MBA留学日乗 200212     | ホームへ   |      | 前月へ   |  | 翌月へ   |  


12月1日(日)      ホテル入り

夕方から重いスーツケースを引きずって銀座のホテルに移動する。これから三週間の間活動の拠点とすることになるホテルである。プロジェクトのメンバーは全部で6人。アメリカ人のフランクとサラ、シンガポール人のアン、日本人のKさん、Mさん、そして僕である。僕がチェックインを済ませて30分ほどしてから同室のフランクが登場。日本入りしてから三日間の間に京都・奈良を見てまわっていたという。チェックインの遅れたKさんを除く5人でさっそく銀座の街へ夕食へ出かける。コストコンシャスな我々5人組が出かけた先は「和民」であった。

食事をしながらいろ色んな話をするが、日本が初めてだというフランクとサラにとっては、何もかもが珍しい様子。チップの習慣、お辞儀の仕方、ビジネスマナー、からコインの種類に至るまで質問攻めだ。

夜、我々のスーパーバイザーであるMassey教授が遅れてホテルにやってきたが、疲れていた我々はミーティングを明朝に延ばして今夜は睡眠を確保することにしたのであった。


12月2日(月)      プロジェクトスタート

フィールドスタディ第一日目の今日、午前中はまず今回のプロジェクトのスポンサーである某社社長を訪問して我々のプロジェクトの内容に関する打ち合わせを行った。彼はTUCKを1966年に卒業した我々の大先輩なのであるが、昼食時の雑談で当時のTUCKの様子を聞き、当時のTUCKと現在のTUCKとのあまりの違いに驚く。まず、当時は男子学生しか受け入れない男子校であったということ(実はアイビーリーグの多くの学校は驚くほど最近まで女子を受け入れていなかったのだ)。入学時に160人いた同級生が二年生進学時には120人にまでふるい落とされたということ(キックアウト率25%!今と比較すると信じがたい)。そして月〜金毎日3コマの授業の後に、毎週土曜日には試験があり、その結果のランキングがすべて壁に貼り出されていたということ(今は一年生秋学期を除き週休三日、テスト結果を貼り出すなんてもちろんありえません)。この30数年で随分とTUCKにおける教育スタイルも変わったのだな、と初めて知った。”スパルタ式”から遠ざかっていくのは、何も日本だけの傾向じゃなく、先進国の社会全体の傾向なのかもしれない。

夜はダートマスの卒業生で日本のローファームでパートナーをしているという人物とディナー(会場はなかなか庶民的に居酒屋の「藩」であった)。この人物、在日米国商工会議所の会頭をしていたというだけあって、日本語が完璧である。Massey教授もかなり日本語は流暢な方だが、彼は電話で話したら日本人と区別がつかないほど綺麗な発音だった。

「えーっと、だし巻き玉子と、ぶり大根と、焼き鳥盛り合わせと、あと肉じゃがと、、、、まあ、とりあえずそんなとこで」。こてこての外人顔のMassey教授と彼がメニューを眺めながら完璧な日本語でオーダーしていくのは何となくファニーなのだった。


12月3日(火)       デバリエ氏・フランク誕生日・六本木

今回のフィールドスタディーのチームメンバーは全部で6名である。日本人が3名、非日本人が3名だ。アメリカ人のフランク、サラ、シンガポール人のアン、そして日本人のMさん、Kさん、僕、である。一年冬のフォーラムプロジェクトと失敗学の授業で一緒にチームを組んだKさんを除くと、あとの5人は同じチームに入るのはこれが初めてだ。午前中はその6名全員及びスーパーバイザーのMassey教授と品川の某社を訪問し、インタビューを行う。

夕方からは五反田にあるMBA受験予備校「インターフェイス」をチーム全員で訪問し、チーフカウンセラーのデバリエ氏に我々のフィールドスタディに関するインタビューを行った。その後会場を移し、集まっていただいた15名のアプリカントの皆さんに対してTUCKに関するプレゼンを行う。英語のプレゼンだというのに、なぜか僕がプレゼンを担当。プレゼンにつづいてのQ&Aでは、6人のチームメンバーが入れかわり立ちかわり回答したのだが、皆の回答を聞いていて思ったのは、「皆本当にTUCKが好きなのだなあ」ということである。何とかTUCKの魅力がうまく伝えられていると良いのだが。

その後、チームメンバー全員でインターフェースのデバリエ氏・Kさんに中華料理屋でディナーをご馳走になる。受験生時代随分と罵倒され、極めてエキセントリックな存在に見えたデバリエ氏が機嫌よくジョークなどを飛ばす様を見て、しみじみとあれから時間が経過したことを感じてしまった。

ディナーが終わったのが午後10時過ぎ。それから今日が30歳の誕生日だというフランクのバースデーパーティーをするために六本木へ移動。まずはバーでプレゼントを渡し、フランクが強く希望したカラオケボックスで6人で大騒ぎをし、さらに午前2時近くになってからクラブへと移動する。

結局明日早くからインタビューの予定が入っているアン、Mさん、Kさんの3人を途中で返して、サラと僕は午前5時までクラブで盛り上がりつづける本日の主賓フランクに付き合っていたのだった。明け方、三人でタクシーに乗ってホテルに戻る。

それにしても長い一日だった。寝不足と疲労とアルコールで頭の奥が鈍く痛んだけど、それはそれほど悪い感じではなかった。タクシーの中で、サラが「まだたった二日しかこのチームで一緒にいないなんて信じられない」と呟く。確かにもう随分長くこのチームで一緒に過ごしている感じがした。


12月4日(水)        大いなる偶然と英語のケース

明け方5時過ぎにホテルに帰り、インタビューアレンジのメールを送ってから6時にようやく就寝。しかし、わずか2時間後にかかってきたMassey教授からの電話で叩き起こされる。「今からミーティングをしよう」と言うのだ。皆の部屋に電話をして、一階ロビーに集合するよう伝達。わずか三時間前までご機嫌で呂律がまわっていなかったはずのフランクも死にそうな顔をしながら何とか隣のベッドから這い出してきてミーティングに参加した。

ミーティング後二時間ほど仮眠をとってから某社のClass of '92のTUCK卒業生をフランクと二人で訪問してインタビューを行う。一時間ほどのインタビューを終えた後の雑談で、卒業生氏もTUCKではトライポッドでホッケーをし、ダートマススキーウェイでスキーに勤しんでいたということを知る。彼が"I miss Sachem Village."と言うので、どのユニットに住んでいたのか聞いたところ、何と現在我々が住んでいるユニット101だったということが判明。何という偶然か。10数年の時を隔てて同じ場所に住み、同じ場所でホッケーをし、同じ場所で学んだ二人がこうしてここで会っている。あのユニットのあの部屋で、今目の前にいる彼が若かりし頃暮らしていたのだ、と思うことはとても不思議な感覚だった。実は昨年末に某社でインタビューをした時も、当時僕が住んでいたユニット36に在学時に住んでいたという卒業生に会ったことがある。フランク曰く、「彼が"I miss Sachem Village."と言った瞬間に、彼はヒロシと同じユニットに住んでいたんだと思ったんだ。なぜかは理屈で説明できないけどね。こういう偶然って通常考えられているよりも頻繁に起こるものだと思わない?」。たしかにそんな気もする。

ランチは新丸ビルで鴨南蛮そばを食す。「二日酔には蕎麦だ」と言って彼を連れて行ったのだが、「うまい。こういうあっさりしてうまいものってアメリカにはないんだよね。毎日でも食べたい」とフランクもご満悦。最後は店員による江戸時代の蕎麦に関する講釈を聞きながら蕎麦湯を飲んだ。

夜は某コンサルファームでケースインタビュー。パートナー2人とプリンシパル1名と会ったのだが、ケースはすべて英語。実は英語のケースは練習も含めて今までやったことがなく、かなり面食らった。何とかこなせたのは、朝から晩までチームで英語を話しているため頭の中がかなり「英語モード」になっていたからだろう。寝る前に最後にしゃべる言葉も英語、起きて最初にしゃべるのも英語。寮に住んでいれば当たり前のこの環境も、家族持ちにはありえないものである。かくしてアメリカにいた時よりも今の方がかえって「英語モード」が高まっているという逆説的な状況が生まれるのである。

インタビュー後は、同ファームで働いている昨年度のTUCK卒業生Eさん、Mさんと久しぶりに会って食事をした。


12月5日(木)        忙しい日々

午前中にチーム全員で某氏を囲んでミーティング。午後からはチームメンバーKさんの派遣元企業に出かけて会議室を借り、今後の計画についてディスカッションする。夕方からはTuck'02の方をアンと二人で訪問しインタビューをした。そうこうしているうちにあっという間に夜だ。

プロジェクト開始から今日までの四日間は当初思っていたよりも忙しく、洗濯物をコインランドリーやクリーニングに出す時間もないほどだ(ホテルのランドリーサービスは我々にとってはあまりにも高い)。したがって、皆だんだんと手持ちのパンツとシャツが底をつきはじめている。今日はついにコンビニでパンツを購入してしまった。

しかし、こうやってインタビューの名目によって普段入ることのできない様々な企業を訪問し、さまざまな人と会えるのは本当に貴重な機会だと思う。また、TUCKの卒業生が忙しい業務の中でも、我々学生のプロジェクトに対して非常に協力的に接してくれることにも改めてimpressされた。TUCKコミュニティのありがたさを実感する時である。


12月6日(金)        六本木の夜

午後からMassey教授、アンとともに三田に出かけて、慶應ビジネススクール(KBS)の学長とミーティング。KBSの現状などについてインタビューするとともに、我々のプロジェクトに関する意見を聞く。

夜は以前勤めていた会社をサラと一緒に訪問し、インタビュー。インタビュー後は歩いて六本木へ移動してフランクとKさんと合流する。六本木交差点近くの飲み屋でフランクとサラに日本での酒の礼儀などを教えつつ飲んだ。説明してみて初めて、日本の酒の場でのマナーというのはなかなか複雑なもんだな、ということが分かる。相手のビールがグラス半分程度になったら注ぐように、お酌は片手でなく両手でするように、お酌を受ける時も両手で受けるように、お酌してもらったら必ずお返しするように、相手がお銚子を持ってお酌してくれそうになったら一口だけでも飲んだ方が望ましい、などなど、我々としては当たり前のマナーを次々と教授していくのだが、彼らにとってはなかなか覚えるのは大変なことらしい。

結局その店を出た後も我々四人は六本木で遊びつづけ、ホテルに帰ってきたのは明け方5時過ぎであった。その間に行った店は、バー → 居酒屋 → クラブ → クラブ → バー → サルサクラブ → クラブ → ラーメン → ビリヤードと、計9軒。遊びすぎです。


12月7日(土)        渋谷、六本木

昼間はホテル内でミーティング。夜はメンバー全員でしゃぶしゃぶ食べ放題の店へ。肉を湯の中で泳がせる時は必ず「しゃぶしゃぶしゃぶ」と言うように、などと誤った知識を教える。その後渋谷へ移動し、クラブ→カラオケ→クラブ→六本木へ移動してバー→クラブ→ラーメン→ビリヤードでまたも朝6時であった。

ところで、フランクとサラから「ヒロシのウェブサイトを読んだ、とメールを受けたけど、いったいウェブサイトに何を書いてるんだ。まさか全部書いているわけじゃないよな。以後我々のことは書かないように」、と文句を言われたので、今後「夜系」の内容は極力書かないことにします。

TUCK同級生の皆さんへ

彼らは日本語が読めず、いったいどんなやばいことを書かれているのかと疑心暗鬼になるため、あまり「ヒロシのHPを読んだぞ」と言わないように頼んます。実際書かれるとまずいはずの出来事がたくさんあるので(笑)。


12月8日(日)        貴重な休日

またも二時間寝たところをMassey教授に電話で起こされた。「レターがプリントできないんだけど、何とかしてくれ」と言う。朦朧とした頭でベッドから這い出し、レター4部のプリントアウトを手伝う。宛名には誰もが知っている4名の日本人エグゼクティブへの名前が記されてある。彼はその後、別のTUCKチームが現在フィールドスタディを行っている中国へと旅立っていった。

その後ホテルの部屋でベッドに倒れ込み夜まで眠る。夜は友人と会って食事。

貴重な休日は、ほとんど寝て過ごした。信じられないほど暖かかった東京が急に冷え込み始めた。


12月9日(月)        雪の東京

朝起きると雪がちらついている。東京では、特にこの時期には珍しいことだ。積雪自体はたいしたことはなかったが、ニュースでは「関東の”大雪”で交通機関に乱れ」などと報じていて、雪の町ハノーバーからやってきたものの目には実に微笑ましく映った。

午前中は雪の中をフランクと一緒に通信会社へ訪問し、インタビュー。

夜は近く定年退職される予定の元上司の送別会に参加する。


12月10日(火)       風邪ぎみ

午前中Kさん派遣元の会社の会議室を借りてチームでミーティング。夕方からMBA受験予備校である四谷のAMTを訪問して社長のアンドリュー氏に我々のプロジェクトに関してインタビュー。

実は昨日あたりから風邪がひどくなりつつあり、今夜は外での食事を控えて夕食は部屋でコンビニ弁当を食した。同室のフランクも同じく体調を崩しており、部屋でコンビニ弁当で夕食。6人のチームが一緒に生活し、行動しているので、誰かが風邪をひくとあっという間にチーム内に風邪が蔓延していくのだった。


12月11日(水)       体調すぐれぬ一日

午前中霞ヶ関の官庁、夕方銀座のエネルギー関係会社を訪問してインタビュー。夜はTUCK卒業生Y氏にホテルまで来ていただきインタビュー。しかし、風邪で咳が止まらず、頭も終始ぼーっとしている。どうやら風邪のために体温調節がうまくいかないらしく、冷や汗のような不快な汗が時に滝のように流れ落ちる。そして次の瞬間には寒くてたまらなくなる。インタビューでも「愚問」の類を繰り返してしまい、体調がすぐれない時というのは頭も働かないものだなあ、と実感した一日だった。

夜は麻布十番の和食屋にてフランクとサラと食事。アメリカ人男性は正座もあぐらもできないことを忘れて座敷に連れていってしまい、フランクは食事中も非常に辛そうだった。なぜかアメリカ人でも男性だけがあぐらがかけないらしい。何とかあぐらの体勢を作っても後ろに倒れてしまうのだ。彼らはその原因を「男は女よりも足が長くて体が固いからだ」と説明していた。分かるような分からないような。しかし、我々にとっては極めてコンフォタブルな体勢であるあぐらを、拷問のように感じる人々が世界にはいるという事実もやはり驚くべきひとつの発見である。

TUCK同級生T内氏から息子誕生のメールがあった。おめでとう!!東京に着いてから、マルティン、ジョンにつづいて三人目の同級生からのベビー誕生の知らせである。早くハノーバーに帰ってT内氏夫妻の息子に会いたくなった。


12月12日(木)       風邪悪化

午前中に総合電気メーカーにてインタビュー。しかしいよいよ風邪が悪化し、話していても辛い。インタビュー後にホテルに戻ってからは午後のインタビューをチームメイトにまかせ、風邪薬を飲んであとはひたすらベッドで眠った。チームメイト達は新宿で盛り上がっていたらしい。


12月13日(金)       忘年会シーズンの六本木

昨晩15時間以上眠りつづけたので体調はだいぶ快復した。午前中商社、午後重機メーカーでインタビュー。夕方は会議室でチームミーティング。

夜は六本木で開かれた以前の職場の忘年会に参加した。年末の金曜日、六本木の街は忘年会シーズンで盛り上がっている。不景気の影はどこにも見えない。見慣れた、居心地のよい、猥雑な、いつもの六本木。しかし体調の方はいまだにあまりすぐれず、なかなか辛い。不本意ながら早めに切り上げて銀座のホテルに帰ってきた。


12月14日(土)       鎌倉へ

朝9時過ぎにホテルを出て電車に乗って鎌倉へ向かい、研修施設を見学する。皆昨夜は遅くまで飲んでいたらしく、凄まじく不機嫌な顔である。チームメイトの一名は「起きられない」ということで見学そのものをキャンセル。施設を見学した後はそのまま鎌倉観光に向かうが、皆寝不足・体調不良のためあまり気乗りしない様子。駅から大仏まで歩く気力もないとのことで、結局鶴岡八幡宮まで歩いてお茶を濁した。門前の出店では売られていた「ハム太郎」のお面を娘のために思わず購入。

【鎌倉・鶴岡八幡宮にて】

夜は芝大門の「牛角」で皆で焼肉。その後カラオケで騒ぎ、さらにまたもや六本木のクラブで朝まで踊る。


12月15日(日)       休日は洗濯を

朝まで飲んだ翌日、例によって皆昼過ぎまで眠る。午後から大きな袋二つ分たまった洗濯物を持ち込んでコインランドリーで洗濯。ホテルのある銀座周辺にはコインランドリーもないため、洗濯するためにタクシーで築地まで移動しなければならない。それでもホテルのランドリーサービスにくらべればはるかに安い。洗濯機・乾燥機を回している間にもKさん・フランクと椅子に並んでノートPCで作業。

ようやく体調は快復したか。咳だけはまだ出ているものの、熱っぽさはほとんどなくなった。


12月16日(月)       リユニオン

午前中は汐留の広告代理店、午後は銀座の出版社でインタビュー。

夜はT'02の人々と我々フィールドスタディチーム合同で恵比寿で忘年会。計10人ものT'02の人々が一同に会し、我々チームメンバー6名にMassey教授、今年合格した二名のT'05予備軍、さらに現在アプライ中の方も加わって非常に賑やかな会になった。

一次会が12時前に終了した後に、一部のT'02の人々と我々で六本木に流れてカラオケボックスで大騒ぎする。カラオケが終了してホテルに戻ったのは結局午前三時過ぎだった。

【恵比寿でのリユニオン】


12月17日(火)         インタビュー終了

午前中鉄道会社、午後製鉄会社を訪問。この二社は道路民営化委員会で、「鉄屋が」「鉄道屋が」と罵りあったあのお二人の会社であった。守旧派と改革派という対極のイメージの確立した二人であるが、それぞれの会社の本社ビルもなかなか対象的なものだった。

これで二週間半のインタビュー期間がほぼ終了。50を超えるインタビューをすべて終え、これからいよいよプロポーザル作りに入る。しかし、色んな会社のオフィスを見、色んな会社の人々と会ったこの機会は非常に貴重なものであった。取引先でもない限り、こんなに幅広い業界にわたる多くの会社の職場を見る機会というのもないだろう。

プロジェクトのインタビュー終了後はコンサル会社で最後の面接を受けた。これで就職活動の方もすべて終了。あとはすべての結果を待って、悩みに悩んで最終的な判断を下すことになる。

その後某社会議室を借りて夜11時過ぎまでチームでミーティングをする。


12月18日(水)        終日ミーティングの一日

朝から会議室で一日ミーティング。インタビューで得た情報を整理し、その結果をどういった形で金曜日にクライアントに対してプレゼンするかを議論する。結局深夜12時までミーティングはつづいた。ホテルに帰ってからも部屋で三時過ぎまで作業する。

このプロジェクト期間中、チームメイト全員が順繰りに風邪をひいていたのだが、今日はついにMassey教授も風邪でダウンしてしまった。ひどい声だ。プロジェクトも残すところあと二日。


12月19日(木)                 プレゼン前日

今日も終日会議室でミーティング。明日は東京でのプロジェクトの最終日であり、クライアントの前でこれまでに作業した内容についてプレゼンをする日である。今日中に内容を固め、マテリアルを仕上げ、プレゼンの練習までしなければならない。なかなかにハードな作業である。

午後8時過ぎに何とかプレゼンのマテリアルを仕上げてホテルに戻る。プレゼンテーターもKさん、フランク、僕の三人に決定。なぜか今回のフィールドスタディの「チームコーディネーター」になっているので、この役目は逃げられない雰囲気でもあった。ホテルの戻ってから慌しくコンビニ弁当を食し、Massey教授の部屋に出向いてプレゼンテーションのリハーサル。出だしは僕であるが何の練習もしていない僕はとにかく度々つっかえる。英語でのアドリブプレゼンはおそらく卒業するまでできるようにはならないだろう。僕が何度もつっかえつっかえプレゼンしていくうちに、Massey教授の顔が段々不安げになっていくのが分かる。「ちゃんと練習すれば明日は大丈夫ですから。安心してください」と繰り返し言って部屋に戻った。

それからはプレゼンの原稿をすべて書き出し、夜の銀座の街を歩きながらプレゼンの練習。歳末の銀座をメモを手にぶつぶつ言いながら歩きまわる。今後銀座にやって来るたびに思い出すだろう、と思いながら歩いた。正直、そうやって真夜中の銀座でプレゼンの練習をしているという非日常そのものが楽しかった。結局何とかさまになるかという確信を持ってベッドに入ったのは午前四時をまわっていた。


12月20日(金)       プレゼンテーション・プロジェクト終了

朝九時過ぎにお迎えの車に乗り込み、クライアント企業へと向かう。東京は快晴だった。

プレゼン前に、社長夫妻・会長夫妻を交えて深い絨毯に覆われた特別室にてセレモニーを行う。記念品の贈呈、記念写真の撮影、そしていよいよプレゼンテーションである。スタートは僕だ。「あらためまして、おはようございます」と日本語で切り出し、後は英語。その後はいつものとおりのプレゼンだった。フランク、Kさんへと順調にバトンは渡る。昨晩思い切り期待値を下げておいたMassey教授は、我々のプレゼンに目を丸くしながら聞き入っていた。

プレゼン後、クライアントの社長と昼食を共にしてからホテルへと戻る。三週間にわたるプロジェクトが終了したのだ。三週間前に同じ道を車で帰ったのが遠い昔のように思える。「三週間前の社長とのミーティングなんて、まるで何ヶ月も前のことみたいだ。でも一方ではあっという間に毎日が過ぎてしまった、という矛盾した感覚もあるんだよね」というフランクの言葉は、そのまま僕の実感でもあった。濃密な、あっという間の三週間だった。

ホテルに戻ってから部屋で仮眠をとる。夕方、教授とチームメイトで軽く打ち上げのビールを飲み、そしてチームメイトだけで鉄板焼屋にて打ち上げ。さらに銀座のカラオケボックスで最後のカラオケをする。新潟県の奥さんの実家へ今日中に新幹線で帰るというKさんは、最終の新幹線に間に合うようにと帰っていった。残ったメンバー全員で六本木へ。期間中何度も行ったバーで飲み、踊る。

「ハノーバーに戻ればまた毎日会えるのは分かっているけど、それでもこのメンバーで東京でworkすることはもう二度とないかと思うと悲しい」とサラはやや感傷気味。開放感と感傷に包まれ、我々は壊れたように飲み、騒いだのだった(途中、LBSのHさんにばったりと邂逅したのであったが、久々に会ったというのに我々のお見苦しいところをお見せしてしまったかもしれない)。

明け方にホテルへ戻る。フランクと二人、それぞれのベッドに寝そべりながら、おかしいほどの大声でこの三週間の思い出話をしているうちにいつの間にか眠っていた。


12月21日(土)       バイバイ銀座

僕もフランクも例によって二日酔。お互い昼過ぎまでベッドの中にいたあと、ノロノロとおきだしてパッキングを始める。無理やり延ばしてもらったチェックアウト時間ギリギリになってようやくホテルをチェックアウトした。

サラは昼過ぎのエアポートリムジンで成田空港に向かって去っていった。Mさんも午前中にチェックアウト。アンはもう2・3日銀座の同じホテルに滞在するという。フロント前で彼女と別れの抱擁を交わす。フランクは彼の”ホームグラウンド”である六本木のホテルに場所を移し、月曜日に僕と同じ便でボストンへ帰る。地下鉄の車両の中で彼と最後の挨拶をした。皆、慌しく三週間生活をともにした銀座を離れていった。

夕方から八王子の妻の実家に移動。久しぶりの家族と焼肉。


12月22日(日)       実家へ

妻の実家で昼過ぎまでひたすら眠る。いつものことだけど、ただ食べ・眠りにだけ帰ってきているようで申し訳ない思いだ。それでもなかなかベッドから起き出せなかった。

三時過ぎにテレビで有馬記念を確認した後、電車で今度は埼玉県の自分の実家へと移動。両親と日本酒を飲み、鍋をつついた。もう明日には日本を離れるのである。


12月23日(月)       帰国 なぜかローガンのホテルにて

二時間近くかけて山のような荷物を何とかパッキング。昼過ぎに重いスーツケースをゴロゴロと引きずって実家を出、成田空港へ向かう。成田空港の搭乗口でフランクと再会し、コンチネンタルに乗り込んだ。

飛行機に乗り込んだ瞬間に眠りに落ちる。目が覚めた時に随分と眠ったような気がしたが、まだ機体は滑走路の上にある。電気系統のトラブルとかで二時間ほども滑走路にとどまっていたらしい。それから間もなくして、ようやく飛行機は離陸した。

実家を出てから18時間ほどたった東部時間午後6時過ぎにようやくニューアーク空港へ到着。乗り継ぎ予定だった午後5時発の便はもうとっくに出てしまっており、次に乗ることができるボストン行きの便は午後8時過ぎだという。それではハノーバーへ向かう最終のダートマスコーチには間に合わないのだ。コンチネンタルの職員に、「乗る予定だったバスに乗れなくなったのでボストンでホテルに泊まらざるをえない。飛行機の遅れが原因だからホテル代は出してくれるんだろうな」と言うと、「そんなこと言われても分からない。ボストンの人間に聞いてほしい」という答え。「飛行機が遅れたのなんて私のせいじゃないのに、何言ってんのよ」というトーンのお馴染みの対応である。「あらためて、日本の”サービス”とはまるで違うなあ」とひとしきりフランクと笑う。「”はい飛行機遅れたね。代わりの便はこれとこれ!どれがいい?早く決めて!”だもんな。”すいません”の一言だって聞いたことがないよ。」

自宅の妻に今晩の迎えの必要がなくなったことを連絡し、ボストン行きの飛行機が出るまでニューアーク空港のロビーでフランクとビールを飲んだ。ホテル代のreimbursementについては結局ローガン空港の職員でも埒があかず、後日書類で交渉することにした。結局ローガン空港近くのヒルトンホテルでこれを書いている。

初めての渡米時から数えてこれが四度目の米国入国。次の出国はいよいよTUCK卒業、日本帰国の時、となるはずだ。


12月24日(火)        クリスマス・イブ

朝一番のダートマスコーチに乗ってハノーバーへと帰った。ハノーバー・インの前で妻にピックアップしてもらう。娘も自分の隣に赤ん坊の人形を並んで座らせて元気そうだ。

そのまま車で三十分ほど走った山奥にあるMassey教授宅へ。先週から年明けまでの約束でMassey教授宅の"house sitting"をしているのである。教授宅は未舗装の道路をくねくねと登った山奥にある山荘風の建物。駐車スペースに車を停めると二匹のレトリーバーが出迎えてくれる。犬に導かれて家の中に入ると壁一面にしつらえられた窓から遠く山の稜線がうねるさまが見える。何と贅沢な家だ。

夕方5時過ぎにはすっかり日も稜線の向こうに隠れてしまい、窓ガラスの向こうは暗闇に包まれる。音もなく、窓の外には光もなく、まるで真夜中と錯覚するような空間。時間の感覚自体を失うような不思議な空間だ。久しぶりの家族のディナーをとり、暖炉に火を入れ、薪の爆ぜる音を聞きながらワインを飲み、そしていつの間にか強烈な眠気に襲われ、眠った。まるで真夜中のような気がしていたその時、時計はまだ午後八時であったらしい。クリスマスイブの東京であれば、まだこれから夜が始まるであろう時間だった。


12月25日(水)        ホワイトクリスマス(やや行き過ぎ)

時差ぼけのためか、単に昨夜早く眠ったためか、早めに目が覚める。午前中はT内夫妻宅に生まれたばかりの赤ちゃんを見に出かけた。生まれたばかりの赤ん坊は小さく、儚く、しかし力強かった。家族で交互に抱っこさせてもらう。娘も抱っこさせてもらい、嬉しそうだ。昨年の今ごろは独身寮で一人暮らしをしていたT内氏がこうして父親をしているのを見ると、勝手に深い感慨を抱いてしまう。(ところでT内氏は愛息に"Pond"というミドルネームをつけたらしい。ポンドホッケーを何よりも愛する彼ならでは、の命名である。)

午後から少し作業をするためにセイチャムの自宅へ。自宅へ向かう車の中ではラジオがノンストップでクリスマスソングを流している。窓の外は雪だ。スピーカーから流れるクリスマスソング、窓の外を流れる白樺の木立、そして雪、、、素晴らしく出来すぎたクリスマスだ、などとその時は思っていた。やがてセイチャムの自宅に着く頃には路面には少しずつ雪が積もり始めていた。自宅で30分ほど作業をしてふと窓の外を見るともう15センチほども雪が積もっている。これはまずい、ドカ雪になる、と思い、慌てて荷物をまとめて車の中に乗り込んだ。視界も真っ白、路面も真っ白で、非常に緊張するドライブである。特にMassey教授宅に至るまでの最後の約3キロは未舗装の山道である。20センチほども雪が積もった山道を緊張しながら時速15キロほどでノロノロ走行しながら帰った。

教授宅に着いてしばらくしたら、雪は完全に横なぐりの吹雪となった。見る見るうちに窓の外にある構築物が雪に埋もれていく。ニューハンプシャー・バーモントの空が本気で雪を降らせた時の怖さを改めて思い起こした一日。何はともあれ、ホワイトクリスマス、である。


12月26日(木)        一面の銀世界

朝目が覚めると窓の外の吹雪はすでにやんでおり、眼下には一面の銀世界が広がっていた。もみの木や杉の木に積もった雪が時折「ザザザーッ」と大きな音をたてて落ちていく音と、こんな寒い日にさえ元気に飛び回る小鳥のさえずりだけが聞こえる。下界から家の前まで延びているはずの道路は雪に覆われてその痕跡さえ認められず、ああ今我々は山の上に完全に孤立しているのだなあ、という思いを抱かせる光景だけが目の前に広がっている。仕事もない、学校さえない今の我々にとっては、それも悪くない。

除雪車が昼頃やってくるとのことだったが、家のエントランスから駐車場に至る20メートルほどのスロープは誰も除雪してくれないので、スコップ片手に除雪に取り掛かる。雪は太ももの位置まで積もっており、20メートル進むのに一時間近くも費やした。それでも気温が零下10度と低く雪がサラサラのパウダースノーだったため、除雪作業としては楽な方か。僕が少しずつ進むにつれて姿を表していく雪の回廊は、ほぼ娘の身長と犬のしっぽまでを覆い隠すに充分の高さがあり、彼らは大喜びでその回廊の中を走りまわっていた。

夕方、香港でのフィールドスタディを終え帰国したばかりのOさん夫妻が遊びにやってくる。明日から南米に旅行に出かけるのだとか。しばし下界を見下ろしつつコーヒーを飲みながら歓談。やがて彼らを乗せたレガシーが去っていった先には、早くも影絵となりつつある山の稜線があった。

一日はこうして終わった。一週間前までいた銀座・六本木での日々とのあまりのコントラスト。当たり前のことだが、世界にはさまざまなライフがある。東京とハノーバーを行き来するたびに実感する真実。「視野が広がる」というあまりにも漠とした表現の中に含まれる無限の真実を思う。おそらくは今後の人生においても武器となるべき「広がり」なりき、か。すぐそばにある「別のライフ」にリアリティをもって思いを馳せることさえできたならば、ひとつの価値観に埋没しての、あるいは価値観さえ失っての、過労死などという切ない結末などなかりしものを、と少しの痛みと共に思う。


12月27日(金)       セイチャムへ移住

どういうわけかMassey教授宅に入ってからアレルギーの諸症状(喘息、鼻水、目のかゆみ、等)が出ており、どうやらこれは犬の毛が原因ではなかろうか、という結論に達した。以前にさまざまなアレルゲンに対する反応を調べた時には猫の毛、ハウスダストなどに対する数値に比べて犬の毛に対する数値は10分の1から50分の1程度に収まっており、取るにたらないものだったはずなのだが。体に出る症状は猫の毛に対して出る症状の軽いものではあるが、内容はごく似通っている。そして家の外にしばらくいると症状は治まるところを見ると、やはりどうも間違いなさそうなのだった。

そんなわけで、僕一人だけセイチャムに移住することに相成り、午後からセイチャムに引っ越した。それにしても、残念。昔は実家で犬を飼っており、その時にはアレルギーなど出なかったのだが。将来は、犬好きの娘のためにも犬を飼いたいと考えていたため、その意味でも非常に残念である。これでは犬など飼えないではないか。

花粉症やアトピーなど、種々のアレルギーを抑える薬や療法は色々と開発されてはいるが、完全にそれを根治する方法はいまだ存在していない。この種の現代病に苛まれていること自体が、何だか自分が過度に繊細な存在に思えて、何やら無力感を覚えるのである。


12月28日(土)       ホッケー観戦

ダートマス大学のアイスホッケー部年内最後の試合が今日明日と行われるというので、T内氏、Mさんとトンプソンアリーナに出かける。ホッケー観戦好きの娘も一緒だ。通常のアイビーリーグやECACリーグとは異なる招待試合のため、さほど混雑していないと思って出かけたのが、アリーナ近辺は駐車スペースを見つけるのも一苦労なほどの混みよう。"Big Green"のホッケーの試合は、ここでは何にも増しての一大イベントなのだ。我々の座った席のすぐ近くには前アドミッションディレクターのサリーも家族と一緒に観戦に来ていた。

娘を膝の上に乗せて観戦していると、隣に座ったおっさんが「彼女はホッケーが好きなのかい?この子も大好きなんだよ」と話しかけてくる。見ると一歳前後の女の子が口をぽかんと開けてリンクを見つめていた。そうか、ホッケー好きか。。。

ノートルダム大学との試合は、4−0の楽勝ムードから一挙3点を返されると会場は一転して緊張感溢れる接戦モードに。しかし、さあこれから、というところで娘が急に「おうちに帰りたい」と言い始めたため、第2ピリオドが終わった時点で断腸の思いで会場を後にした。試合は大接戦の末にダートマスがノートルダムを振り切ったらしい。


12月29日(日)       TUCK日本人忘年会

せっかく豪邸に住んでいるので、その有効活用のために、現在ハノーバーエリアに残っている数少ないTUCK日本人を招待して(といっても料理はやはりポットラック)忘年会を催すことになった。年末年始は海外へ旅行に出かけていたり、日本に帰国していたりする人々が多く、ハノーバーに残っているのは半分もいない。それでも、生まれたばかりの赤ん坊二人を含めて二十名近くが集まり、雰囲気的にはとても賑やかな、会になった。ポットラックで持ち寄っていただいた料理を食べつつ、暖炉のまわりでワインや日本酒などを飲む。

行きの山道を見た皆は「帰りは明るいうちに帰りたい」と口を揃えて言い、4時過ぎには一斉に帰っていった。まだ飲み足りなかった僕は一年生のM内さん一家を半ば無理やり引き止め、暖炉の前で飲みつづけた。やや飲みすぎたか。

今夜の夜空は、プラネタリウムでも見たことのないほどの星空だった。


12月30日(月)        二日酔の年末

予想どおり二日酔で目覚める。午前中にセイチャムに移動し、妻はウェストレバノンのモールへ買い物へ。娘と二人セイチャムの我が家に残った僕は娘を遊ばせてベッドへ。「パパは寝てるから、何か用事があったら起こしなさい。わかった?」と娘に言ってベッドで仮眠。しばらくして娘が奥の部屋で泣きじゃくる声で目が覚めた。ひとりで遊んでいるうちに寂しくなったらしい。ひとしきりなだめてやると、またケロッとした顔でテレビを見ている。妻が帰宅すると、「もえちゃん、ないてたよ!」と真っ先にご報告。よくかわらん。

二日酔の時は寝るに限る、ということでひたすら眠る。合間に起きてややマイナー系のボウルゲームなどを観る。そしてまた眠る。年末の忘年会で飲みすぎて二日酔、基本的にやっていることは洋の内外を問わず変わっていません。


12月31日(火)        大晦日

セイチャムでカウントダウンパーティーをやるということだったが、「家族で年越しそば」の魅力が勝り、夕方教授宅へ家族揃って移動。昨年の年越しは日本の実家であったので、これが初めてアメリカで家族で過ごす年越しなのだ。そもそも、帰国子女の妻と違って、僕にとっては海外で年を越すこと自体が32年間の人生の中で初めてのことだ。思えば実にドメスティックな人生を送ってきたものだ。

山の上の教授宅では、夕方から海老の天ぷらを揚げ、そばをゆで(残念ながら今回は手打ちではない)、年越しそばを調理。今後も懐かしく思い出す大晦日になるだろうな、と思いつつそばをすする。

2002年という一年は毎年感じる感慨と同じく、実に「あっという間」だった。一方で一年前のことを思い出すと、随分と昔のことのようにも思える。一年間で文字通り山のようなリーディングアサインメントを読んだ。米国内・日本国内双方での得がたい経験を通じて職業観が変化した、あるいは固まったような気がする。素晴らしく中身の詰まった一年間であったとは思うが、"how"については他人にうまく説明することはおそらく不可能だろう、とも思う。

1月 就職活動のために帰国していた日本から再帰米。一年目のWinter termスタート。"Corporate Finance," "Marketing," "Strategy,"  及び Leadership Forum Projectを履修。
2月 妻子が再び渡米し、セイチャムで一緒に暮らし始める。と同時に娘は40度の高熱を発して結構慌てる。カンピオンリンクの凍結した駐車場で三台の車に玉突き衝突。サマーインターン先が確定。
3月 プロジェクトのプレゼンテーションが終了し、二週間のSpring breakに。LBSよりOさん来る。三月後半よりSpring Termスタート。"Technology," "Operation," "Managerial Accounting (Shank)," "Professional Decision Modeling," "Learning from Mistakes"を履修。
4月 Wharton Schoolで行われたホッケー「チーズステーキ杯」にて、誕生日ゴール。二年生の送別ホッケー大会後、ホッケーシーズン終了。学内ソフトボール大会に精を出す。合格者の集まるAdmitted Student Weekend開催。後半にフジヤマナイト開催。
5月 Spring Term期末試験をもってMBA一年目がすべて終了。二年生の送別会を行う。娘三歳のバースデーパーティー。サマーインターンに向け、帰国。
6月 神戸で一社目のサマーインターン一ヶ月目。強烈すぎるインターン仲間のキャラクターに楽しくも激しい日々を過ごす。日本はワールドカップで大盛り上がり。
7月 サマーインターン二ヶ月目。日本の夏を満喫しつつ、プロジェクト締め切りに向けて盛り上がる。
8月 家族日本に帰国し、神戸で再合流。ファイナルプレゼンテーションを行い一社目のインターン無事終了。名残惜しさを残しつつ週末に東京へ移動し、そのまま二社目のインターンに突入。
9月 二社目のインターンも無事終了し、米国へ帰国。MBA二年目に突入。二年目のFall Termでは、"Corporate Restructuring," "Sales Promotion," "Database Marketing," "Supply Chain Management"を履修。増えた体重を減らすために、徒歩で帰宅したり、ジムで運動したり。
10月 二年目のホッケーシーズンスタート。ボストンキャリアフォーラムを始め、就職活動のためたびたびボストンへ。
11月 実家の両親北米観光のついでにハノーバーへ立ち寄る。二年目のFall Termも終了し、フィールドスタディのために日本へ帰国。
12月 銀座に腰を据えて、三週間のフィールドスタディ。怒涛の日々であった。クリスマスイブにハノーバーへ戻る。

色々なことがあった2002年であったが、最後を締めくくる大晦日は実に静かな一日だった。

今年も一年ありがとうございました。


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