子供達を眺めながら、さらに5分強歩いてようやく我が家に辿り付くわけだ。

歩いて帰ると見える風景がまるで違う。ダートマスのニューイングランド風の校舎は美しさ、ハノーバーの町のつましい美しさに今さらながら気付かされるのだ。何て美しい町に自分は住んでいるんだろう、と思う。

帰宅すると自宅前の公園は小さな子供達とそのママ達(及び少数のパパ)で大賑わいだった。その中に、妻が椅子に座って数人のママと話しこんでいる姿が、娘が友達にブランコを押してもらっている姿が、同級生のクリスチャンが10ヶ月の息子を抱きながらこちらに向かって手を上げる姿が見えた。

明日から早くも10月。紅葉がいよいよ本格化する季節である。


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