MBA留学日乗 2003年03月 | ホームへ | | 前月へ | | 翌月へ |
3月1日(土) パートナーホッケー
T内氏が企画した「パートーナーホッケー」をカンピオンリンクで行った。普段ホッケーなどしたことのない奥様方に一度ホッケーの楽しさを経験していただこう、という趣旨で企画されたものである。全部で10名のパートナー達が参加していたが、妻も事前にオープンスケートにスケーティングの練習に行くなど、たいそうな気合の入れよう。僕はゴーリー件カメラマンとして参加した。
試合は見ている方としてもとても楽しめるものだった。試合開始直後こそ生まれたての小鹿のようにヨロヨロの氷上をさ迷い歩く奥様方ではあったが、そのうち調子が出てくるにつれてアグレッシブなプレーを連発。試合終了時には、皆さんすっかりアイスホッケーの楽しさにはまってしまったようだった。妻も「またやりたい」と言いながら、帰宅後早速NHLの試合をテレビで見ながらプレーの研究をしていた(いきなりNHLはどうかと思うが)。
日本にいると非常に敷居の高いアイスホッケーなのだが、TUCKではまるで「ソフトボールでもしようか」というくらい敷居の低いスポーツである。グラウンドが雪に覆われたこの季節においては、ソフトボールやサッカーよりもずっと敷居の低いスポーツだと言ってもいいだろう。そして一般的に思われている「激しい」「難しい」というイメージと違って、どんな初心者でも、スケートを履いて氷上に立つことさえできれば誰にだって楽しめる。日本でもスケートリンクがあって、防具が安く提供できて、一度でも触れてみる機会さえあれば、多くの人が病みつきになるスポーツだろう。競技人口も飛躍的に増える可能性を秘めてはいるのだが、スケートリンクの数というインフラの問題で多くの人がこの楽しさを味わうこともなく人生を終えてしまう(大袈裟か)のは残念なことである。
帰宅した後、自宅ドアの脇には親子三人のホッケースティックが並んで立てかけてあった。何だかとてもハノーバーの家庭らしい光景だ、と思った。
【パートナーホッケーに参加された10選手(+うちの娘)】 【ドアの脇に並んだ親子三本のスティック】
3月2日(日) リソースの違い
明日行う財務諸表分析のプレゼンのために久しぶりに朝から7時間のロングミーティング。夕方5時頃、プレゼンマテリアルとレポートのほぼ90%を作成し終わり、明日のプレゼンでの役割を分担し終えて解散する。今回扱ったのは、Express Scriptsという会社。PBM(Phermacy Benefits Managers)と称されるヘルスケア業界のサブセクターの1プレーヤーである。日本では完全に無名のこの会社であるが、売上は一兆円超、株式時価総額も5000億円近いれっきとしたフォーチュン500企業である。PBMというインダストリー自体も日本ではほぼ存在しないのだが、米国では10兆円を超える非常に大きな市場だ(もっとも、付加価値はそれほど高くない)。製薬会社からボリュームディスカウントを利用して薬を安く仕入れ、Managed Careや保険会社などに安価に薬剤を提供するだけでなく、同じ薬効で価格の安いジェネリック(ゾロ)を使用するよう、医師などに対してカウンセリングという名のプレッシャーをかけたりもする。新薬メーカーにとっては何とも厄介な存在だ。米国においては流通の中間に存在する薬品卸の数が日本に比べて圧倒的に少ない一方で、こうしたヘルスケア付帯市場の規模は日本と比較にならないほど大きい。興味深い相違である。ここ二週間ほど、膨大な量(厚さ20センチほど)のこの業界のアナリストレポートなどを読んだので、このPBMという業界について随分と詳しくなってしまった。
今回の作業においてもそうだったのだが、アメリカで勉強していて、またサマーインターンに日本で働いて感じた大きな違いのひとつが日米両国における様々なデータベースのレベルの違いである。アメリカでは、簡単に色んなリソースにアクセスできるのに対して、日本では良質のアナリストレポートを入手することさえ厳しい。またWEB上に流通しているデータにしても、日本のものは非常にレベルが低いと感じる。「ヤフー!ファイナンス」ひとつとっても両国でアクセスできるデータリソースのレベルの違いは顕著である。また、例えば「マクロ経済」に関するサイト、「統計手法」に関するサイト、「自動車業界」に関するサイト、「ヘルスケア業界」に関するサイト、などといった共通の軸で日米のサイトを見てみると、そのレベルの違いは悲しくなるくらいに大きい。
この違いは何によるものか。ある程度以上の教育レベルにある人同士を比較した場合における各分野リテラシーの違い、及び個人投資家の絶対量の違い(それはすなわちファイナンスリテラシーの違いということになる)、などによるものではないか、と思う。アメリカの経営者層の多くはCFOでなくてもベータ、CAPMなどの概念くらいは理解しているように思えるが、日本では一部上場企業の役員であっても「ベータ?何だねそれは?」という感じではないか。大多数が必要としていない以上、ほとんどのデータベースは日本の「ヤフー!ファイナンス」レベルで全く問題ない、ということになる。あまり言われないことだが、日本人ビジネスマン(特に経営者層)におけるファイナンスリテラシーの向上は、実は株価対策として重要の課題なのかもしれない。
日本に帰国した後にこれらのデータリソース(WEB上にオープンされているレベルのものではなくダートマス大学が契約しているデータベース)へのアクセスが制限されてしまうことは、非常に悲しい。ストレスがたまるだろうと想像する。
3月3日(月) 学年対抗試合
朝9時から財務諸表分析のプレゼン準備のためにチームで集まり、スタディルームで数回リハーサル。さらにペーパーをその場で完成させてから、クラスのプレゼンに挑む。今日はヘルスケア業界の四社について、四グループがプレゼンを行った。各グループがそれぞれ業界動向・マクロ環境・各社のキャッシュフロー予測などを織り込んでDCFで理論株価を算出し、その会社はBUYかHOLDかSELLか、を説明するというものである。基本的にアナリストがやっている作業を(少しハウエル教授風に味付けして)行うのだ。今回はたまたまプレゼンした四社すべてが”BUY”だった。僕個人はPBMの業界分析のパートを担当したのだが、我々の前のチームが同じPBM業界の一社についてプレゼンしており、思い切り内容がかぶってしまった。急遽アドリブで内容を変えてしゃべったのだが、アドリブではやはり「やや受け」に留まる(「受け」が評価クライテリアではないのだが)。チームとしてはまあ、ほどほどの出来だった。
夜は10時頃までモデリングのミーティングをした後、トライポッドのホッケーに参加する。今日は一年生チーム対二年生チームの対抗戦を行うのである。我々の前に試合をしていたBチームでは、0−6で二年生チームが一年生チームに完敗。引き続き行われたトライポッドの試合では、逆に我々二年生チームが5−0で完勝した。Bチームの試合結果は、一年生のBチームにホッケー経験者の「Aマイナス」レベルの人間が多いのに対し、二年生のBチームには一年間トライポッドでプレーしてからBに上がった「トライポッドプラス」レベルが多いことを考えると順当なものか。また、トライポッドの試合結果も、これまでに費やしたプレー時間(”アイスタイム”と呼ぶ)を比べれば、これまた順当なものだろう。
しかし、久しぶりに3ラインがフルにプレーし、頻繁にセット交代ができる試合を経験したが、やはりスピード感があってとても楽しい。爽快感がいつもと違った。帰宅後、朝五時までかかってライトアップをする。
3月4日(火) 学年対抗試合(日韓編)
今晩も昨夜に引き続き、ホッケーの一年生対二年生対抗試合を行う。ただし今日は日本人学生によるもの。昨年もちょうどこの時期に二年生壮行試合と称して学年対抗を行ったのだが、今年は学生数・プレーヤー数が少ないため、双方に韓国人学生プレーヤーを加えた日韓混成学年対抗となった。さらに一年生チームには、一年生Y女史の旦那さんでありバブソン大学MBA二年生のHさん、新潟国際大学からの交換留学生Aさん、昨年我々の側に加わった本職ゴーリーのローが助っ人に加わる。深夜の試合であったが、もうあまりホッケーをする機会もないために、妻子も無理して会場に来て試合の様子をビデオに撮ってくれることになった。
経験の違いを考慮して3点のハンデを一年生チームに加えて、試合はスタート。もしかすると一方的な試合になるかもしれない、と思っていたが、一年生チームの気合の入ったプレーの前に試合は接戦に。最終的にはピリオドが進むにつれて疲れの出た一年生チームに対して二年生チームが加点し、11−7で何とかホッケー経験二年目の面目を保つことができたのだった。
試合後は氷上で記念撮影。カメラの前に集合しながら、去年も同じ場所で、同じ時期に、同じことをしていたなあ、と思った。来年もここに残った人々は、ここで同じことをしているのだろうか。自分はもうその頃ハノーバーを離れて随分とたっているはずなのだが、何となくここに残った人々にはやはり同じことをしていて欲しい、と思うのだ。
【今年も皆で記念撮影】
3月5日(水) "Days of Peace and Prosperity"
このところ3日連続でモデリングの4人のチームで夜にミーティングをしている。今日も夜12時までスタディルームにこもってあさってのプレゼンテーションの準備に精を出した。途中、何度前提条件を変えてシミュレーションを走らせても、理論上大幅に改善するはずの数字が悪化してしまう状態に陥り、完全にスタックしてしまったりもしたが、最終的には何とか納得性のあるプロポーザルが出せる目途がついた。
途中スタックした時などに気分転換のために色々な話をした。同じ内容を、日・米・西・印のそれぞれの言語でどう表現するのかを比べたり、イラク情勢・北朝鮮情勢の見通しを語ったり。「ヒロシは北朝鮮問題をどう見ているのか」とダンに聞かれ、思わず熱く持論を語ってしまった。拉致問題、なのに行う米支援、飢える庶民に届かぬ支援、弱腰外務省、政治家、北朝鮮への資金パイプの存在、そこへの公的資金投入、、、。「そんな対応は信じられない。国民が拉致されたらアメリカなら絶対戦争だ」とダン。当たり前だ。
また、「日本の憲法について聞いたことがあるけど、俺は日本も軍備すべきだと思う。これはちょっとセンシティブすぎる話題かな」と聞かれたので、「いや、実は日本は軍事大国なんだ」と、アメリカでは一般に知られていない日本の現実について教えてあげる。"Self-Defense Force"というwired nameを持つ軍隊が存在すること、軍事費は400億ドル以上あり実は実額ベースで米・ロに次いで世界三位であること、空母は持っていないが世界でたった3ヶ国しかないイージス艦保有国のうちのひとつであること(それはたまたま、その場にいたダン・デビッド・僕の国だった)、などなど。ダンは、「そんなことまったく知らなかった。軍隊を持っていない国だと習ったぞ」と驚いている。
やがて、我々の住む世界はどこまで不安定さを増していくのだろうか、という話になった。「TUCKに来てから、あの911があってから、何もかも変わったよ。TUCKに来る前のことを懐かしく思うことがある。冷戦下だって、今よりもずっとずっと平和な日々を過ごしてたんだ。皆こんなに何かに怯えて暮らしてなかっただろ?」というダンの言葉にみんな頷く。
"I miss the days of peace and prosperity."という言葉をダンが二度繰り返した。
3月6日(木) 卒業まで三ヶ月
今日もモデリングのグループで夜遅くまでミーティング。明日のプレゼンはボードにプレゼンマテリアルを貼り付けてその前に立って行う"Poster Session"という変わった形式のプレゼンであるため、最後にボードに貼るためのプレゼン資料をカラープリンターで打ち出して終了。
今日卒業式に関する書類がメールボックスに入っていた。TUCKの卒業式(Investiture = ガウンを着せる式のこと)は、6月7日(土曜日)の午後三時よりTUCKサークルにて、Dartmouth大学全体の卒業式(Commencement = 学位授与式)は、翌6月8日(日曜日)の午前10時よりダートマスグリーンにて、行うらしい。
もういよいよ卒業式まで三ヶ月になったのだ。直近三ヶ月の時間の経過の早かったことを思えば、これからの三ヶ月がどれだけあっという間に過ぎていくかは容易に想像がつく。妻は東京に戻ってから住む家のリサーチをネットで始めた。そろそろ家財道具の処分なども考えねばならない。ウェストレバノンのモールをまわってこれらの家財道具を買い揃えていったのは、本当につい昨日のことのようなのに。ここで暮らす二年間はとても長く思え、ここを去る日はまるでプールに潜って水を透して見る50メートル先の壁のようにぼんやりとして像を結ばなかった。今、卒業式はわずか三ヶ月先にはっきりと迫っている。これから卒業までの日々は、ハノーバー・TUCK・友人達とのお別れを意識した、ちょっとした精神的な儀式に彩られた日々になるのだろう、と書類を見ながら思った。
3月7日(金) 本源的価値とは
朝イチにStell Hallにて、モデリングのファイナルプロジェクトのポスターセッション。イーゼルの上にプレゼン資料を貼り付けたボードを立てかけてその前で聴衆に対してプレゼンをしていく。全部で10人近い教授陣が今日の聴衆として参加してくれたのだが、各チームそれぞれ四名の教授に対してプレゼンをしてその評価を受けなければならない。我々のチームは、このクラスの教授であるゴールドマン教授、オペレーションの大家にして副学長でもあるパイク教授、さらに他のビジネススクールからの客員教授二名に対してプレゼンを行った。しかし、このセッションは想定していなかった副次的な発見を我々チームにもたらしてくれた。それは「一口に”教授”と言っても色々なレベルの人がいる」ということである。同じ内容の前提条件に基づく分析結果・提案をまったく同じ手順で四名の人々にプレゼンしたのだが、内容の理解の深さ・理解に達するまでの早さ・質問の鋭さ・内包された問題点への気付きの有無・その問題点への突っ込み方のスマートさ、、、、などにおいて残酷なまでに各人のレベルの違いが明らかになってしまった。ゴールドマン教授とパイク教授はあっという間に内容を理解し、あっという間に問題点(我々が時間的制約で手をつけなかった部分)を指摘し、前提与件それぞれが与えるインパクトを頭の中で順位づけして我々に確認してくる。対して客員教授二人は散発的な質問を繰り出すものの、明らかに問題の本質とは離れたものが多かった。特に女性客員教授の方は、最後までロジック自体が理解できていなかったものと思われる。「TUCKの教授は優秀なのかもしれない」、というのが今日のセッションを終えてのチームメイトの感想。
午後からは明日最後に残ったブランドマネジメントのプレゼンに向けたミーティング。チームの中に非常に偏屈かつ頭の悪い男が一人入っていたおかげでとにかくフラストレーティングなチームだったが、これも明日で終わりだというのが何よりも嬉しい。偏屈か頭が悪いかどちらか一方だけならたいして害もないのだが、これが両方揃うと実に始末におえない。明らかに全体のロジックと違う馬鹿げた内容を、「最高だ!教授は絶対これを気に入るはずだ!」と声高に主張し、挙句の果ては「ここは俺がプレゼンするからお前らは口を出すな」という始末。今日の7時間のミーティングのうち4−5時間は彼一人を説得するために、彼と議論するために費やしたものと見ていいだろう。それでも最後には何とかプレゼンマテリアルとレポートが出来上がった。しかしこんな男でも卒業すれば、同じ「TUCK卒MBA」という名前で世に出ていくんだよなあ、と同級生と話をする。
「ビジネススクールの教授」という肩書にせよ、「〇〇校卒MBA」という肩書にせよ、何らその人々の本質を規定するものにはならない。いつだって、その人物の本源的価値は肩書ではなくその人物自身の中だけに宿っている。その当たり前のことを忘れてはいけないとあらためて思った一日。
今学期もあと一日を残すだけである。
3月8日(土) 春学期の終わり、"Mud Season"の始まり
朝9時よりブランドマネジメントのプレゼン。似通ったブランドを扱うチームをひとつのスロットに集めてプレゼンを行うのだが、9時〜10時のスロットに入ったのは、ジープ・ミニ・フォルクスワーゲン・そして我々メルセデス。我々のチームは二番目である。"Good Morning!!"でプレゼンをスタート。スクリーンの前でしゃべりながら、これまで何回ここでプレゼンしてきたのだろうか、あと何回プレゼンするのだろうか、と思う。「マイバッハ(こちらでは”マイバック”と発音)」に関する質問を最後にプレゼンはつつがなく終わる。その瞬間、春学期は終了しSpring Breakに入った。
一端帰宅し、ホッケー用具を持って学校へ。そろそろポンドホッケーのシーズンも終了するので、最後に記念にプレーしようとT内氏(息子をポンドと名づけた男)と待ち合わせしたのである。空は快晴。気温は摂氏15度まで上がっている。冬の間じゅう道端に積み上げられていた雪は既にかなりその嵩を減らし、雪解け水は道路を濡らしている。いよいよこの地で"Mud Season(泥んこの季節)"と呼ばれる早春が始まったのだ。TUCKサークルでT内氏を待っていると、サングラスをかけた学長がやってきた。その場で10分ほど彼と話をする。「もう一生ポンドホッケーなんてできないかもしれないのでこれから行くんですよ」と言うと、「TUCKの教授になればいいんだ。一生ポンドホッケーができるよ」と返された。「TUCKでの生活はどうだったか。ここに来てよかったか。君の家族はハノーバーを気に入ってくれたか。東京に帰るのは楽しみだと言っているか。」など色々と聞かれる。そんな会話をしていると、もう明日にも卒業するような気がする。
快晴の天気の下、T内氏と一時間ほどポンドホッケーを楽しんだ。少しプレーすると汗ばむような陽気で、最後は手袋も帽子も上着も脱いでTシャツでプレーをした。我々が到着した午前11時前にはまだ氷の表面は締まっていたが、プレーしているうちにみるみる氷の表面が溶けていき、正午近くにはもう表面がザラメ状になってスケートの歯が食い込むようになってしまった。いよいよポンドももう終わりなのだ。最後にポンドの上で何枚か記念写真を撮る。
【ポンド上で華麗なドリブル(?)を見せる筆者】 【この美しく凍った姿を見るのももう少し。さようならポンド】
帰宅後、かまくら作成の最後の仕上げをする。妻にも手伝ってもらって奮闘約一時間半ほどでかまくらはついに完成した。もう少し早いうちに作っていれば冬の間長く楽しめたのだが、とりあえず完成させることができたのでまあよしとしよう。
夜は我が家で先日のパートナーホッケー・学年対抗試合のビデオの鑑賞会、及びかまくらのお披露目会を行う。学期が終わった開放感の中で、ゲームをしたりカラオケをしたりして盛り上がる。かまくらの中で日本酒の熱燗を飲む、というかまくらづくりの所期の目的も達することができた。ところで、最近卒業が近づくにつれてパーティーの終了時間がどんどん遅くなっているような気がする。残り少ない時間の中で限られた機会を目一杯楽しもう、という意識が知らず知らずに働いているのだろうか。今日もパーティーが終わった時は時計の針は既に午前6時を指しており、外はすっかり明るくなっていた。
【ついに完成したかまくらの前で(中で遊んでいるのは娘)】 【かまくらで熱燗。最高で成人男性5人を収容する】
3月9日(日) 公教育の崩壊
春季休暇に入った。今朝まで遊んでいたせいで起床は昼過ぎ。起きるとまず例によってウェブサイトのチェックを行う。社会・経済・国際・スポーツ・芸能。。。。満遍なく見ていく僕は奥方達に「何でそんな細かいニュース知ってるの?」と呆れられることがある(特に社会面ベタ塗り記事系)。
今日最も気になった記事は、民間(銀行員)から採用した広島県の小学校校長が自殺したという記事。日の丸・君が代問題で教組に突き上げられ自殺した世羅高校校長など、なぜか広島の教育者には自殺が多い。統計的に有意なレベルで自殺が多い場所には必ず何か構造的な要因があるものだ。想起されるのは、「広島の公教育はなぜ崩壊したか」という本。この本の中には以下のような広島の公教育の実態が書かれている。
「ひな祭りの禁止=ひな壇が身分制度の表れ、女の子に過剰な日本的美意識を強制」
「節分豆まきの禁止=太平洋戦争、鬼畜米兵を思わせる。鬼にも人権がある」
「クリスマスの禁止=特定宗教を祝うのはおかしい」
「徒競走の禁止=1,2番は良いが後方の子供の心に痛み」
「リレーの禁止=選手になりたくてもなれない子供の痛みを考え
て」
「すいか割りの禁止=「盲人差別に繋がる」
「ピノキオ=障害者への差別的イメージ」
「おおかみと七匹の子やぎ=オオカミのお腹に石を詰めるのはオ
オカミがかわいそう。みんな仲良くという教育目標に外れている」
「物持ちの子供=お前の親はブルジョアだ」・・と先生が批判。
これは笑い話ではない。実際にこの「人権重視」「平等の精神」に基づいて教育が行われているのだ。そしてそこにはその理念に疑問を持つ人々との間の強烈な軋轢が存在する。当然現状を問題視して、変えようと動く保護者グループもある。しかし彼らが実際に取れる行動は、「私学の誘致」など限られている。
教育問題は、遠からず就学年齢に達する娘を持つ身として常に考える問題だ。かつてそのレベルの高さを賞賛されていた日本の教育だが、足元はボロボロに崩れていきつつある。我が国の教育はどこへ行くのか。
3月10日(月) 閑散としたスタディルームにて
昼過ぎから学校に出かけてスタディルームで作業。学期の間は学生達で賑わい、部屋を見つけることも困難なBosworthだが、今日はどの部屋も電気が消え、閑散としていて、学校が休暇に入ったことを実感させられる。休暇にあまり遠出することのなかった僕は休暇中も学校に残って色んな作業をすることが多く、従ってこの「休暇に入ったスタディルーム」を味わう機会も多かった。個人的にはこの雰囲気、何とも言えず好きである。音楽などを流しながら、部屋の中でのんびりと調べ物などしたり、デッドラインまで余裕のある試験を仕上げたり。
アプリカントの人より、「就職状況はどんな感じなのか」と聞かれることが多い。特に私費の方にとっては入学前から非常に気になる情報ではあるだろうが、いつも定量的な情報がなく、「いやあ、厳しいですよ」「思ったよりも大変です」などと曖昧なことしか言えない。と思っていたところ、先日副学長より就職状況のアップデートがメールで届いた。私費学生には大変感心の高い事項だと思われるし、この程度の情報であればオープンにしてもよいのではないかと判断し、下記に無断転載させていただきます。
Class of 2003 (Full Time) |
Class of 2004 (Summer Intern) |
|
オファー受諾 | 26% | 26% |
オファーあるも依然活動中 | 20% | 18% |
企業派遣 | 4% | 7% |
現在活動中 | 50% | 49% |
この数字を厳しいと見るか否かは見解の分かれるところだろうし、数年前にビジネススクールを卒業した人々から見れば信じられないような数字だろう。しかし、個人的には現在の市場環境を考えれば充分健闘していると思う。それほど現在の就職市場は厳しい。
3月11日(火) 家族ポンド
昨夜再び零下二十度レベルまで気温が冷え込んだので、溶けかけたポンドの表面も再び凍っているはず、と昼過ぎより家族でポンドに出かける。池の表面は果たして充分滑走可能な状態だった。娘用のヘルメットにスケート靴も持っていったのだが、娘はヘルメットを見るなり「いや!ヘルメットはお外でかぶらない。おうちの中でかぶる!」とスケートを断固拒否。それは家の中でかぶっても意味がないんだよ。。。先日ポンドに来た時はロシア人同級生の娘マーシャ(わが娘と同じ年)がスケートをはき、小さなスティックを持ち、父親とパス交換をしていたというのに。我が娘のスケート嫌いぶりに切ない父なのである。
結局娘は岸で遊ばせ、妻と二人で一時間近くパス交換などをして遊んだ。最初にパスの出し方などを少しアドバイスしてやると、一時間の練習の間に妻は見る見るうちに上達していく。最後の方はバックスケートをしながらパスを受けたり出したりもできるようになった。妻の上達のおかげで充分ポンドホッケーを楽しむことができたのはいいのだが、この急激な上達ぶりに本当に追い抜かれるのではないか、と不安になったりもする。
夜、ブランドマネジメントのオプショナル試験を終了しメールで教授へ提出。つかみ所のない試験であったが、これで冬学期のすべてが正式に終了した。学期の間に使用したすべてのコースマテリアルをバインダーの中に整理し、最後に勉強机から本棚に移動させた。一番開放感に包まれる瞬間である。
さて、ハノーバーにやってきてからこれまで一度も家族で旅行したことのなかった(もっとも留学自体が二年間の壮大な海外旅行であるとも言える)我々一家ではありますが、実はこの春休みには初めてメキシコのカンクンという場所へ旅行をする予定であります。出発は明日の深夜。
3月12日(水) 二世誕生
昨日ウェブサイトを見て、同級生I田さんの奥様がいよいよ本日出産だということを知る。「そろそろ生まれた頃かなあ」と妻と話していた夕方、旦那さんより元気な男の子が無事誕生した旨のメールがあった。いやあとても嬉しいニュース。新しい命が生まれると嬉しくなるのは、人間として極めて本能的な情動なのでしょうね。おめでとうございます。
これでN家・T内家につづきTUCK日本人同級生の家族に三人目のベビーが誕生したことになる。日本人同級生が11名であることを考えると、とてもハイペースではあるのだが、決して日本人だけが突出して出生率が高いわけではなく、TUCK全体における出生率が非常に高いのだ。同級生約220人のうち既婚率30数%として対象家族が70程度。その中で入学以来すでに20人は優に超えるベイビーが誕生している。TUCKが"Baby Factory"と言われる所以である。
深夜、ボストンローガン空港へ向けてハノーバーを出発する。
3月13日(木) カンクン入り
朝6時にボストンを出発し、途中セントルイスで乗り継いで、午後1時過ぎにメキシコはカンクンにやってきた。ボストンは摂氏0度強、セントルイスは摂氏10度強、そしてカンクンは一気に摂氏30度超の常夏の世界である。
空港のゲートを出た瞬間、怪しげな男達に声をかけられる。観光ツアー系の売り込みらしい。どう考えてもうま過ぎる話なので乗らなかったのだが、空港職員らしいバッヂをつけた連中が詐欺まがいの売り込みをするあたりがメキシコらしい。空港ビルを出てもまた激しい呼び込み(今度はタクシーの呼び込みらしい)が。呼び込みをしている連中が押しなべて渡辺二郎にそっくりに見える。メキシコ・カンクンの第一印象は、「渡辺二郎の国」だ。
ホテルにチェックインしてすぐにビーチに泳ぎに出かけた。砂浜に寝転んでいると、今朝までコートを来ていたのがまるで嘘のようだ。デジカメのメモリーに保存された白い「かまくら」の次の写真は白い砂浜だった。
【ボストンから7時間。別世界】
3月14日(金) ここはアメリカ
今日も朝9時過ぎからビーチへ。合間にホテルのプールなどで娘とパチャパチャと水遊びをする。娘も浮き輪を使ってプールで一人で泳げるようになった。
ところでカンクンはメキシコ南部のリゾート地なのであるが、宿泊客の6−7割がアメリカ人ぽい連中である。ホテル内はもちろん、レストランなどどこへ行っても英語が使える。すっかり経済的にはアメリカの植民地という感じだ。アメリカ人にとっては日本人にとってのハワイ以上に気楽な場所なのだろう。スプリングブレークを利用してやってきた大学生らしい若人の姿が非常に目立つ。ただでさえ若い彼らにアメリカ人特有のバカぶりが加わって、その傍若無人ぶりは見ていて腹立たしいほど。しかし、「春休み中の学生」という意味では、我々も彼らとほとんど変わりないのだった。
午後、TUCKの同級生フィル一家・サウール一家・Kさん一家が滞在しているホテルのプールへ遊びに行ったものの今日は彼らには会えず。
3月15日(土) シカレ(Xcaret)
朝からフィル一家、サウール一家、Kさん一家と共に大人8人、子供6人で一台のバンに同乗して、カンクンから車で一時間ほどの距離にあるシカレ(Xcaret)という場所へ出かける。現地人ガイドとドライバーが我々を案内してくれる。シカレはもともとは遺跡などのあった場所らしいのだが、現在は様々なアトラクションを集めた「海」と「マヤ文明」に関するテーマパークのような場所だ。
ビーチで泳いだ後、地底を流れる川のツアーに出かける。1キロ以上ある地底の川をライフジャケットを着て、ただプカプカと流れていく、という趣向のものだったが、これがなかなか面白かった。娘も泣いて喜んでいる。
最後は大劇場で、メキシコの歴史に関する壮大なショーを観劇。マヤ文明時代の伝統的な球技(腰だけを使うサッカーや炎に包まれたボールを使うホッケー)のデモンストレーションにつづき、メキシコの侵攻とマヤ・アステカの屈服、さらにその後現在に至るメキシコの歴史を二時間半かけて見せる、というものだった。とてもレベルの高い素晴らしいショーで感動する。と同時にこれほどまでに繁栄した文明の末裔の人々のメキシコにおける生き方の現状を見るに、少しもの哀しくもある。盛者必衰の理、ではあるが平家のように完全に滅ぼされたわけでもないので、その哀しさもまたひとしおか。
【マヤ族の扮装をした男。目の光が異常に強い。しかし目の光はピストルに敵わぬか】
3月16日(日) ベビーシッターと大人クラブ
今回誘い合わせて近くのホテルに泊まっている同級生4家族にはそれぞれ子供がいる。子供達は下は3歳から上は7歳までと、まだまだ手がかかる年齢だ。従って、旅行先での行動もおのずと「ファミリー向け」にならざるをえない。そこで「一晩くらいは大人は大人で楽しめる時間を作ろう」ということになり、今晩はそれぞれベビーシッターを頼んで大人だけ8人で出かけることになった。
ところでアメリカでは日本に比べて皆本当に気軽にベビーシッターを頼む。とてつもなく大きな需要に対応する供給サイドの形態は、友達ベースのものから、企業形態のもの、種々の施設に付帯されたサービス、はたまた学校や、NPOや、COOP組織や、、、と数限りない。高校生・大学生達の大きなアルバイト源にもなっている。市場の大きさに伴って避けられないさまざまな問題(ベビーシッターによる虐待等)も発生してはいるようだが、全体としてこれはとても良い制度だと思う。日本では、仕事や避けられぬ所用ならともかく、親の遊びや社交のためにベビーシッターを頼む行為は、まだまだとても社会的に認知された行為とは呼べないだろう。周囲は眉をひそめ、頼む本人も何となく罪悪感を感じざるをえず、したがって利用のバリアは高い。しかし大家族から核家族に社会が変化していく中では、これは当然もっと拡大されてしかるべき受け皿のひとつだと思う。24時間×365日子供から逃げ場のない状態に押し込まれた母親を大量生産する社会は、とても賢明な社会とは言えない。
閑話休題。というわけで、我々は3名のベビーシッターに子供達を託して(大半の子供達は既に就寝していたのでシッターの役目は側で見守ること)8時過ぎからメキシカンレストランでのディナーへと出かけたのだった。この店では料理を食している間にソンブレロをかぶったおっさん三人組が各テーブルをまわって歌を歌ってくれる(関係ないが、昔「夢で逢えたら」という番組で松本と南原がやっていた”スナフキンズ”というコントを思い起こさせる光景ではある)。
食事の後はクラブへ。カンクンで最も人気のあるクラブは若者でごった返している。平均年齢30台半ばの我々にはそこは少々辛かろう、ということで市内のやや「大人目」のクラブへ。ところがここが、着席スペースに囲まれてダンススペースがあるような、”クラブ”というよりも”ボールルーム”あるいは”ダンスホール”のような場所。しかもダンススペースでは誰も踊っていない。これはちょっと大人すぎたか、と皆内心思っていたようだったが、午後12時頃になって大編成のサルサバンドが出てきたあたりで急に会場が盛り上がり始め、気が付いたらもう午前三時になっていたのだった。
3月17日(月) チチェン・イツァ (Chichen Itza)
三時間ほどの睡眠で、朝からまた四家族一緒にバンに乗り込んで観光に向かう。今日の目的地は世界遺産のチチェン・イツァ(Chichen Itza)だ。大人達は皆睡眠不足だが、子供達はたっぷり睡眠を取って朝からテンション高し。
カンクンからチチェン・イツァまでは車で二時間半ほど。立派なゲートをくぐって中に入ると広大な敷地に立派な遺跡、朽ちかけた遺跡が点在している。朽ちかけた遺跡の多くは5−6世紀のもの、比較的新しい遺跡(有名なピラミッドなど)は10−11世紀のものらしい。我々の一団はメキシコ人のガイドが英語で案内してくれたのだが、この英語が非常に分かりにくかった。TUCKでは、メキシコ・アルゼンチン・ペルー・チリ・エクアドル・スペイン、それぞれの国のスペイン語訛りの英語を聞き慣れているので、問題なかろうと思っていたのだが、彼ら同級生の英語はとても発音が良いのだということが分かった。途中まで必死でガイドの説明をフォローしていたが、そのうち暑さもあり、だんだん注意力も散漫になり、後半は彼の説明をほとんど聞き漏らしたのが惜しまれる。今日はとにかく暑かった。大人でも辛かったので、娘を含め六人の子供達はよく頑張ったと思う。
チチェン・イツァ訪問のクライマックスは「カスティージョのピラミッド」登り。この世界遺産で最も有名な建造物である。下から見るとたいして大きくは見えないし、階段も92段しかないのだが、実際に上まで登ってみるとこれが非常に高い。ピラミッドを下りる時にはるか下の地面を見下ろすと、子供の頃から高い所の好きだった僕(何とかと煙は高い場所に上りたがる、という奴だ)でも足がすくむような気がした。階段には掴まって下まで下りられるようにロープも一本たらしてあるが、中には下の写真のように腰が抜けたようにズリズリとひたすら尻を使って階段を降下していく人々もいた。
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【ピラミッドの上から見た風景。遺跡の向こうは地平線までひたすら原生林(左)】 【ピラミッドの階段中ほどから下を見る(右)】
遺跡からの帰路に、セノーテと呼ばれる地底の泉に立ち寄る。地下への階段を下っていくと、地底に突然かなり大きな泉が現れる。天井からは巨大な木の根が下がり、水は深く、何とも言えぬ色をしている。その池で何人かの人々が泳いでいる。ここは昔は貴重な生活用水の水源であったのと同時に、生贄を捧げる場でもあったということで、水底からは多くの人骨が引き上げられた、らしい。そして今でも多くの生贄が沈んでいる、らしい。そんな場で誇り高きマヤ族の子孫達は頼まれないダイブを繰り返し、我々外国人観光客にガタガタ震えながらダイブの対価としてのチップをせがむのだった。。。
【セノーテの地底の泉。不思議な場所】
3月18日(火) 新しい客
今日は観光も何もなくのんびりしよう、というテーマで朝からホテルのプールでひたすらのんびりと過ごす。本を読んだり、娘を泳がせたり。とてもリラックスした時間がゆっくりと、あっという間に過ぎていった。
今日からTUCK同級生Oさん夫妻がカンクン入り。いつもの四家族に加えて、今日は五家族で一緒にディナーをとる。総勢16名の大集団になった。夕食後は初めての、少しだけの買い物などをしてから、ホテルに戻った。ホテルのバーで波の音を聞きながらOさん夫妻とビールを飲む。
我が家には贅沢な出費だとは思ったが、MBA留学最後の休暇にこの旅行に行ってよかったと思う。カンクン行きを企画し、強引に誘ってくれたサウールに感謝しよう。
3月19日(水) バカンスは終わり 戦争が始まる
一週間のカンクン旅行も今日で最終日。午前中、一時間強ホテルのプールで泳いだ後にホテルをチェックアウトし、空港へ。
午後三時頃カンクンを発ち、マイアミ経由8時間程度のフライトで午後11時前にボストンへ到着した。ボストンの気温は摂氏0度強。飛行機を降りた瞬間に包まれる冷気に、我々の後ろにいた真っ黒に日焼けした乗客が、"Oh My!! We are in New England!!"と大声で叫ぶ。
バゲッジクレームへと向かう途中、テレビの前に数人がたむろっている。「イラク問題か」とテレビの前に行ってみると、CNNの画面には"America has begun war with Iraq"の文字。いよいよ始めてしまったのか。赤外線カメラに映る空爆後と思しき町の様子に既視感のような感覚を抱く。その場に居た人々は、特に何か言葉を発することもなく、しばらくテレビの前にいて事実を確認すると、再び何を言うでもなく淡々とその場を去っていく。バグダットや、エルサレムの人々は同じニュースをこんなにも恬淡とした表情では決して見つめないだろう、と思った。ほとんどのアメリカ人にとって、この戦争は遠い国で行われる遠い戦争なのだ。主体的に、強引に、この戦争を引き起こしたこのアメリカという国の国民にとっての戦争は、イラクやクウェートやイスラエルやヨルダンやサウジや、あるいはトルコの国民にとってよりもずっとずっと遠い存在なのだ。----難しいことはよく分からない。ただ、サダム・フセインは悪い奴だ。FOXもそう言っている。アメリカがいつものように抑圧された人々を解放してあげるらしい。なのにフランスはけしからん。戦争を始めたからには勝つしかないし、このアメリカが負けるはずがない。今日の空爆はこれで終わりか、さてNCAAのファイナル4をテレビで見なければ。おっとビールは冷えていただろうか。--------
無関心はそれ自体罪だ。と同様に無知もまた大きな罪だ。アメリカは罪人に溢れている。
インターステートを二時間走り、午前二時過ぎに一週間ぶりにハノーバーへと戻る。バカンスは終わった。そして、戦争が始まった。
3月20日(木) 冬の終わり
起きてまずCNN、ABC、CBS、FOXなどのニュースをザッピングする。”タカ派”を超える”バカ派”と個人的に名づけているFOXのトーンはやむをえないとしても、他の各局のトーンはどうしたというのだろうか。数日前まで反戦の主張をしていた局まで、バックに星条旗のはためく映像を常に流して愛国心昂揚を狙っているようだ。Dixie Chicksはロンドンのコンサートでアメリカのイラク政策に反対するコメントをして大変なことになっているらしい。曰く、サウスカロライナ州議会が謝罪を求める決議をしたとか、「非国民」として大規模なCDの不買運動が起こっているとか、退役軍人を集めた無料の慈善コンサートを開くよう要求されているとか。。。。それは「慈善」ではなく「偽善」コンサートだろうが。「自由と民主主義の国」アメリカは恐ろしいほどに全体主義の国だ、とあらためて思う。
夕方、お子さんの生まれたばかりの同級生I田家宅へ赤ちゃんの顔を見に出かける。生まれたばかりの赤ん坊を見ていると、誰も自然と顔がほころび笑い声が起こるのはなぜだろうか。本当にかわいい赤ん坊だった。
帰宅する前に、少し寄り道をしてOccum Pondを覗いてきた。我々が旅行している間、暖かい天気がつづいていたというので、とてもポンドホッケーができるような状態ではなく、もう氷も溶けているだろうとは思ったが、一応確認に行ったのである。それでもまだポンドが凍っていることを心のどこかで少しだけ期待しながら。しかし、果たしてポンドはもうクリティカルポイントを超えてもとの池の姿に戻りつつあった。かなりの面積が水に戻ってしまっており、かろうじて氷が残っている部分も、薄い、儚げな氷だけになっている。分かってはいても、実際に溶けてしまったポンドを目にすると何だかショックだった。冬が終わることはすなわち春の到来を意味し、ほとんどの人にとってそれは嬉しかるべきものを。昨年も溶けたポンドを見た時には悲しい思いを抱いたが、今年のそれは昨年の非ではない。おそらく、今年は春の到来が我々にとってハノーバーを離れる日の到来と同義であるためだろう。
T内氏、ついにポンドは溶けてしまったよ。。。
我々が旅行に行っている間に、我が家の裏庭に作ったかまくらはすっかり小さくなり、天井が崩落してしまっていた。セイチャムに積もった雪もその嵩を大幅に減らし、ところどころ芝を露出させ始めている。昨年よりもずっと冷え込みの厳しかった今年の冬もついに終わった。そして、雪の下にはいつも驚くほど青い芝が隠れている。
3月21日(金) Thank you, President Bush
イスラエルの新聞"HAARETZ"のウェブサイトに"Thank you, President Bush"と題する文章が載っている。"Thank you, great leader George W. Bush."で始まる、ブッシュに対するシニカルな謝辞に満たされたこの文章は、当初ブラジル人ライターがポルトガル語で発表し、後に英語に訳されたものだ。イスラエルの新聞でさえ、今やブッシュ政権の対イラク政策に対して明確な批判の論調を取るようになっている。アメリカは”世界の世論”の中で孤立しつつある。20世紀に勃興し繁栄を謳歌してきたアメリカという大帝国の没落の始まりを我々は今見ているのかもしれない。そして、僕達はその瞬間にこの大帝国の中にいる。
日本から今年入学予定の方の夫婦がハノーバーに見学にいらしており、M内家で行われた二人の歓迎会に参加する。朝6時頃まで楽しく飲み・語っていたのだが、そのままいつの間にか眠ってしまっていたようだ。結局朝8時過ぎになって妻に起こされ、明るい光の中を家に帰ってきた。
3月22日(土) 「戦時中」における、あまりにも日常的な生活
朝まで飲んでいたので、当然帰ってきてから夕方まで眠っており、今日のほとんどはベッドの中で過ぎていった。夜は借りてきていたビデオなどを見てのんびり過ごした。
そう、とてものんびりと過ごした一日。19日に対イラクの攻撃が始まってからも、米国内の生活には何ら変わるところがない。人々はこれまでと変わらず生活し、生活の中のどこにも「戦時中」を思わせるものは見当たらない。変わったものと言えば、テレビの報道番組の表題だけ。それ以外の番組では、カレッジバスケットボールのファイナル4やカレッジアイスホッケーの”フローズン4”の試合に人々は熱狂し、アカデミー賞のカウンドダウン番組がお祭りムードをあおり、いつもどおりの馬鹿げたコメディが放送されている。
リモコンひとつで「戦争」と「カレッジバスケ」を行き来する僕。「スタンフォード対ミズーリ戦」を見ている時、僕の頭の中には砲声に怯える人々が暮らすバグダッドはない。ここでは、報道に飽きたら親指ひとつで戦争を消すことができる。バグダッドの彼らは、一晩じゅう蒲団を頭からかぶっても着弾するミサイルの音を消すことはできない。
3月23日(日) 最終決定
これまで延ばしてきていたオファーレターへ正式にサインをし、本日Fedexのドロップボックスに投函してきた。これにて、卒業後の就職先が最終的に決定したことになる。私費留学生としてビジネススクールに入学した2001年9月から、卒業後のキャリアに関する問題というものは常に頭の中の一部分を占めており、それは大きくなったり小さくなったり、あるいは期待させたり失望させたりしながらその存在を主張しつづけてきた。特に景気後退期に無職の学生となった我々にとって、その存在は入学前に想像したよりもずっと大きかった。卒業後の行き先を決めた今思う感慨は、何かすっきりしたような、背すじが伸びるような気持ちだ。とにかく決まったものに向かって、これからの日々の中で万全の準備をしていこう。
夜、同級生を夕食にご招待。少し食べすぎる。
3月24日(月) 最後の学期の履修登録
留学生活最後学期である二年生春学期の履修登録が行われた今日は、汗ばむような陽気の中を学校に出かけてコースパケットとテキストを購入してきた。入学以来7回目となったこのプロセスを行うのも、すべてこれが最後。ハノーバーには、すっかり澄み渡る青空が戻ってきた。
今学期の履修予定科目は以下の4科目。ある意味でメジャー制度のないTUCKらしい、とても「バラけた」履修科目である。
・Financial Institutions
・Analysis and Operation of Inventory Systems (Mini Course)
・Managerial Decision Making
・Business Law
当初予定していたIndependent Studyは土壇場になって、担当教授から「もう一度教授陣で話し合ってみたが、やはり我々(担当を予定していた2名の教授)のバックグラウンドは君のプロポーザルの内容にマッチしていない。充分なアドバイスができないかもしれない。今からでは代替の教授を見つけるのは事実上無理なので、通常のクラスに集中することをお勧めする」と言われてしまい、サインがもらえなくなってしまった。そんなことは最初から分かっていたはずではないか、と思いつつも嫌がる先方に無理に引き受けさせるわけにもいかず、結局代わりにFinancial Institutionsを履修することになった。まあ、Financial Institutionsについては分かったつもりでも分かっていないことが多くあると思われるので、知識の整理のための良い機会と思って勉強することにしよう。
3月25日(火) ロケットスタート
春学期初日は、いきなり計5コマ・7時間半の怒涛の授業で始まった。最後のBusiness Lawの授業が午後9時15分に終了した時にはスプリングブレイク呆けした心身ともに疲労でぐったりである。こんなにも多くの授業を一日に集中させたのはもちろん意図的なものだ。少しでも一週間の時間を有効に使えるように、授業をすべて月曜日と火曜日に固めたのだ。何と週休5日制。理屈では2コマ×4日であろうと4コマ×2日であろうとトータルでの時間的負荷に違いはないのだが、苦役(?)を集中して受けた方がその後につづく果実も甘美になるのは間違いない。
これまでの学期ごとに、明確なものであれ漠としたものであれ自分なりに重視すべきテーマが存在していた。それは、「成績」であったり、「発言」であったり、「就職活動」であったり、あるいは「社交」であったりした。MBA最後の今学期に挑む上での個人的なテーマは、明確に「家族重視」である。時間的・精神的にストレスフルなものになるだろう卒業後の仕事環境に備え、今のうちに家族の時間を多く持っておきたい、この美しいハノーバーを離れる前にいっぱい家族の思い出を作っておきたい、というモチベーションが強く働いている。週末を利用して小さな旅行などにも行きたい。そのためには月・火に授業を固めるこのスケジュールがベストなのだ。
それにしても、いきなりのロケットスタートはやはりきつい。それでも、辛い一日をもう一度越えれば、もう週末だ。
3月26日(水) TUCKの聴講制度
今学期は妻もTUCKの二つの授業を聴講(Audit)する予定になっている。企業のトップマネジメントについて学ぶ"Top Management Teams"と、マーケティングの広汎なトピックをカバーする"Marketing Planning and Tactics"である。今日は8:20から"Top Management Teams"に出席する妻を僕がまず一旦学校まで送り、帰宅。その後10:15から"Financial Institution"に出席する僕が娘と一緒に再度学校まで行き、TUCKサークルで車と娘を妻にバトンタッチすることになった。
TUCKの聴講制度では、教授の承認さえ得られればどんな授業でも無料で参加することができる。聴講している人間にクレジットは与えられないし、原則クラスで発言はしてはいけないというのがルールなのだが、それはつまりコールドコールの恐怖もないということである。アサインメントの負担もなく、無料でTUCKの一流教授陣の授業を聞けるのだから、ある意味こんなにおいしい制度はないとも言える(僕も今学期はひとつ聴講する予定)。そして聴講についてはもちろん学生だけでなくパートナーにもオープンにされている。
これまでにも実に多くのパートナーがTUCKのクラスを聴講していたのだが、今学期は二年生にとっては最後の学期ということもあって、特に多くの二年生パートナーが聴講しているようだ。日本人パートナーの間でも、隣人I氏、Tさん、Kさん、僕、の4人のパートナーが聴講することになっているらしい。Oさんの奥様はもともとダートマスの正規の大学院生なので、計5名のパートナーが同じキャンパスで勉強していることになる。これはすなわち現在ハノーバーにいる日本人二年生のパートナー8名のうち乳児を抱える3名を除く全員、ということだ。
他のビジネススクールにもAuditという制度はあると思いますが、ここまで多くのパートナーの姿を教室で目にする学校もあまりないのではないでしょうか。
夜は奥様がNYに仕事で行っていて俄かやもめ状態のTさん宅にお邪魔して飲む。早くも一週間の授業が終わった開放感で午前三時まで飲んでいた。妻は連日の聴講のための予習等で睡眠不足に陥り、今夜の参加はキャンセル。
3月27日(木) 学生をするパートナー、パートナーをする学生
今日も"Marketing Planning and Tactics"の聴講をする妻を学校まで車で送り、帰ってきてから娘を自宅前のプレイグラウンドで遊ばせる。冬の間深い雪に覆われていたプレイグラウンドだったのだが、ここのところの陽気で一気に雪が溶けてきた。まだ少し雪は残っているものの、何とか遊べる状態になったので公園好きの娘は嬉しくてしようがないらしい。娘をブランコに乗せて揺らしたりしていると、小さな子供達を連れた近所の奥様が続々とやってくる。子供を遊ばせながら奥様方と話をしているこの状態は、まさにパートナーの日常だ。しばらく娘を遊ばせてから帰宅すると、今度はTさんが息子K君を連れて車でやってきた。K太君を遊ばせに来たらしい。我々も再びプレイグラウンドに戻って子供達を一緒に遊ばせる。
そうこうしているうちに妻の授業が終わり、また学校までお出迎え。そして、帰宅して我が家で子供を交えてお茶。。。まるでパートナーと学生の生活が入れ替わったようだった。
夜は、Tさん宅にて行われたポーカー大会に参加。一緒に参加したアメリカ人学生4人とTさんはこのポーカー大会の常連らしいが、僕はルールさえ怪しい素人である。しかも、僕は最近レクチャーしてもらって初めて知ったのだが、一口に「ポーカー」と言っても非常に多くの種類のゲームがあるらしく、これがなかなか覚えられない。ハイ&ロウ、7カードスタッド、アナコンダ、シンシナティ、フォロー・ザ・ビッチ、クルー、テキサスホールデン、ベースボール、メキシカン、、、、(他にも色々とあったがもう忘れた)。しかし、5時間ほどゲームした結果は、こうしたゲームの常であるところの、見事な「ビギナーズ・ラック」だった。
3月28日(金) 天窓
やや風邪ぎみ。妻が聴講のために学校へ出かけていった後、娘を連れて今学期初めてのスペイン語の授業に出席する。メキシコでスペイン語シャワーを浴びていたにも関わらずほとんど勉強をしていなかったため、まったく授業についていけず。比べて、一緒に授業を受けている人々はきちんと勉強しているようで、すっかり置いていかれた感じだ。
夜、T氏宅にて焼肉をするというお誘いがあり、一家で参加する。10人ほどの参加者で大量の肉をあっという間に消費していった後は、心地よい満腹感に包まれて、皆でまったり。夜が更けてから眠くなったという娘を寝かしつけようと、二階のT氏のベッドを借りて娘と横になった。ベッドの上には天窓があり、窓ガラス越しに星空が見える。この家は昨年までT’02のSさん一家が住んでいた家である。彼のサイトによく、休日ベッドに寝転んで、天窓に切り取られた青空を横切る白い雲を眺めていた、という記述が出てくる。Sさんは去年このベッドにこうして寝転んでこの天窓を見ていたんだなあ、と思う。寝転びながら天窓に見える青空を見上げるのは、本当に気持ちいいだろう。春や秋のアッパーバレーの抜けるような青空ならばなおさらだ。
ここで寝転んで天窓を見上げていたSさんの家族がハノーバーを離れて東京に戻ってから、もう随分とたつ。そして、もうあと二ヶ月ちょっとすれば、我々一家も、T氏もここを離れて新しい場所へ向かうことになる。来年にはまた新しい人が、同じ場所でこうしてベッドに寝転んで天窓越しの青空を見上げるのだろう。天窓はいつまでたっても変わらない。変わらない天窓に切り取られた、変わらない風景をこうして見上げている人々だけが入れ替わっていく。TUCKという天窓、ハノーバーという天窓、セイチャムという天窓、、、、無数の天窓の前を僕達は通り過ぎていく。
3月29日(土) 娘の発音に思うこと
風邪が少し悪化する。週休5日のはずの週末だが、昨日までまったく予習をしておらず、その一方で週明けにはまとまった量の授業があるので、早くも相当切羽詰った様相で予習に取り掛かることになった。自分でペースメイキングできない人間は、結局こうなるのである。
夕方COOPに娘と買い物に行く。行きの車の中で娘に英語で色々と話し掛ける。いつも最初は「パパなんでえいごなの?」(娘は「えいごのひと」よりも「にほんごのひと」が好きらしい)と言う娘であるが、そのうちにだんだんと「英語モード」になるらしく、自分から英語(らしきもの)で話しかけてくるようになる。ただし単語も文法ももちろん無茶苦茶だ。僕は娘のデタラメ英語でもだいたい言いたいことは理解できるのだが、COOPで娘に突然話し掛けられたアメリカ人達はその1割ー2割くらいしか理解できないらしい。しばらく「それはこういうことを言いたいのかな?」と返したりするのだが、結局何を言いたいのか理解できないままに、曖昧な笑いを浮かべて”Bye!”と去って行ったりする。おそらくどこかアジアの国の言語をしゃべっているのだと思っているのだろう。
単語・文法は滅茶苦茶の娘の英語であるが、それでも耳が若いだけあって発音だけはしっかりしている。「シンデレラのビデオがみたい!」という時の”シンデレラ(Cinderella)”の発音は実に自然に”r”と”l”を区別している。パパにはこれがなかなか難しいのだ。
親の目から見ると、どこから見てもこてこての日本人に見える娘ではあるが、もちろんそんなことはないのだ。もしも僕がこのまま米国で就職をしてこちらに永住したりすれば、娘はごく自然に英語を第一言語にするようになるのだろう。その場合、娘は勉強も、仕事も、恋愛も、人生の煩悶も、すべて英語のロジックで行うことになるのだ。日本で、日本語で送る人生とは、まるで違った人生が待っていることだろう。親の職業の選択というものは、その子供という人間の長い人生を、さらに言うならばその後に無限につづく子孫の人生を左右することになるのだ、と思う。
職業の選択とは是即ち人生の選択也。そして其は本人の人生のみを意味するものに在らず。
3月30日(日) 終わりに向けて、加速するアイスホッケーシーズン
久しぶりに雪が降った。昨日までにほぼ雪が消えて再び一面の芝に戻っていたセイチャムのグラウンドにも、うっすらと白い化粧が施された。夕方から、ちらつく雪の中を学校へ向かい、スタディグループのミーティングをする。
夜はカンピオンリンクにて日本人ホッケー。先日の一年生対二年生対抗戦のリターンマッチとなったが、今回はバランスをとるために二年生のT内氏が一年生チームに参加。前回同様ゴーリーのローも一年生チームの助っ人に駆けつけた。試合は出だしこそ二年生チームが着々と加点していったものの、後半にいくにつれて高齢選手の多い二年生チームの足が止まり、立て続けに点を返される。最後は5−4の辛勝だった。
試合を終えてリンクを出てもまだ雪が少し降っていた。気温も下がったらしく、地面に積もった雪が溶けないまま、踏むとキュッキュッと心地良い音をさせる。昨日まで、あちこちで目立ち始めた緑の芝生を見てもういよいよ卒業に向けてのカウントダウンが始まった気がしていたのだが、こうして雪に覆われたカンピオンリンクの駐車場にいると、まるで数ヶ月前の冬本番に時計の針が逆戻りしたような気がする。まだまだ卒業は遠いことのように感じるから不思議だが、もちろん時計は巻き戻されたわけではなく、カウントダウンは変わらず進んでいるのだ。
ホッケーシーズンも4月9日(水)を最後にカンピオンリンクがシーズンオフに入ると同時に終了、だ。残り少なくなったアイスタイムを惜しむように、まるで何かに急き立てられるように、我々日本人二年生達はホッケーをしている。来週末にフィラデルフィアで行われるトーナメント「チーズステーキ杯」も、日本人二年生は結局6名が参加することになった(当然アメリカ人を除けば最大人数)。今晩から水曜日までは四日連続してアイスタイムが確保されているし、フィラデルフィアから帰ってきてもカンピオンリンク閉鎖の当日まで最後の3日間を連続してプレーする予定だ。
卒業してからもどこかでプレーできればいいが、忙しいであろう仕事を考えるとなかなかそうもいかないかもしれない。もしかしたら、これがアイスホッケーができる人生で最後の機会になるかもしれない。そういう気持ちが、予習で忙しい夜にも皆をリンクに向かわせるのだろう。
3月31日(月) I'm tired
朝8時過ぎに妻を学校へ送っていくことから一日がスタートする。その後、三つの授業に出たのだが、たまった予習のせいで睡眠時間が短いので授業中も眠くてしようがなかった。一番の眠気ざましは発言すること。しかし、発言して数分がたつとまた眠くなる。こんなに疲れた状態で授業を受けるのは、一年生の秋学期以来だろうか。違うのはあの時は週5日授業があり、今は週2日しか授業がないことだ。校舎内ですれ違う同級生から、"You look tired!"と数回言われる。そのたびになぜ疲れているのかを説明する。@今学期は月・火に授業が固まっているため、つい予習もたまってしまう、Aここのところ風邪気味で体調も悪い、Bにも関わらずホッケーをしてしまっている。理由を聞いた同級生は皆、口々に「そりゃしようがないな(自業自得だ)」という反応を示してくれた。
夜7時過ぎからの松井のデビュー戦をスタディルームでミーティングしながらネット観戦。見事に第一打席でタイムリーを打ったことを確認してから、ようやくミーティングに身が入りだした。自身は熱狂的な阪神ファンでありながら、くじ運とはいえ仇敵巨人に入団した彼にはネガティブな感情も持っていたりもするのだが、メジャーに来れば話は別。阪神・巨人以前に日本人、だ。それにしても、この10年間で彼は随分と「いい顔」になったなあ、と思う。特にアメリカに来てからの彼の顔にそれを感じる。いい加減に人生を生きている男は絶対にああいう顔にならないのだ。
今晩もホッケー。週末の大会に向けた練習でまたしても疲労困憊。予習は相変わらずたまっており、明日も疲れた一日になりそうだ。