MBA留学日乗 2002年11月 | ホームへ | | 前月へ | | 翌月へ |
11月1日(金) ボンファイア
午前中、ケースインタビューの練習などをし、午後からCorporate Restructuringのスタディグループ。厚さ7−8センチにもなるある会社のアナリストレポートやアニュアルレポートを読んで、その会社を所有するバイアウトファームの立場で様々な分析をするというアサインメントである。計算、ライトアップ、プレゼンすべてが入った異常に面倒くさいアサインメントだ。三時間ほどのディスカッションで、おおまかな方向性を確認する。
夜はダートマスグリーンで”ボンファイア(大焚き火)”が行われるというので家族で見に行く。昼からちらついていた雪が積もり始めており、風も強いあいにくの天候であったが、多くの学生・学校関係者がグリーンにつめかけていた。どうやらこのボンファイアは一年生の歓迎と卒業生のウェルカムバックを兼ねているらしい。背中に大きく”06”(Class of '06の意)と書かれたシャツを来た学生と、大学の旗などを持った爺さんの姿が目立つ。学長の挨拶、各体育会系クラブの紹介、歌、ブラスバンド、につづいていよいよ高さ10メートルほどに組まれた櫓に点火された。強風に煽られて火はあっという間に地上からの高さで約20メートルにも達し、凄まじい勢いでうねり始めた。迸る竜のようだ。櫓から50メートルほど離れて見ていた我々の方へも時折炎がうねるように吹き付けてきて熱くていられない。皆じりじりと後退する。そのうち背中に”06”と書かれた一年生達が火のまわりを奇声を上げながら走りはじめた。その数はどんどん増えていき、あっという間に数百人になった。半裸になっている学生もいる。ある時は時計まわりにへ、またある時は逆方向へ、奇声をあげながらぐるぐるぐるぐる火の周りを走りつづける。ぐるぐるまわる輪の中心で高さ20メートルもの炎を巻き上げるボンファイア。そして、走る一年生を周囲で見守る上級生、院生、卒業生、家族達。毎年行われている伝統の行事らしいが、まったくもって訳がわからない。訳がわからないなりに、しかしなかなか面白い見ものであった。
11月2日(土) みたびボストンへ
今週三度目のボストンへ向かう。某コンサルティングファームのインタビューを受けるためである。昼過ぎからひとつ、夜にひとつそれぞれ45分間のケースインタビューを受ける。普段のディスカッションでは使わない部分を脳をぎりぎりと絞りに絞った感じだ。ケースインタビューの時はいつもとにかく頭をフル回転させるので、それが終わった瞬間はドッと疲れるか、あるいは精神状態がハイになっているかのどちらかだ。今日は後者だったので、その後の二時間の高速ドライブも苦にならず。しかし前者だったらなかなか辛いところだった。
夜8時にホテルを出、真っ暗なインターステートを走って夜10時過ぎにハノーバーへ戻ってきた。今週一週間は”リクルーティングウィーク”として授業は休みだったのだが、BCFに始まり何だかんだと就職活動に忙しく(それが本来の趣旨か?)、ほとんどアサインメントを先に進めることができなかった。今日は徹夜になるか、と思いつつようやくたまったアサインメントの一つに手をつけたところである。
11月3日(日) アサインメントROI
午後3時過ぎからコーポレート・リストラクチャリングのアサインメントに関するグループミーティング。一旦決めた方向性を最後になって、「やっぱりちょっと変えた方がいいんじゃないだろうか」などと言ってしまったせいもあり、結局ミーティングは午後10時過ぎまでかかり、今日のホッケーの試合はスキップしてしまった。
ところで今回はたまたま最後に修正をかけたが、一年生の時に比べて明らかにその手の修正(もう一押し)にかける投下時間は減ったように思う。暗黙のうちに、「そこまで時間を投下してもリターンは少ない」ということが学生間で認知されてきており、ROI極大化のためには早めに見切りをつけることが必要だとの共通解に達しているためだと思われる。「要領」というものか。仮にMBAが三年制プログラムだったとしたらどうなるだろう、と想像してみるに、三年目はさらに投下時間の縮小が見られそうな気がするわけで、やはり二年制というのは妥当な長さなのかもしれない。
しかし、今日は最後の一押しせいもあってなかなかに中身の濃いミーティングとなった。自分ひとりで考えている時に比べて明らかにバイアウトに関する理解は深まったといえる。つまりそれなりのリターンはあるということか。
今月半ばに実家の両親が北米観光のついでにハノーバーにも立ち寄ることになった。半日強のハノーバー滞在中の近隣案内の計画を現在練っているのであるが、あらためて考えてみても、ハノーバーにて見るべきものとては大学キャンパス以外特にないのである。あとはこのあたりの自然を堪能してもらうことくらいか。厳寒の。
11月4日(月) 切り上げ時
サプライチェーンマネジメントのアサインメントに関するスタディグループ。かなり面倒くさい計算系が多いアサインメントだったが何とか計算二時間、ミーティング二時間ほどで無事終了した。
夜は元隣人のI氏夫妻が家に招待してくれて、酒をいただく。気が付いたら深夜まで居座って日本酒・ワインなどを飲みつづけてしまったのだった。友人宅へお邪魔した時はいつも少し早めに切り上げるべし、と心で思っていても、気が付くとすっかり遅い時間になってしまうことがままある。特に話が盛り上がったり、酒がおいしかったりする時というのはなかなかベストなタイミングで切り上げるというのは難しいんだよなあ、と言い訳。
11月5日(火) 「ハゲタカ」きたる
コーポレートリストラクチャリングのクラスで”Distressed Investing(破綻企業への投資)”に関するパネルディスカッションがあり、三名のその道のプロフェッショナルがTUCKへやってきた。そのうちの一人はクリス・フラワーズ氏。ゴールドマンサックスのパートナーを辞めて現在NYでプライベートエクイティファームを運営する人物であるが、と同時に彼はリップルウッドホールディングスのNo2でもある。今回も勢い新生銀行の件が話題の中心になった。
瑕疵担保特約という極めて都合のよい特約を、極めて低価格のオファーで日本政府から勝ち取った彼は、学生からの質問に答えて「瑕疵担保の存在は大きかった。これがなければ買わなかっただろう」「ドイツなど他の投資先で同様の条件を得たことはない」「パブリックセンチメントを考えると今後日本で同様の条件を得ることはできないだろう」とのたまった。
「ハゲタカファンド」という、合目的的な命名のもとにマスコミは最近一気にリップル批判を高めている(なぜ今さらなのか、とも思うが)。しかし、個人的には現在の日本国内に破綻企業に投資し再生できるに足るリソースがないのだから、悔しくとも彼ら「ハゲタカファンド」に破綻企業を売却することもやむをえないかとも思う。しかし、それとはまったく別の問題としてくすぶるのはなぜ・どのように彼らに買い手が決まったか、の問題だ。オリックス、パリバ、中央信託、リップルの4つの候補がもし同一の情報に基づいて公平に入札していたとしたら10億円という彼らの買値が最高入札額ではなかった可能性はかなり高いし、瑕疵担保責任なしでは買わない、という買い手ばかりだったとも思えない。「ハゲタカ」に対する生理的嫌悪感と不公平なプロセスに対する問題とは当たり前だが全然別の問題であり、公平なプロセスを通じたリップルの買収をも外資だという理由だけで批判するのもどうかと思うし、逆にリップルの再生手法が優れているからといってアンフェアなプロセスを看過するのもどうかと思う。
なかなか日本でこの手を話を直接聞ける機会はなく、今日のパネルはビジネススクールならではの貴重な機会だった。しかし個人的には、やはりクリス・フラワーズの話を聞きながら、何とも悔しかった。何とか日本に優れたバイアウトファームが作れないものか。
しかし、長銀問題ほど個人のナショナリズムの強弱、将来のキャリア志向によって見解も分かれる問題も珍しい。
11月6日(水) コールセンター
サマーインターンをしていた会社のスーパーバイザーからメールがあり、「コールセンターが正式に立ち上がりました」との連絡があった。早速ホームページを覗いてみると、夏の間にネーミング募集キャンペーンをやって決めたコールセンターの名称と頭をひねって考えたセールスコピーがWeb上に表示されている。あのサマーインターンから既に三ヶ月が経過したわけだが、その間スーパーバイザーは担当者のトレーニングをし、システムのチェックをし、顧客の声を反映し、予定されたスケジュールどおりにlaunchにこぎつけたのだ、と思うと感慨深いものがあった。
今思い返しても、インターンをさせてもらったこの会社は本当に良い会社・職場であった。しかし来年の夏に自分がどこにいるのかはまだ定まらない。卒業後どの方向に一歩目を踏み出すべきなのか、ここのところ何をしていても常に頭の片隅にひっかかっている問題である。
夜は同級生を食事に招待して、楽しく過ごす。
11月7日(木) もったいない時間の使い方
睡眠不足がたまって、一時間目のサプライチェーンのゲストスピーカーの話は眠くてしようがなかった。内容自体は面白かったのだが。その後図書館の机で、右腕を痺れさせながら三時間も熟睡。気が付くとデータベースマーケティングの授業まで15分ほどしかなく、慌ててグループライトアップのedit及びprint outをして教室に向かう。しかし短時間に慌ててeditしたため、細かな、しかし基本的なロジックの齟齬を見逃してしまっていた。
ここのところ一日四時間程度の睡眠がつづいているのだが、どうしてもそれだけしか睡眠時間が確保できないというわけではなく、何となく午前三時以前に寝るのは「もったいない」というので遅くまで作業していることの方が多い。しかし、翌日授業中眠かったり結局三時間も図書館で寝ているようでは、そっちの方がよほど「もったいない」のである。前日七時間寝ていた方がはるかに生産性が高かった。ということで今後睡眠はベッドの上でしっかり確保することにしよう。
夕方、来月のフィールドスタディのチームと担当教授との第一回目のミーティング。今回のプロジェクトの背景、目的などを聞く。
11月8日(金) 11時間
午後からスペイン語のレッスンへ出席。このクラス、もともと5名の生徒がいるはずなのだが、これまで5回の授業における参加最大人数は3名である。今日はわずか2名しかおらず、しかももう1人の参加者ジョバンナが早退したため後半は僕とポーラ先生のマンツーマン状態に。せっかく彼女がボランティアで教えてくれるのに、皆もうちょっとちゃんと出ろよ、と思うのだが。しかも最後に残ったただ一人の生徒である僕は初心者クラスでもとびきり出来が悪く、彼女が繰り出すスペイン語の質問に?マークを点滅させながら「今のどういう意味?」と英語での確認を繰り返すのであった。すまんポーラ。
夜は同級生Tさん一家をディナーへご招待。だいぶ以前にディナーに招待してもらっていたのだが、実はうちへお呼びするのはこれが初めてのことである。午後6時過ぎから夕食を開始し、お互いの子供を寝かしつけ、大人だけで思う存分語り合う。日付が変わって迎えたTさんの奥さんの誕生日をシャンパンで祝い、トランプゲームなどをし、気が付いた時にはもう時計の針は午前5時を指していた。こんなに長く飲んだのも実に久しぶりのことである。子供ができてからは初めてだろうか。明け方、会話の輪を離れてトイレに立った時にふと、「こうして過ごしている時間はおそらく後になって思い出すような、とても貴重な時間なんだろう」と思った。日々加速していく時間の中で、その貴重さを認識してよく噛みしめること、そしてそういった機会を意識的に増やすこと、くらいしか僕達にはできないわけだけど、それでもそうやって大事に日々を過ごしていこうと改めて思った。思っているのが便器の前ではあまり説得力もないのだが。
時間が過ぎるのを忘れるほど、本当に楽しい夜だった。
11月9日(土) ラスト二週間
昼から一年生の方のケースモックインタビューのインタビュアー役をするために学校へ。昨年もちょうど今頃二年生にモックインタビューのインタビュアー役をしてもらったことを思い出す。
その後セールスプロモーションの宿題、同じくクラスディスカッションリーダーの準備、Corporate Restructuringのケースの予習などにほとんど同時並行的に着手する。いよいよ二年生秋学期も残すところあとわずか二週間となった。この二週間の間に、クラス発表(プレゼン)3回、ライトアップ4回、ファイナル試験2回、重めのタームペーパー1回、が予定されており、さらに通常の予習及び年末のフィールドスタディの準備、はたまたNYでのインタビューなどが入ってくるのだと考えると、結構これは大変な二週間なのかもしれない、とあらためて思う。
今日は夕方からダートマスの日本人アングラ学生とのポットラックパーティーが予定されており、若い学部生と知り合える(深い意味はない)貴重な機会になるはずだったのだが、妻の風邪が悪化したため、キャンセルすることにした。ああ、ピチピチ学部生との出会いが・・・(”ピチピチ”とか言い始めた時点でもう人生の半分は終わりである)。
11月10日(日) 生暖かい一日
ここしばらくの氷点下の冷え込みから一転し、今日は華氏60度強(摂氏20度弱)の暖かさ。春の訪れを思い出させる一日だったが、幸いなことに実際にはこれからまだまだ長い冬が待っているのである。
自宅の書斎の窓からはすぐ目の前にプレイグラウンドが見える。ここのところの冷え込みですっかり公園で遊ぶ親子の数も減って娘もつまらなさそうにしていたのだが、今日の暖かい陽気に公園は凄い賑わいだった。勉強していてふと顔を上げると娘がプルカートの上に友達を乗せて凄い勢いで嬉しそうに引っ張っているのが見える。表で泣き声が聞こえたと思ってまた顔を上げると、娘がどこかで転んだらしく他のお母さんに抱き上げられている。机に目を落としてケースを読んでいると、娘と友達が書斎の窓ガラスをバンバン叩いて、”Hey! Moe's Dad!!””Baaahhh!!”と叫んでいる。何となく自分だけがこうして勉強しているかのように思えてきて、結局”同士”の多くたむろする学校の図書館へ夕方から場所を移すことになった。
夜はTripodのゲームに参加。1対1のまま均衡していた試合の終了間際に、うまく相手のDFを抜いてゴールに迫った時があった。目の前にいるのは慌てて戻る別のDF一人とゴーリーのみ。しかもDFはバランスを崩しており簡単に抜けそうだ。しかしその時左手でフリーの味方センターがパックを要求しているのが見えた。自分でDFを抜きにかかることと咄嗟に天秤にかけた結果、僕が選択したのはフリーの彼へのパス。しかし、結局パスはうまく通らず、試合はそのまま引き分けに終わった。
よくサッカー日本代表のプレーをテレビで見ていて悪態をつくことがある。「何で自分で持ち込まないんだよ!フォワードなんだから勝負しろよ!」。。。そのまま自分自身に返します。
11月11日(月) 忙しさも
昨日ほどではないが今日も暖かい一日だった。
学期末に向けて色んな授業のプロジェクト・試験・プレゼンなどが重なってくるため、かなり終日ばたばた感の残る一日だった。他の同級生も多かれ少なかれそんな感じである。とはいえ、まだどこかには余力が残っている。完全に余力を使い切っていっぱいいっぱいで走る状態(=無駄なことは何もしていないし食事も10分以内で毎回済ませているのに2−3時間しか寝られない状態)にまで陥るということは実は一年生の秋学期に2度ほどあるだけである。今も「かなり忙しい」「先のことを考えると気が重い」状態なのではあるが、それでも余力を使い切ることなく今学期も最後まで行くのだろうなあ、と思うと、少しだけ寂しかったりするのだ。
夜はまたも午後11時半からホッケーの試合へ。昨日の反省の結果、今日は積極的にドリブルで持ち込むことにした。何度もキーパーと1対1となったのに、へなちょこシュートだったり肝心なところでドリブルをミスったりして結局今日も得点なし。傍で見ている立場としては「何て得点力のないフォワードだ」と最もフラストレーションのたまるプレーだったことだろう。期待どおりにゴールを決めるというのは、どんなレベルのどんなスポーツ(あるいは仕事)であれ、大変なことだとあらためて実感。
11月12日(火) ゆっくりしゃべる男
午前中のセールスプロモーションの授業で今期二回目のDiscussion Leaderをやることになっていたのだが、前の議論が押しに押している。Neslin教授は「うーん、次のテーマは何としても今日中にやっておきたいから発言はもうあと一回だけだぞ。それで終わりだぞ!」と15分ほど言いつづけていたのだが、結局生徒の発言に乗っかって一番熱くしゃべって時間を延ばすのはこの教授なのである。ようやく僕の番が回ってきたときは既に授業は残り5分強。「5分か!よし、行けるところまで行ってみよう!発表者誰?早口で頼むね!」と見回すNeslin教授。「私です。教授残念あるね。このクラスで一番ゆっくりしゃべる男あるよ」と満面の笑みで返す。爆笑。僕のしゃべる速度はだいたいアメリカ人の半分から3分の2くらいのスピードであるので、当然最後までは説明できず後半部分は来週に持ち越しとなった。
最近セールスプロモーションのタームペーパーの内容について日本の当該分野の専門家にコンタクトを取ることがあったのだが、このNeslin教授というのが思ったよりもその分野では有名な男だということが判明した。やたらと彼の書いた研究論文がマーケティング系の専門誌に載っているし、他の著者からもよく引用もされているので、まあそれなりに名の知れた人間だとは思っていたが。しかしながら河童然とした彼の風貌(時折彼自身おのれのザビエル禿げをネタに使うのである)とそのキャラが彼の大物ぶりを十二分に打ち消していて、非常に宜しい。
夕方に年末のフィールドスタディに関してDeanとミーティング。”TUCKはアメリカに比べて日本での知名度があまりにも低い。とにかくTUCKの名前を日本でもっと知ってもらいたいんだよ。期待してるよ”と熱い内容を眠そうに語るDeanなのであった。
その後日本から来たアプリカントの方とお茶をし、データベースマーケティングのスタディグループ。午後11時までかかったが今回のライトアップはかなりハードで、結局「まあこんな感じで後は適当に分担して書こう」という方向で落ち着いた。
帰宅してライトアップのつづきをしたり、サプライチェーンのアサインメントのモデルを作ったり、フィールドスタディの調べものをしたり、で結局午前四時。やっぱり、やたらと忙しい今日この頃ではある。
11月13日(水) 冬時間
朝からサプライチェーンのスタディグループ、フィールドスタディに関するミーティング、日本人アプリカントの方とのランチ、Database Marketingの授業、を休みなくはしごして図書館に落ち着いたのが午後三時。それからCorporate Restructuringの来週のプレゼンに関するデータ収集、Database Marketingのプレゼンに関する準備、などをしているともうあっという間に窓ガラスの向こう側は漆黒の闇になっている。
サマータイムがあり、かつ緯度が東京よりも多少高いこの町では、夏と冬とでは日没時間が著しく異なる。夏は午後9時過ぎまで明るいのだが、今はもう午後5時前には真っ暗である。日照時間は夏は16時間ほど、冬は10時間ほどだろうか。夏と冬では光と闇の配合、気温、町の色、匂い、などなどすべてがまったく異なり、四季の豊かな日本にいるよりも季節の移ろいを実感させられる。まるで夏と冬ではこの地を支配する神々が完全に入れ替わるかのようだ。もっとも、そのような八百万(やおよろず)の発想はこの地では受け入れられまい。
今週のアサインメントだけを考えると完全に山場を越えた。来週以降の懸案事項を考えると少しでも作業を先に進めておくべきなのではあるが、ここのところの睡眠不足による眠気に負けてしまう。夏場であればまだ明るいはずの午後9時過ぎからソファで寝入ってしまった。
11月14日(木) 秋学期の30センチ、二年間の2メートル
本日のSupply Chain ManagementとDatabase Marketingの授業で今週も終了。いよいよ今学期も残すところあと一週間となった。今学期履修していた4科目分のバインダーが今目の前に置かれている。コースパケットのうち既に授業を終えた8週間分のケース、リーディング、アサインメントなどがそのファイルの中に収められている。バインダーに収まった紙の厚さは一科目5〜10センチほど。4科目で合計30センチにも達する。これだけのものを一部走り読みにせよ、すべて目を通したというのは凄いことだと毎回学期が終わるたびに思う。
単純計算で入学から卒業までの二年間6学期で目を通すケースやリーディングの量は合計で2メートル近くにも達するわけだ。以前にも書いたが、MBAは詰め込み教育以外の何物でもない。どんなに自らを律する力に優れたストイックな人物でも、この量をどさっと渡されて「二年間で自習しなさい」と言われてきちんとこなせる人はいなかろう、と思う。同級生や教授といったペースメーカーがいて、テストやアサインメントというマイルストーンがあって、ソーシャルイベントなどの息抜きがあって、はじめて2メートルものパケットをこなしていけるのだ。
夜はおなじみのタレントショーが行われた。今回も家族三人で出かける予定だったが、夕食後ソファで横になっていたら、そのまま夜中まで寝てしまった。妻が気をつかって起こさなかったらしいが、娘も楽しみにしていたので申し訳ないことをした。夢現の中で「パパ、パーティー(タレントショーのことらしい)行かないの?」と、娘から聞かれたような気がするが。。。
深夜に目覚めてから午前7時頃までプロジェクトなどと格闘。週末実家の両親がハノーバーに来るため、何とか今日明日じゅうに来週の作業の目途をつけておきたいと考えているのだ。週末はスタディグループにも参加できないものがあり、そこでチームメイトに迷惑をかける分の代替負担もできるだけ先取りしておきたいところであるが。さてどうか。
11月15日(金) あっという間に過ぎ去る一日
昼過ぎまでベッドにしがみついて睡眠を確保する。二度寝・三度寝を繰り返しながら、グロテスクな夢を数多く見た。極彩色の、滴り落ちる、グロテスクな夢。僕はそれを至近距離で見つめ、あるいはヘリの中から見下ろしている。いくらなんでもそんな馬鹿な、などと思っていたら妻に起こされた。スペイン語に行く時間だった。滅多に見ないこの種の夢を見るなんて、疲れているのだろうか。
スペイン語の授業に引き続き車のタイヤをスノータイヤに換えにタイヤ屋へ出かけるも、終業時間30分前ということで断られる。今日行ったタイヤ屋”Tire Kingdom”があるのは車で20分ほどのEnfieldという町、窓口にいたのは白人の刺青付きあんちゃん。ハノーバーと違い、田舎町のこの手のあんちゃんにはこちらの英語の発音を小馬鹿にするような横柄な態度をこれまでに何度か取られたことがあり、今回もその手合いかと身構えるも、"Probably...., I might have to say we cannot do it today, because..."と、意外にも丁寧語を使ってきた。外見で判断してはいけないということか。
夕方からCorporate Restructuringのプレゼンについての打ち合わせ、大まかなアウトラインを作り作業を分担する。さらにコンピュータラボにこもって、Database Marketingのプレゼンに備えて統計ソフトを走らせる。30000ものデータを使う重回帰分析は自分のノートPCではフリーズしてしまって、とてもできないのだ。
帰宅後も休みなくパワーポイント作成、回帰分析の結果を使った計算、フィールドスタディの準備、等を続ける。昼に悪夢から覚めてから、気が付いたらあっという間に真夜中になってしまっていた。もう再びベッドに戻る時間だ。
11月16日(土) 雪のハノーバー入り
ナイアガラ、ボストン、ニューヨークと北米観光ツアーに参加している両親が一日ツアーを離れてハノーバーへ遊びにやってくる日である。
妻がスノータイヤに交換に行っている間に、僕は午後のドライブに備えてベッドで睡眠を。。。と思っていたのだが、やがて「ママは?どこー?」と起きだした娘が泣き出し、なんとかそれをなだめた後も、やれ「パンが食べたい」だの「ミルク入れて」だのとせがまれなかなか寝付けない。そのうち妻から電話がかかってきて、ファンベルトがおかしいからボストンへの長距離ドライブはやめた方がいい、と言われたとのこと。慌ててレンタカー屋へ車を借りに行くことになった。
結局正味3時間ほど寝ただけで午後2時頃ボストン近くのフラミンガムという町に滞在している両親をピックアップするためにハノーバーを出た。高速に乗ってからしばらくは快調だったが、やがて雨が降り始め、それが雪に変わり、徐々に路面に白く積もり始めた。レンタカーのタイヤはスノータイヤではないし、こういう状況のドライブはなかなかに神経を使う。普段二時間の道を三時間かけてようやくホテルに到着した。そして両親を乗せてハノーバーへと帰る道がさらに一苦労である。雪は勢いを増し、ところどころ5センチほども積もっている。途中6台で玉突きしている車など計10数台の雪道でスリップした車を見かけた。なぜか逆走してくる車もいたりして、相当神経を使う四時間のドライブだった。いきなりこの雪道ドライブに同席させられた助手席の父親もさぞかし肝を冷やしたことだろう(幸いなことに母親は後部座席でご就寝)。
結局ハノーバーの我が家に到着したのは午後10時。その後遅めの晩餐をする。娘も久しぶりにじーじとばーばに会えて大興奮。両親も妻が作っていた和食を喜んで食べてくれた。
11月17日(日) 雪のハノーバー観光
朝目覚めると窓の外は昨夜からさらに白を深めた一面の雪であった。両親の訪問に合わせてハノーバーらしいといえば極めてらしい風景を一晩のうちに現出させてくれたわけだ。外では娘がおじいちゃんと一緒に雪だるま作りに精を出している。
午後から両親を車でダートマス大学界隈を案内する。これがダートマスグリーン、これが大学のゴルフ場、これがポンドホッケーをやる池、等等。そして最後にTUCKの校舎内を簡単に案内した。帰りは車でボストンまで送っていくつもりだったのだが、昨日以来あまり道路状態が改善されていそうになく、まだ霙が降るという予報だったので、結局車を諦め、ダートマスコーチで帰ってもらうことに。
両親がハノーバーに、セイチャムの我が家にいるというのはとても不思議な感覚だった。そして、合計滞在時間もわずか20時間にも満たない短いものだったので、何だかすべてが淡雪のようにあっという間に消えてしまった感がある。娘は手を振ってバスを見送った後も、これでもうしばらく会えないということがいまひとつ分かっていないようで、「じーじとばーばまだ帰ってこないね」などと言っていた。
結局明日のCorporate Restructuringのプレゼンに関するミーティングには参加できず。しかし深夜のホッケーには何とか参加し、結果1−2でプレーオフ初戦にて敗退したのであった。
11月18日(月) ついに車がストップの巻
今日は早めにスタディグループが終わり、珍しく午後6時頃妻に学校まで迎えに来てもらう。ここしばらく異音を発していた我が愛車も予定では今日ファンベルトの修理を終えて立派な健康体になって僕の前に現れるはずだった。。。。が、目の前にあるセントラは相変わらず「きゅいきゅいきゅい」とボンネットより聞こえざるべき異音を発している。お前はアザラシか?聞くと部品の発注が一日遅れたため、修理は明日に仕切りなおしになったという。
しようがないなあ、とやや落胆しつつ自宅へ向かったが、メインストリートのくだり坂にさしかかったあたりでいきなり「エアバッグ」の警告灯が点灯しはじめた。「どうしよう。いきなりエアバッグが破裂したら。衝撃で気絶するかな」「気絶してもしっかりハンドルを握っとくように」などと笑っていたら、そのうち色とりどりの警告灯が次々と点灯し始めた。どうもシャレではすまない雰囲気である。そのうち、車のスピードも徐々に落ちてきた。気が付いたらもはや車は惰性で走っているだけである。古館伊知郎の「おーっと!何ということだ!止まってしまったああ!!」という癇ざわりな声が聞こえてきそうな完璧なスローダウンであった。
結局そこから歩いて最寄のIさん家まで行き、電話を借りてAAAに電話をしてレッカーを手配。奥様に妻子を家まで送っていただいて僕は車の中でレッカーの到着を待つことに。しかし、その時点の気温は既に零下7度。レッカーは約束どおり45分後には到着したが、たった45分だというのに暖房の切れた車の中はすっかり冷え切って窓ガラスは真っ白く曇り、車内に居ても吐く息が白くなる始末。Iさんの奥様からいただいた使い捨てカイロをぎゅっと握りしめて海老のように丸まった僕にとってはAAAのレッカー車のヘッドライトがまるでメシアのごとく見えたのだった。(Iさんの奥様、どうもありがとうございました。あなた様もメシアのようでした)。
いやしかし、極寒のハノーバーでのエンコの恐ろしさの一端を垣間見た事件であった。今日はまだこれでも零下7度であったが、当地の真冬は零下20度以下まで下がり車内に置き忘れたペットボトルが凍結して破裂することさえあるのである。インターステートで、零下20度でエンコした事態などを考えると、実にそら恐ろしいことではないか。保険としての携帯電話の購入を真剣に検討し始めた我が家なのである。
11月19日(火) 寝過ごす
車が入院してしまったので、学校まで誰かに乗せてもらわねばならない。同じ時間帯に学校に行くというご近所さんのブラッドに乗せてもらうことにした。朝、電話の音で目が覚める。受話器を取った妻に「電話だよ」と呼ばれて何気なく時計を見ると針は10時を指している。10時といえば授業が始まる時間であり、ブラッドと待ち合わせていたのは9:45なのである。「しまった!寝過ごした!」ベッドから跳ね起きた僕は受話器を掴んで叫んだ。「すまん、ブラッド!寝過ごした!」受話器から聞こえてきたのは、ロシア訛りのブラッドの声ではなく、バリバリのアメリカンイングリッシュ。「あー?何?。。ま、いいや。車の件だけど、昨晩うちに置いたの君でしょ?チェックしたけど$100くらいで修理できそうだよ。修理していいよね?明日また電話してくれるかな?(寝ぼけていたので、本当にこう言ったかどうかは自信がないが、たぶんこうだったと思う)」どうやら昨日レッカー車がうちの車を置いていったディーラーかららしかった。寝ぼけた頭でも何だか相手がブラッドじゃないらしい、ということだけは分かる。”O.....OK.....ah.....go ahead”と答えて受話器を置く。
急遽元隣人I氏の奥様M子さんに車で学校まで送ってもらうことに。妻がヘルプの電話をかけると、M子さんはその数分後には車を家の前にまわしてくれた。おかげさまで何とか授業は10分少々の遅刻で間に合った(と言わないが)。今日はセールスプロモーションの最後の授業だったので、何としても出たかったのである。M子さんありがとうございました。連日奥様に助けられている私なのである。
昼食時にカフェテリアでランチを購入していると、ブラッドがすごい勢いで迫ってくる。「ヒロシ!何があったんだ!マリナと二人でドアをガンガン叩いたけど返事がないから、何かあったかと心配したんだぞ!(byロシア訛り)」いや、申し訳ない。親子三人でその音にも気付かずぐーすか寝てました。後で妻に聞いたところによると奥さんのマリナも心配してブラッドを送った帰りに家を覗いてくれたらしかった。
夜8時までコーポレートリストラクチャリングの試験。最後に時間が足りなくなってバリュエーションをかなりいい加減にしてしまい、今ひとつの出来。その後データベースマーケティングのチームで集まって明日のプレゼンとライトアップの準備。今学期実は一度もプレゼンらしいプレゼンをしていなかったため(チームプレゼンでは他のメンバーにお願いしてしまった)、今回は自分にやらせてもらうことにする。
帰宅して朝5時過ぎまでパワーポイントでプレゼンマテリアルを作成。
11月20日(水) データベースマーケティングのプレゼンテーション
朝フィールドスタディのミーティングとサプライチェーンマネジメントのミーティングがバッティングしていたため、先に決まっていたフィールドスタディのミーティングに参加。今後日本に出発するまでにやらねばならないことなどを確認する。なかなかやることが多くてこれが結構面倒くさいのだ。
その後図書館でランチもとらずに午後イチのデータベースマーケティングのプレゼンの準備に没頭する。何とか授業開始数分前に最後のスライドを作り終わった。
プレゼンは、内容自体は教授が後で説明した最適な解答アプローチとは基本的アプローチがやや異なっており、まあ60点の出来か。最後のオチの部分も、実はギリギリになって完成した”オチスライド”(教授や自分達の顔写真を使用)がうまく保存されておらず、やや動揺しながらもすべて口頭で説明したために期待した笑いの70%くらいしか取れず、これもやや不本意。それでも授業後色んなところで会う同級生から、”Hey, Hiroshi! That was really great presentation!”などと声をかけられ、アメリカの「褒める文化」というのを実感したのだった。褒められた方が困るくらいの褒め方、日本人もこれくらいの褒め方を衒いなくできるようになれば子供はもっと学ぶ楽しさを知り、フォワードはあまねくゴールへ向かうようになるのだろうか、などと思う。
今日も車なしの我が家、朝は同級生のMさんに、夜はケビンに送ってもらう。
11月21日(木) 二度目の秋学期早くも終了
今日のふたつの授業で二年生秋学期の授業もすべて終了してしまった。やはり想像していたとおりに今学期はおそろしいくらいにあっという間に過ぎてしまった。昨年の秋学期と今年の秋学期を比較すると、同じ学期であったとは思えないほど「体感速度」に違いがあったのだ。昨年は例えて言えば150センチのハードルをがしがし倒しながら何とか400メートルを走りきった感じであり、そして今年は100センチのハードルを飛び越えているうちに気がついたらもう400メートル走っていた、という感じである。ハードルの高さの違いは自分の背丈が伸びたがためか、それとも実際にハードルがすりかえられているのか。
夕方フィールドスタディに関するミーティングで、語学教授法で有名なダートマス大学のラシアス教授とミーティング。この教授、一応ダートマス全体の看板とも言える男なのだが、とにかく強烈なおっさんであった。「さて始めるか」と上着を脱いで何もない壁にかけようとして床に落とすボケ、「じゃあそんなわけで」と部屋を出るときにミーティングルームにあった花瓶を持って出ようとするボケ、、、、アメリカに来て初めて見た種類の、どこか懐かしいボケを連発してくれるのである。氏のあまりにも強烈なキャラにすっかり毒気に当てられた感のある我々なのであった。
夜はT内氏が企画してくれた今年初めてのJapanese Hockey(実際は約半分が日本人か)に参加。妻と娘に初めてホッケーをプレーしている姿を披露した。
11月22日(金) 初のニューヨーク
昼から某社のインタビューのためにニューヨークへ向かう。何とこれが生まれて初めてのニューヨークなのである。
同じくインタビューを受ける予定の同級生と一緒にレバノン空港に向かったのだが、何と霧のため飛行機が欠航しているという(大した霧にも見えなかったのだが)。カウンターで聞くとマンチェスター空港ではニューヨーク行きの飛行機が飛んでいるというので、急遽レンタカーを借りて車で一時間強の場所にあるマンチェスター空港へ向かう。しかし、結局ここもまた霧で離陸が大幅に遅れ、最終的に我々を乗せたちっぽけなプロペラ機がラガーディア空港に着陸したのは予定から四時間も経過した午後6時過ぎだった。午後7時開始の某社レセプションに慌てて駆け込む。
その後はサマーインターン仲間の某大学の某氏と彼の受験時代の仲間であるS氏とSOHO地区のジャズバーにて軽く飲む。このS氏、多忙なビジネススクール生活の傍らビジネスを起こしてそれを運営しているという人物で、素晴らしいバイタリティの持ち主である。若い彼の話を色々と聞いていて、非常に刺激を受けた。NYで、アメリカ人の従業員を使ってアメリカ人相手に商売をすることの大変さは並大抵のものではないだろう。しかも彼はそれをハードなビジネススクールでの勉強と並行してやっているのだ。勉強と就職活動の両立くらいで大変だなどと言っている場合ではないな、と思ったのである。とにかく彼のその情熱と「前のめり」ぶりが見ていて格好良かった。
SOHO、黒人ジャズマン、日本人タクシードライバー、、、ニューハンプシャー州とは違うアメリカがニューヨークには溢れていた。ふとした拍子に東京とまるで同じ匂いがした。ホテルに戻って”Don't Disturb”のプレートをドアノブにかけてベッドにもぐりこむ。プレートには「”眠らない街”で今私は眠っています」と書いてあった。
11月23日(土) 一生つづく英語との戦い
朝からホテルの一室でインタビュー。久しぶりの英語でのインタビューだったので、どこか「もどかし感」を感じたままに終了する。同じ内容を伝えるにせよ、英語で相手をImpressするというのは非常に難しい。「問題は言葉じゃない、コンテンツだ」----それはある意味で正解。しかし、短時間のアピールにおいては、コンテンツを最大限効果的に相手に伝えることのできる「言葉の力」は必要不可欠である。
あらためて、今後自分は一生英語力向上の問題と戦いつづけることになるんだろうなあ、と思う。逆説的だが、海外留学を選んだ時点で、それはすなわち今後英語環境へのexposureが飛躍的に増える可能性が高くなるということであり、英語との格闘の必要性・度合ともに高まることになるわけだ。その意味では、「海外留学をすれば英語には困らないようになる」というのは真ではなく、「海外留学をすれば英語により困るようになる」というのが正しい。
ちなみに、留学前にイメージしていた「二年間のMBA留学を終えた自分」は、発音はネイティブ並になっており、言いたいことはすべて日本語とほぼ変わらず表現でき、もちろん聞き取れぬものなど何もない---というものだった。しかしとてもではないが、そんなレベルには達しそうもない。実際のところ留学一年強が経過した自分の姿は、発音は日本人英語そのもの、気の利いた表現はなかなかままならず、テレビのニュースでさえ聞き取れないことあり、なのである。
インタビュー後、急いでホテルをチェックアウトし、タクシーでラガーディア空港へ。レバノン直行便が今日はなかったためNYからボストンへ飛行機で飛び、そこからダートマスコーチで日の暮れたハノーバーへと帰ってきた。
夕食後スタディルームに明け方までこもってサプライチェーンのファイナル試験、フィールドスタディの準備、セールスプロモーションのプロジェクトに没頭する。
11月24日(日) そしてアピチャイ君は帰る
昼からセールスプロモーションのタームペーパーのライトアップの構想を練る。「10ページ」という指定が、否が応でも頭に重くのしかかる。あさってにはもうボストンに発たねばならないのに本当に終わるのか、などと思いつつも、まあ最終的にはこういうものは何とでもなるものなのだ。
夕方から同級生Oさん宅で、タイ人交換留学生アピチャイ君の送別会を行う。今学期、彼とは三つのクラスで同じスタディグループに入っており、学期中最も長い時間を一緒に過ごした学生だと言えるだろう。もうハノーバーから帰ってしまう時期なのか、と少ししんみりした気分にもなるのだった。送別会参加メンバーからTUCKポロシャツとトナカイのぬいぐるみを餞別として進呈した。
ディナーは、食通で鳴るOさんと奥様が腕をふるった素晴らしいものだった。何せ刺身はアラスカから空輸で取り寄せた(!)新鮮なものばかり。こちらに来て初めて”日本スタンダード”で心から「うまい!」と思った刺身かもしれない。他にもローストビーフ、茄子の煮付け、スープ、山菜御飯、、、、などなど"幸福"を感じずにはいられないメニューの数々を夫婦で供していただいた。そして日本酒も。就職活動も試験もフィールドスタディも大変な時期だったはずなのに、本当にありがとうございました。
帰宅後、外が明るくなるまでフィールドスタディに関連する資料作成などをする。
11月25日(月) タームペーパー
インターナショナルオフィスにI−20の裏書を頼みに行ったり、散髪に行ったり、と毎回帰国直前にお馴染みとなっている行事をひととおりこなしてから、学校へ。フィールドスタディのチームメートであるKさんと持参資料について簡単に打ち合わせた後に、スタディルームにこもってセールスプロモーションのタームペーパーに取り掛かった。午後7時頃から書き始めて、10ページの力作を完成して教授にメールで送ったのは午前1時頃だった。これでようやく今学期のすべてのカリキュラムが終了したのである。軽い開放感に包まれながら、プロジェクト関係で日本に持ち込むアンケート数百ページをプリントアウトしてから帰宅した。
ようやくカリキュラムが終了したと思ったら家族でのんびりする暇もなく、明日にはボストン入りである。家族との時間はクリスマスの再渡米時まで取っておくことにしよう。
11月26日(火) 帰国前日
昨日裏書を頼んであったI-20をインターナショナルオフィスに行ってピックアップ。その後、スーツケースを赤ちゃんのベッドに見立てて遊ぼうとする娘と戦いながら荷物のパッキングをする。娘は赤ん坊の人形を「クンちゃん」という名前で可愛がっているのだが、それをスーツケースの中に寝かしつけて「だめ!今赤ちゃん寝ているんだから服入れないで!」と激しく抵抗するのである。
午後四時頃通常の倍の時間をかけてようやく荷造りを完了し、午後五時発のダートマスコーチに乗り込む。帰省するフランス人・ロシア人同級生も同じバスにいた。
入学以来これで三度目の帰国である。一度目は昨年年末の就職活動、二度目は昨夏のサマーインターン、そして今回のフィールドスタディ。その間他の国にはカナダに車で一度行ったきり。何だか行き先が偏っているなあ。
現在ローガン空港近くのハイアットホテルでこれを書いている。明日は四時起きだ。
11月27日(水) 日付変更線上にて
4時の目覚ましに起こされて、カーテンを開けて窓越しに見たまだ暗いボストンの朝は何と一面の雪。飛行機は飛ぶのだろうか、と心配して空港に行ったところ、「雪のため2便を1便にまとめる。午前8時発の便は午前6時30分発に繰り上がる」とのこと。雪で遅れることはあっても出発時間が繰り上がるなんて初めてだ。
ニューアーク空港で乗り継ぎをする際にいつも食べるチャイニーズディッシュを食べる。目を上げるとサマーインターンをしていた2社の大きな壁面広告がふたつ目の前に並んでいる。それらを見つめながら、黙々とテリヤキシュリンプを食べた。
飛行機に乗り込んだ瞬間に日本時間に時計を調整して六時間ほど爆睡。日本時間の朝7時頃に起き出して後はノートにひたすら整理すべき事項をまとめていく。いつもやりたいと思いながら、なかなか時間がなくてできないことだ。何時間もじっと座席に座らされては、本を読むか、映画を見るか、ものを考えるかしかやることはない。強制的にこういう時間を与えられるのも悪くないものだ、といつも思う。
今、日付変更線を越え、空白の一日は終了した。日本まであと四時間。
11月28日(木) 日本帰国
午後三時過ぎに成田空港へ到着。日本は想像したよりもずっと暖かかった。成田から二時間半かけて埼玉県の実家へと移動する。
途中、駅の売店で雑誌二冊とガムを購入。購入品目三点の合計金額をこともなげに暗算し、釣銭も暗算するおばちゃんに感動する。アメリカの売店のおばちゃんでは200%ありえない光景だ。ニューアーク空港の姉ちゃんは、こっちが水をオーダーしたにも関わらずいつまでたっても水をよこさないので、「水くれ」と言ったところ、顔をしかめて「水?あんた水頼んだっけ?」と言いやがった。「水 1.5ドル」としっかり書いてあるレシートを見せたところ、顔をしかめて(当然のことながら「失礼しました」なんていう言葉はない)チルドケースの方へ向かう。水を取り出そうとしたところに、他の店員から声をかけられ、彼と二言三言会話を交わすお姉ちゃん。そしてチルドケースに再び向かいピタッと動きが止まるお姉ちゃん。まさかおまえもう忘れたんじゃねえだろうな、と思っていたらやっぱり来た。「で、あんた何頼んだんだっけ?」。。。ニワトリ並の脳みそである。
何でこんな奴らが人口の大半を占める国家に日本は牛耳られているのか、と思わされる瞬間だ。
実家では刺身・日本酒などを口にし、時差ボケも手伝いほどよく酔った。
11月29日(金) 六本木でインタビュー
朝5時半に起きて六本木へ向かう。朝8時半より某コンサルファームでインタビューを受けるためである。このコンサルファームが入っているビルは、実は僕が留学前に8年間働いていたビルでもある。久しぶりにビル周辺の環境を目にしたのだが、この一年間で次々にオフィスビルが立ち並び、街の風景が急激に変化していることに驚く。
二時間ほどかけてマネージャー・パートナーと面接。ボストンにつづいて延べ四回目の面接であるが、このファームとの面接はいつも良いのか悪いのかよく分からない。最後はTUCKのフィールドスタディに関するケースインタビューになってしまった。
昼休みに前の会社の同期とランチ。その他さまざまな懐かしい人々に会社周辺で再会した。
夕方は別のコンサルファームの「筆記試験」を受ける。GMATの和訳版のような試験であったが、いかにも日本語というのはこの種の論理展開に適していない言語であることを実感する。英語で受ける方がまだ簡単かもしれない。
11月30日(土) 50000アクセスという数字
いつも朝起きるとメールのチェックにつづいて自分のサイトをまず確認する。掲示板への書き込みはないだろうかと(滅多にないのだが)一応確認をすること、リンク集から友人・知人のサイトに入るためのポータルとして経由すること、そしてついでにカウンタ数を確認すること、それが目的である。今朝確認をしたら、アクセスカウンタが50000の大台を超えていた。あらためて、しみじみとカウンタの数字を見つめてしまった。
一年半前にこのサイトをオープンしてから、新横浜の自宅で、僕と妻の双方の実家で、レバノンで、セイチャムの2つの家で、ボストンのホテルで、空港のロビーで、インターン中の神戸で、東京で、移動を繰り返しながら更新をつづけてきた。そうやって綴られた、時に思わぬことの起こる、時としてまるで変わり映えのしない日常を、友人が、親兄弟が、知人が、そしていまだ見知らぬ人が入れ代わり立ち代り50000回もアクセスしてくれたわけだ。
50000というこのカウンタの数字は、この一年半の日々が少しずつ少しずつ回ってきたことの記憶とイメージとして不可分に結びついており、何ともいとおしく思える。さて、サイト終了まで残すところあとわずか半年。それらが素晴らしい日々になることを祈りつつ、これまでのご愛顧に感謝しつつ、今後ともどうぞ宜しくお願いします。