MBA留学日乗 200304     | ホームへ   |      | 前月へ   |  | 翌月へ   |  


4月1日(火)         意思決定

「この問題はミッドタームに出るから注意しなさい。え?ミッドタームがあることを君達は知らないのか?。。。。なーんて、エイプリルフールだよ。」---Managerial Decision Makingのウォーマック教授のこの一言が、今日聞いた唯一のエイプリルフールのジョーク。

このウォーマック教授、元ゴールドマンサックスで働いていた人物で、一年生の時のコアではCapital Market(資本市場論)のクラスを教えていたのであるが、このManagerial Decision Makingは、ほとんどファイナンスとは関係のないクラスである。一般的にDecision Makingをするに当たって起こしやすい心理的な間違いなどを考察し、いかにCriticalに物事を見て正しいDecisionを下せるようになるか、について教えるクラスなのだ。とても面白いクラスであり、このクラスのリーディングなどを読んでいると、人間がいかに非論理的な生き物であるかが良く分かる。

今日の授業のためのリーディングのテーマは「偶然」。いくつかの事例が紹介されていたが、そのうち面白いものを二つ。

<911にまつわる偶然>

@9/11の各数字の合計は11(9+1+1)。最初にWTCにぶつかったアメリカン航空の飛行機のフライトナンバーは11。その飛行機には92人の乗客が乗っており(9+2=11)、9月11日は一年間で254日目の日だった(2+5+4=11)。Afganistan"、"New York City"、"the Pentagon"、"Goerge W. Bush"という言葉はいずれも11の文字で成り立っている。そして、WTCのツインタワーの形状自体が、そもそも”11”の数字を表している(呪われた数字「11」)。

A9/11の一周年メモリアルの日(2002年9月1日)に行われたロタリーの当選番号は”911”だった。

<ケネディとリンカーンにまつわる偶然>

Bケネディ大統領とリンカーン大統領はちょうど100年の間を置いて生まれた。二人の次に大統領になったのは、いずれもジョンソン大統領だった。二人のジョンソン大統領は、いずれも100年の間をおいて生まれた。ケネディとリンカーンの名前はいずれも7文字で、その次の大統領の名前はいずれも11文字で、その暗殺者の名前はいずれも15文字だった。リンカーンは劇場で暗殺され、暗殺者は倉庫に逃げ込んだ。ケネディは倉庫から撃たれて暗殺され、暗殺者は劇場に逃げ込んだ。リンカーンの秘書はケネディという名前で、彼は暗殺される晩に大統領が劇場に行くことに反対していた。ケネディの秘書はリンカーンという名前で、大統領がダラスに行くことに反対していた。

いずれも「世界まるみえ・・・」等の日本のテレビ番組とかに流せば、観客のため息とも悲鳴ともいえぬ声が聞こえてきそうな話である。しかし、、、とこの文章はつづく。人々がこれらのストーリーに興奮したい気持ちはよく分かる。その方が面白いのだから。しかし、これらは当然ながら起こり得ないほど少ない確率で起こった事実なんかではもちろんないのだ、と。(この後にQualitative、Quantitativeな考察がつづくのだが、それは割愛)。

このような他愛もない話だけならまだ害はないのだが、実際のビジネスや政治の場で起こる数多の意思決定の際にマネジメントが思考停止したまま直感で判断を下していては、見るも無残な結果になってしまう。"The law of large numbers (大数の法則)"が頭の奥で意識できているか、都合よく切りとられ濫用された"Framing"がないかどうかを見るクリティカルな視点があるかどうか、で意思決定は随分と変わる、というのが今日のクラスのtake awayだった。最後にリーディングアサインメントからの引用をひとつ。

"Given that there are 280 million people in the United States, 280 times a day, a one-in-a-million shot is going to occur."

午後9時過ぎに授業が終わった後は、今晩も3日連続でホッケー。少人数で休憩なしにプレーしていたため、最後は腰が痛くなってしまった。


4月2日(水)         コリアン・パネル

5日間の休日の初日。一週間でもっとも開放感を感じる一日。とはいっても週末はあっという間に過ぎていく。今日も予習に手をつけないわけにはいかないのだった。

昼から韓国人学生達が行った"Korean Panel"を家族三人で聞きに行く。我々がやった"Japan Panel"同様、韓国の歴史・今を学生達が45分ほどでプレゼンしていくものだ。紀元前3000年頃の神話の世界(檀君)からつづくという自国の歴史を”5000年”と称していたのはまあご愛嬌だとして、全体的に面白いプレゼンテーションだった。同級生J君が何度も強調したように、かの国には30代と20代以下の世代の間に強烈なgeneration gapが存在しているらしい。一年生某君による、"We are trying to catching up Japan. But, they are still running far ahead of us."という発言も興味深かった。そう、いまだに両国のGDPには10倍の開きがあるのだ。

プレゼン後は、二回目のモデリングのリサーチプログラムに参加。再びカセットテープの前で自分のモデリングアプローチについて一時間しゃべりつづける。

夜は4日連続のホッケー。週末のトーナメントに向けて、チーム別の練習試合を行う。一点ゴールも決めて、良いイメージで大会に臨めそうだ。しかし、残念なことがひとつ。一年生の途中から一年以上使いつづけてきたお気に入りのスティックが折れてしまったのである。思い入れのある道具なので残念。明日新しいスティックを買いに行くことにしよう。


4月3日(木)          ASW

雪が降った。10センチ近く積もっただろうか。「今晩から合格者を集めたASW(Admitted Student Weekend)が始まるというのに、この天気では何だか気の毒だね」などと校舎で同級生達と話をする。たしかに抜けるような青空のハノーバー(気温摂氏15度以上)と、雪のハノーバー(気温摂氏0度以下)では初めてこの地を訪れる合格者にとっては随分イメージが違うだろう。

週末、金・土・日の三日間の予定で今年もASWが行われるため、校舎内にもテントの設営やイベント用の飾り付けなどがなされている。昨年は合格者夫婦を家に泊め、飲み会やらインターナショナルランチやら種々のイベントで楽しく過ごしたASWだったのだが、今年はよりによって年に一回のホッケートーナメント「チーズステーキ杯」と日程がかちあってしまった。色々と悩んだ末にチーズステーキ杯の方に参加することにしたため、今年はASWに参加できないのが残念だ。ハノーバーに残る妻の方はイベント参加者のためのベビーシッターのボランティアをしたり、ランチの調理をしたり、と昨年同様参加するようなのだが、それを手伝えないのもやはり申し訳ない。しかし、決めてしまったからにはトーナメントで優勝できるよう全力を尽くす所存。

明日から三日間フィラデルフィア。今年も誕生日はフィラデルフィアで迎えることになった。


4月4日(金)         フィラデルフィアで向かえた誕生日

夜の間に雪はやむことなく降り続いていたらしく、朝起きたら窓の外はさらに深い一面の雪だった。車も、公園も、芝のグラウンドも。その雪の中をT氏の車に乗り込んで午前9時過ぎにハノーバーを発ち、フィラデルフィアに向かった。バーモントを過ぎ、マサチューセッツに入ったあたりで一気に雪がなくなる。さらにコネチカット、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルバニア、と南下していく。昨年も同じ時期にこうして同じ道を通ってフィラデルフィアに向かったのだ。

結局ペンシルバニア大学のホッケーリンクに着いたのは午後6時過ぎ。到着して間もなく、TUCK2(我々ではない方のチーム)対Yaleの試合が始まった。試合は、地力に勝るTUCK2がYaleを押し切って4−1で快勝。大会三連覇を目指すTUCKチームは今年も良いスタートを切った。

夜は、ウォートンチームが用意してくれたパブでの飲み会。昨年もこのパーティーに出て思ったのだが、TUCKのパーティー出席率が高いのは何故なのだろうか。今回も4校から8チームが大会に参加しているので、選手数では25%前後であるはずのTUCK生が、パブで飲んでいる人間の50%以上を占めていた。そしてその比率は時間を追うごとに上がっていき(つまりTUCK生はなかなか帰らない)、最後にはほとんどが身内にになってしまっている。

ところで、4月5日は僕の33回目の誕生日なのだが、偶然同級生のクリスも同じ日が誕生日であることが判明。午後11時過ぎから「お前らの誕生日まであと何分だな、飲んでるか?」「誕生日になったらどうなるか知ってるよな?」と皆から声をかけられていたが、午前0時をまわり日付が僕とクリスの誕生日になった瞬間に、皆がビールのジョッキやテキーラのショットを持って我々二人の方へ殺到。クリスと二人で久しぶりのイッキ飲みを繰り返した僕は、誕生日を迎えて5分後にはフィラデルフィアのパブのトイレで吐くはめになった。その後も皆に担ぎ上げられたり、踊ったり、歌ったり、、、楽しいBlast Partyだった。

20代の終わりにMBA受験を決心し、30歳で合格、31歳で渡米、そして二回の誕生日がやって来て今日僕は33歳になった。33歳といえばもう立派なおっさんである。落ち着いた誕生日の方が相応しい年齢だし、来年の誕生日には日本で落ち着いた34回目の誕生日を迎えていることだろう。しかし、このいかにも「学生」らしい、馬鹿騒ぎのうちに迎えた誕生日も僕にとってはなかなか素敵なものであり、きっと一生忘れられないものになるのだろう、と思った。


4月5日(土)         バースデーに二連敗

午前中に我々”TUCK1”チーム対”ウォートン3”チームとの初戦が行われる今日は、多くの選手が二日酔を抱えたままでリンクへ向かう。試合前から「絶対勝つぞ」と気合を入れて挑んだ我々だったが、第1ピリオド最初のフェイスオフから5秒後にはウォートンチームに先取点を取られてしまった。その後もいいようにパックをキープされ、たてつづけに点を取られ、試合開始5分以内に0−5になってしまった。「これは全然レベルが違う」。彼らの動きを見て、皆が顔色を失う。その後何とか奮闘した”TUCK1”チームであるが、結局最終的に1−12という信じられない大差で敗れる。初心者による大会のはずなのだが、ウォートンチームには明らかに経験者と分かる選手が10名近く入っていた。我々レベルで「相当うまい」レベルに入る学生でさえ、子供扱いである。

結局我々”TUCK1”は夜の敗者復活戦にまわることになり、急遽できた時間を使ってフィラデルフィア美術館を見学。良い絵を見て気分転換をして、さて夜の試合、、、だったのだが、ここでもYaleに対して2−4と敗退。チーム全体では明らかにTUCKのレベルが上だったが、Yaleには一人凄くうまい選手がおり、その選手に全得点を決められた。さらにもう1チームの”TUCK2”も今朝我々が完敗した”ウォートン3”に0−7と良いところなく完敗して、今年のチーズステーキ杯はTUCK両チームともに決勝に進むことなく終了したのだった。ハノーバーで待っている同級生や家族、日本にいる卒業生に合わせる顔がない、とはこのことである。「結局ヒロシにバースデープレゼントをあげられなかったなあ」とチームメイト。「もうこれでシリアスなホッケーの試合はないのかと思うと、泣きそうになるね」と、別のチームメイト。

試合が終わった後、夜10時頃からウォートンスクールの日本人学生のマンションにTUCK日本人6名でお邪魔して一緒に飲んだ。ウォートンからも7−8名の学生が参加している。酒を飲んで、笑っているうちに、いつの間にか僕の誕生日は終わっていた。関係のない話をしていると、大会で負けた悔しさも癒される。

しかし午前二時過ぎにホテルの部屋に戻り、ベッドに入ってからまた悔しさがこみ上げてきた。今年の大会では、二試合で打ったシュートはわずかに3本、ゴールゼロ。惜しいチャンスにミスをしてシュートにまで持ち込めないことも多く、僕はまるでチームに貢献できていなかった。

【”TUCK1”チーム、二連敗直後に気を取り直して笑顔で記念撮影。国籍は米11、日3、露1】


4月6日(日)        校風の違い

昨日一勝していれば今日も試合があるはずだったのだが、今日はただハノーバーに帰るだけの一日である。朝9時過ぎにこの滞在中初めて青空を見せてくれたPhillyの街を後にする。完敗に終わったチーズステーキ杯だったが、それでもやっぱり参加してよかったとは思う。TUCKで二年間打ち込んだホッケーというスポーツの締めくくりとしては、やはりこの大会は必要だったのだ。

ところで、この大会ではTUCKという学校の、小さいがゆえの結びつきの強さを再認識させられた。参加した四校(ウォートン、Yale、コロンビア、TUCK)のうちコロンビアを除く全校が複数のチームを出場させていたのだが、他の学校では1チームがもう1チームを応援するという光景がまったく見られなかった。試合が終わって着替えると、次の試合で同じ学校のチームが試合をしていてもさっさと帰っていくのである。それは見事なくらいにあっさりとした態度だった。地元のウォートンチームでも同級生が応援に来ているような様子はまったくなかった。一方で、TUCKで行われるAチームのホッケートーナメントやスキーのウィンターカーニバルの際の同級生の応援は、それは凄いものだ。トライポッドの学内リーグ戦や学年対抗試合でさえ数十人が応援に来ていることがある。今大会中も、前夜遅くまで飲んで二日酔の”TUCK2”の同級生達が全員翌朝の我々の試合の応援に駆けつけてくれた。自分達は夜まで試合がないのに、である。また、TUCKには家族が応援に来ていた学生までいた。

それぞれ同じ米国東海岸にある、同じアイビーリーグのビジネススクールなのに、校風というのは随分と違うものなのだな、と改めて思わされた。きっと、TUCKはその学校の規模の小ささゆえに、学生間の結びつきが特別に強く、そしてウェットなものになるのだろう。どちらが良い、ということではなく、それは単なる「違い」だ。そして、とても大きな違いだ。僕はTUCKで既に二年近くを過ごしているので、無意識のうちにTUCKの”Frame”で他校の生徒の行動を見てしまう。そしてそのドライな関係に「違和感」のようなものを感じてしまう。しかし、もしかしたらTUCKの”Frame”の方が普通ではないのかもしれない。

高速を走りつづけてハノーバーに帰ったのは、午後10時過ぎ。家のまわりにはこの週末の間降りつづけていたという雪がかなり積もっていた。


4月7日(月)         Day Light Saving

先週末のフィラデルフィア行きでアサインメントがたまっており、睡眠不足を抱えたまま一週間が始まる。授業がすべて終了した後も、明日の授業で提出予定のライトアップが三つ、アサインメントが一つあり、時間と戦いながら一つ一つこなしていく感じ。当然夜のホッケーには行けず。最後のManagerial Decision Makingのライトアップを書き終えたのは、既に外が明るくなった午前6時だった。

昨日日曜日の午前二時をもってサマータイムが始まったので、日の出・日没がそれぞれそれまでに比べ一時間遅れた。サマータイムのことを"Day Light Saving "と呼ぶのだが、同じ日照時間をより有効に使おう、という意図がこの名称から読み取れる。もっとも今日のように一日じゅう勉強している場合には日没が午後7時だろうが午後8時だろうが、まったく関係ないのだった。


4月8日(火)         ラテン語

午後9時過ぎのBusiness Lawの授業をもって、早くも今週一週間の授業が終了した。Business Lawでは、英語の法律用語に馴染みのないものが多く、リーディングアサインメントを読む際にも電子辞書が手放せない。それ以外のクラスでは、だいたいケースなどで使われるターミノロジーは決まってくるので、入学直後ほど電子辞書が活躍する機会はなくなってきていたのだが、今学期だけは再び電子辞書が大活躍している。"Bona Fide Occupational Qualification"とか、"Quid pro quo harassment (いわゆる代償的セクハラ)"など、ラテン語系の用語もしょっちゅう出てくるので、辞書なしではこのクラスはかなり厳しい。ちなみに"bona fide"とは「誠意のある」というような、"quid pro quo"とは、「代償、仕返し」などといった意。

アメリカに来て初めて知ったことのひとつが、随分とラテン語源の言葉が英語の中で使われているのだ、ということ。英語全般に言えることなのか、アメリカだけに言えることなのかは分からないが、ラテン語を使っていると何となくインテリぽく見せる効果があるのだろう。日本人でやたらと横文字を使いたがる人がいるのと同様、やたらとラテン語を会話の中で使いたがる人も結構いる。

普段よく使われるラテン語源の言葉のうち、今思い出せるものを書き出してみた。

per se それ自体・本質的に
pros and cons 長所と短所、賛成と反対 
per diem 日当 
et al 及びその他 (マーケティングの文献などを読むとしょっちゅう出てくる)
pro forma 形式上の (会計でお馴染み)
pro rata 比例した
vice versa 逆もまた同様に
status quo 現状維持
pro bono 公益のための
quasi 外見上の

他にもいっぱいあるはずなのだが、ちょっと今は思い出せない。上記のうち、留学前から意味を知っていたのは、"pros and cons"、"quasi"、"vice versa"、くらいか。それ以外は、教授や同級生が口にするたびに、「?」と思いながら気付かれないように電子辞書などで調べていたことを思い出す。

夜はまたホッケー。同級生達と試合後に氷の上で記念撮影をする。


4月9日(水)         さよならアイスホッケー

夜、日本人によるリンクを借り切った最後のアイスホッケー。ついにこの二年間TUCKで打ち込んできたアイスホッケーも最後の日を迎えてしまったのだ。最後のアイスタイムである今日は、日本人の学生・パートナーだけに限定して一時間プレーする。妻も同じチームで参加。

実はフィラデルフィアの大会で新品のスティックを早速折ってしまい、今日の昼間に今晩のためだけに4本目のスティックを購入してきていた。しかし、これを自分の身長に合わせてカットするのを忘れてしまったため、長さがいかにも長すぎる。氷と接する面に隙間ができているらしく、いつもの調子でスティックを振ったところ空振り、というシーンが5回も6回もあり、個人的には最後の最後にとてもフラストレーションの残るプレーしかできなかったのは、非常に残念。

それはともかく、試合後にはまた皆で記念撮影。最後に日本人二年生で氷の上にダイブしてこの二年間を締めくくった。

TUCKに来るまでは自分にはまったく縁のないスポーツだと思っていたアイスホッケーだが、TUCKで暮らした二年間のおかげで、ホッケーは我々にとって特別な意味を持つスポーツになった。秋から春にかけて毎晩のようにホッケーリンクに出かけていったこと。どんなに予習が忙しくても「気分転換」と称してホッケーに出かけたこと。深夜0時をまわって帰宅して洗濯機をまわしながら勉強したこと、いずれも忘れられぬ思い出だ。日本に帰ったら、忙しい日常の中で皆なかなかホッケーをする時間も見つけられないだろう。

リンクの入り口のドアを開けた瞬間に匂うホッケーギアのなんとも言えぬ匂い、ザンボニ(製氷車)がリンクを製氷していく音、パックがリンクの壁にぶつかる音、スケートの歯が氷を削っていく音、、、もうそれらに接する機会もなくなるのだ、と考えると、切ない気持ちになる最後のホッケーだった。


4月10日(木)        無為に過ごした一日

体調が再びすぐれず、ほとんど一日じゅう寝ていた。夜は”TUCK Gives”と呼ばれる年に一回行われるオークションのアクティブオークション、二年生のトライポッド選手だけを集めた「お別れホッケー」、さらには日本人学生との麻雀大会、とイベントが目白押しだったのだが、いずれもキャンセルしてベッドで寝ていた(妻子はオークションには出かけていった模様)。

卒業式まで残り58日しかない(さっき数えた)貴重な一日を無為に過ごしてしまったことによる脱力感のみをが残った一日。


4月11日(金)        大人しく眠る眠る

体調いまだすぐれず、昨日同様ほとんど寝て過ごした一日である。昨日夕方4時半から寝はじめて、今日の夕方6時まで26時間ほとんど寝ていた。その間数本のメールを書き、シャワーを浴びたりはしたものの、正味でも24時間は寝ていたことになる。「その長時間睡眠の特技は間違いなくTUCK1だ」とT内氏から言われたが、たしかにかなり特異な体質なのかもしれない。

さはさりながら長時間睡眠ができるということとそれが好きだということとは決して同義ではなく、やはり何もせぬまま時間が過ぎていくというのは、なかなか精神衛生上宜しくない。9週間ある最後の学期も既に3分の1が過ぎてしまっていることに気付けば、それは尚更である。

あと残り6週間だと考えると、感傷的な気分とともに焦燥感のようなものが募る。やり残したもの、やっておくべきもの、今のうちにしか出来ないもの、はないだろうか、と鵜の目鷹の目で探している感じだ。そのような時に体調を崩すと焦燥感は尚更大きくなるのだが、焦ったからといって体調が良くなるわけではないので、ただ今日のように、じっと、ひたすら、大人しく眠るのみ。


4月12日(土)        春一番

ようやく体調も快復し、普通に行動できるようになった。

窓の外は眩いばかりの春の光。芝生を覆っていた先日の雪はすべてあっという間に溶けてしまい、再び青い芝が顔を出している。「春一番」なのだろうかか、強い風が吹き荒れている。好天に誘われ、家の前で娘とシャボン玉で遊ぶ。こちらのシャボン玉液は日本でよく見る100ccくらいの小さなケースではなく、2リットルくらいあるペット容器に入って売られている。飛ばし方も小さなストローではなく、大きな団扇状のモノを使って豪快に飛ばすのだ。アメリカにあるすべての事象と同じく、シャボン玉においても日本のシャボン玉に見られる趣のようなものはまるで存在しない。ひたすら大きく、豪快だ。強い風にのって、シャボン玉が豪快に飛んでいく。

【自宅前でシャボン玉】

その後家の前の芝生で妻とBocceをプレーしていると、息子K君を連れたTさんがやってきたので一緒にプレーする。その後もゴルフクラブを抱えたケビンとAさん夫妻、さらにはT内氏、と入れ替わり立ち代わり登場し、彼らと一緒にBocceをプレーした。ホッケーリンクが閉まったのと入れ替わるように、芝生の上でBocceをプレーする季節がやってきたのだ。

夜は、一年生二名と元隣人I氏宅にお呼ばれし、遅くまで酒を飲んだ。体調快復と春の到来の喜びを噛み締めた一日。


4月13日(日)        そしてホームページはつづく

天気の良い日曜日。目に染みるほど鮮やかな青空と徐々にその色を濃くしていく芝のコントラスト。その芝の上で、アングラの学生たちが寝転んだり、フリスビーをしたり、キャッチボールをしたりしている。我々も、とばかりに勉強の合間にブキャナン寮の前の芝生でT内氏と二人でキャッチボールをする。今年もダートマス大学内ソフトボール大会の季節がやってきたのだ。この大会が終われば卒業も目の前である。

さて、「こうすれば受かるMBA」というビジネススクール受験者向けの情報提供サイトサイトについては昨年も日乗で書かせていただいた。TUCK Class of 2002の江口さんが合格者に呼びかけて作ったものが、初代の2000年版であり、翌年TUCK Class of 2003の俵氏の取りまとめによる2001年版へと受け継がれ、さらにコロンビア Class of 2004の遠藤さんの取りまとめによる2002年版へと受け継がれた。

そして今年も、2003年版の取りまとめをしていただく方が手を挙げてくださいました。UT Austinに進学予定の宮地さんという方です(小生、サマーインターンで神戸滞在中にはこの方に一方ならぬお世話になりました)。

まだ2003年受験戦線も継続中ではありますが、既にビジネススクールに合格された方で、「こうすれば受かるMBA」にボランティアで原稿を書いてもいい、という方は是非ご協力をお願いします。進学校が確定していなくても勿論結構です。ご協力いただける方は是非宮地さんまでメールでコンタクトしてください。

ストレスフルなB−school受験における情報収集の労力とコストはなかなか馬鹿にならない。少しでも受験生のそれらの労力・コストを軽減できるよう、三年前に江口さんが始めたボランティアの輪が、こうしてずっと回りつづけていけばいいなと思うのだった。


4月14日(月)        V字回復計画

今日も良い天気。三つの授業が終わった後、Business Lawのスタディグループまでの合間にSさんと連日のキャッチボールをする。しかし、少し力を入れて投げたところ、先日のホッケーで痛めていた腰を悪化させてしまった。いやあ、情けない。明らかに背筋力が落ちていることが問題なのだ。

昨日、今日のキャッチボールで改めて感じたのは、自分の体にだいぶガタがきている、ということだ。しかも体にはガタが来ていながら、頭の中には高校生時代のイメージなどが残っているものだから、余計始末に終えない。少しだけ自慢させていただくと、僕は中学時代は市内にある17の中学校野球部の投手で最も球が速かったと言われていたりしたし(当時の監督談)、人生で最も速い球を投げていたと思われる高校一年生の時のスピードガン計時では135kmを出したこともある。当時は素人とキャッチボールをすると、皆例外なく怖がってくれたものなのだ。そして、それが快感だった(笑)。しかし、肘の遊離軟骨(今だに肘がポッキポキいいます)の痛み、ついで肩の痛み、さらには速い球を投げるために不可欠な背筋力の低下、ふんばるために必要な太ももの筋力の低下、最後に蹴って体重を乗せるために不可欠な脹脛の筋力の低下(2年前の試合で試しに思い切りプレートを蹴ってみたら足が攣った)、と状況は悪化の一途を辿り、渡米前に六本木のゲームセンターのスピードガンで測った時には最速105kmという体たらくだった。今では全力で投げても100kmすら出ないかもしれない。

頭の中に残るイメージの中では、手元でホップする球にのけぞるはずの受け手。しかし今日のキャッチボールで投げた実際のボールはSさんの手元で丁寧にお辞儀を繰り返していた。いかん。このままここで諦めたらずるずるいってしまう。

ということで、わたくしこれから落ちた筋肉を再び鍛え直すことにします。まずは、背筋力と下半身(太もも・脹脛)の筋力から。肘と肩の痛みはもはやしようがないにしても、筋力を鍛え直すだけで、だいぶ球速は戻るはずだ。目標は卒業までの間に時速110kmくらいは出せるまで戻すことである(卒業までに掲げる目標の種類としては明らかにズレている、という指摘厳禁。)


4月15日(火)        Year Bookの写真

"Tuck Year Book"というものがある。卒業アルバムのようなものだろうか。TUCKのLANドライブの共有フォルダの中にYear Book用の写真をドロップするフォルダがあり、ホッケーの写真やイベントの写真などを各自がめいめいドロップしている。それを見ているだけで、この二年間の出来事が色々と思い出される。そのYear Bookの中に、各学生のポートレイトを載せようということになり、家族持ちは家族一緒の写真を載せることになった。しかし家族三人で撮ったうってつけの写真というのがなかなかない。ということで、今日は授業の合間にTUCKサークルで家族三人でYear Book用の写真を撮ってきたのである。

ここのところ晴天がつづいていたが、中でも今日はひときわ暖かく気温は実に摂氏27度まで上がっていた。長袖では汗ばむような陽気の中、Tuck Hallを背景にして何枚か写真を撮った。

二年前に渡米した翌日、家族三人で大学構内を迷った挙句にようやく辿りついたTuck Hall。8月の太陽の下で白く輝くTuck Hallはとても荘厳に見え、ため息をつきながら見上げたことを思い出す。その時に撮った写真がこのサイトのトップページにずっと使われている写真である。真中の二本の白い円柱の間にかかった横断幕には、"Welcome Class of 2003!"と書いてあった。100年近くここに在りつづけるTuck Hallは、もちろんあれからの二年間で少しも変わっていない。毎年繰り返してきたように、もう数ヶ月もすれば"Welcome Class of 2005!"と書かれた横断幕を掲げて、また新しくやってくる学生達を変わらず迎えることだろう。

あれから毎日、晴れの日も雪の日も見上げつづけてきたTuck Hall。しかし考えてみれば今日撮った写真が、Tuck Hallの前で撮った初めての写真なのだった。

【この写真がYear Bookに載ります】


4月16日(水)        イースター、ポーカー

タックパートナーのキッズプレイグループが主催する”イースター・エッグ・ハント”がセイチャムのユニット11/12で行われた。ちょうど妻が聴講しているクラスと時間が重なっていたので、娘と二人でタマゴを持って参加する。去年はイースター(復活祭)は3月後半だった気がするのだが、今年は随分と遅い。どうもこのイースターという祝日は移動するようで、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」が復活祭になるのだそうな。ということで今年は4月20日(日)が復活祭なのだとか。

イースター・エッグとイースター・ラビットというのが、イースターのシンボルらしく、この季節になるとそこらじゅうの店でカラフルなプラスティックのたまご型容器とウサギのぬいぐるみが売られている(タマゴからはヒヨコが生まれるので復活祭に相応しく、ウサギは子だsくさんなので生命の喜びを祝うに相応しいのだとか。かわいいイースター・ラビットがイースター・エッグを持ってやってくる、という伝承もある)。たまごもウサギもバスケットも、イースター関係のものはパステルカラーのものが多いので、店の一角がいかにも「春が来ましたよ」と言っているように華やいでいる。このタマゴ型の容器の中に小さなお菓子やおもちゃを入れて、それを色んなところに隠して皆で見つける、というのが”エッグ・ハント”なのである。

会場には小さな子供が40人以上、ママが30人ほど、そしてパパが僕を入れて4人来ていた。コーディネーターの「じゃあ、みんなタマゴを見つけてね!エンジョイ!」という一言で子供達が歓声を上げながら駆け出していく(別に隠しているという感じでもないので、いくらでも見つかるのだ)。「最初は一人5個まで」と言われているのに10個以上拾っている子もいれば、一個だけ拾って満足げにそのタマゴを見つめている子もいる。同じ色のタマゴだけ集める子、違う色のものだけ集める子、ひとつひとつタマゴを振って中身の重さを確かめてからカゴに入れる子、、、、色んな子供がいてなかなか面白い。

最初は駆け回る娘をビデオに撮っていた僕なのだが、気が付いたら我々パパ4人組は芝生の片隅に固まっていた。40人の子供達のパワー、30人のママ達のかしましさの前に圧倒され、隅に追いやられた格好か。アメリカ人、エクアドル人、ペルー人、日本人のパパが、輪の中心から離れて「いやー、寒いね。最近勉強どう?」みたいな話をしているのは、何だかおかしい。

国籍の違い、肌の色の違い、言葉の違い、年齢の違い、など世の中に人々を隔てる違いは多々あれど、やはり「性別の違い」というのが一番大きな壁なのではないか、と思う瞬間だ。

夜は、同級生コリン宅で開かれたポーカーナイトに2回目の参加。午後8時から午前一時半までひたすらポーカーをプレーしていた。今日参加していたのは、コリンの他、デイブ、ジェイソン、ケーシー、ダグ、マット、アントニオ、ブライアン、もう一人ジェイソン、Sさん、そして僕。僕とSさん以外は皆生粋のアメリカ人なので、ルール確認のテンポが速く、新しいルールなどが出てきた時にキャッチアップするのがなかなか大変。しかし、浮いたり沈んだりを繰り返した結果は、前回にひきつづきほんの少しだけ勝利だった。


4月17日(木)         パーティー

春休みにメキシコに一緒に行ったフィル一家、サウル一家、Kさん一家、それにTさん一家を招待して、夕方から我が家でパーティーをする。5家族ともに子供がいるので、全員が揃うと子供6人大人9人の大所帯に(残念ながら今日はTさんのみ不在)。こちらのスタンダードでは、”とても小さな”セイチャムの我が家のリビングではいっぱいいっぱいだ。

まだ日の残るうちは子供達は家の目の前にあるプレイグラウンドで遊び、大人達は庭でBocceをやったり。そして、日が暮れてくると子供達は寝室を俄か子供部屋に変えて遊び、大人達はバーベキューを始める。我が家はバーベキューグリルを持っていないので、今日はサウルにグリルを持ってきてもらったのだが、こちらではほとんど全員例外なくバーベキューグリルを持っているようだ。しかも固定式の大型のものと、ポータブルタイプの小型のものと二つ持っている家庭も多い(小型のものでも日本でよく見るタイプよりも余程大きい)。

こちらに来て気に入ったもののひとつがこのバーベキューパーティーというスタイルだ。夕刻、芝生の上などでのんびりとビールを飲みながら肉を焼く心地よさは何とも言えぬものがある。音楽を流すもよし、Bocceを楽しむもよし。日本でもこの楽しみを是非再現したい、とは思っているのだが、都心の集合住宅ではなかなか難しかろう。煙が流れてくる、音がうるさい、などと問題になるに違いない。そんな話をしていたら、「なぜ?俺はいつもシアトルのコンドのバルコニーでバーベキューしていたけど文句言われたことなんて一度もないよ。そもそもバーベキューの煙なんて全然たいしたことないじゃないか。うるさいのだってパーティーする時はお互い様だろ?」と言われる。うーん、なるほど。「煙なんてたいしたことない」「パーティする時はうるさいのはお互い様」。ここはそんな常識が存在する社会なのだった。日本ではそもそも家でパーティーを開くこと自体が一般的ではなかったのだ、ということを改めて思う。

いつの間にか気が付けばワインのボトルが7本と日本酒が一本空になっており、定番のカラオケが始まる頃にはパパ連中はすっかり出来上がっていた。パーティーがお開きになったのは午前三時頃。「何だかあっさり終わってしまったような」と思っていたのだが、午前三時は「あっさり」などというような時間では勿論ない。完全に”長時間パーティーモード”が身に染み付いてしまったようだ。


4月18日(金)         ふたたび意思決定論

意思決定論のリーディングを読んでいる。このクラスでは、ビジネスに関わらず今後の生活において知っておいても損はないheuristicsが毎週次々に紹介される。公共の場であるウェブサイトを個人的な備忘に使って恐縮だが、忘れないためにも今週のリーディングで出てくるbiasについての備忘だけを少し書きとめておきたい。

これまでこの手の備忘を日乗にはあまり書いていなかったのは、TUCKのオナーコードの存在があったためだ。その授業をまだ受けていない下級生に対して授業内容についての情報を伝えることは、「学習効果を損なう」という理由で禁止されているのだ。学校によっては、上級生から下級生へ代々授業のノートや試験の過去問などが受け継がれているところもあると聞くが、TUCKではノートはもちろん、クラス内容について語るのもご法度で、しかもそれがかなりstrictに守られている。しかし、まあこれくらいならいいでしょう。

Availability bias
人は"Available"な情報の方を高く評価してしまう。「糖尿病」と「心臓病」のどちらで亡くなる人が多いか?という質問にTUCKの学生の63%が「心臓病」と回答し、「交通事故」と「胃がん」のどちらが亡くなる人が多いか?という質問には同じく74%が「交通事故」と回答した。実際は「糖尿病」で亡くなる人は「心臓病」の二倍、「胃がん」で亡くなる人は「交通事故」の二倍存在する(だいたいどのサンプルで行った調査でも同じ結果が得られる)。これは、「糖尿病」で亡くなる例よりも「心臓病」で亡くなる例の方が、「胃がん」で亡くなる例よりも「交通事故」で亡くなる例の方が、よくメディアなどで伝えられるためだ。"available"だから、ついovervalueしてしまうのだ。

Recognition bias
人はよく知らないものよりもよく知っているものの方を評価してしまう。

Selective perception bias
人はまずものを見て、そしてそれをdefineするのではなく、まず先にdefineしてからものを見る。目の前にあるものすべてを認知しているわけではない。プリンストン対ダートマスのフットボールの試合の後、それぞれの学生に認知したファウルの数を調査したところ、それぞれ自分のチームに都合の良い方向に歪められた認知結果が得られた。

Anchoring bias
人はそれ自体意味を持たない”Anchor"に影響される。例えば、TUCKの学生に学籍番号の下四桁を聞き、まず「フン族がヨーロッパに攻め入ったのは君の学籍番号下四桁よりも西暦で前か後か?」と質問。その後に、「では何年だったと思うか?」と質問する。結果は、学籍番号下四桁の値と二問目の推測値の西暦との間には明確な相関関係が認められた。これは、一問目のまったく無意味なはずの質問が二問目の意思決定をする上での"anchor"として機能してしまったため。

人は誰も不完全な存在ゆえに完全にbiasを排除することなどはできない。しかし、意思決定をする際においては可能な限りbiasを排除するにしくはない。しかし、この手のバイアスというのは世の中で、特に人事評価などの際には働きまくっているのだろうなあ。

夜は、日本人一年生宅にお邪魔して久しぶりに麻雀をする。なぜハノーバーに麻雀牌があるのかは謎だが、久しぶりのパイの感触はなかなか楽しかった。


4月19日(土)          Student-Faculty Dinner

学生が普段お世話になっている教授陣(Faculty)を招待してディナーをご馳走する"Student-Faculty Dinner"と呼ばれるイベントがTUCKには存在する。学生がコーディネーターに招待したい教授を申し出て、First come, first serve baseで組み合わせが決まっていくのだが、我々は今晩T氏宅にてT氏・T内氏とともにマーケティングのバカミトス教授をディナーにご招待することになった。実は僕はこのバカミトス教授(面白い名前ですが、ギリシャ人です)のクラスは何も取っていないのだが、妻が今学期彼のMarketing Tacticsを聴講しており、T氏・T内氏も同じ授業を履修しているのだ。当日は慣れぬ男連中も料理をするので、何を作るか色々と悩んだのだが、結局最終的にウェストレバノンのスーパーから寿司を取り寄せ、妻はつくねを、僕は麻婆豆腐を(レトルトとちゃいまっせ)、そしてT氏・T内氏はお好み焼きを焼いて教授をもてなすことになった。

会場となったT氏宅に教授は定刻の午後7時半に到着。早速用意した料理を振る舞い、お好み焼き班はホットプレートにてお好み焼きをその場で焼き始めた。その後三時間ほどビールやギリシャの酒ウーゾなどを飲みながら話していたが、このバカミトス教授がなかなか面白い人でかなり笑わせてもらった。授業の時間割はどうやって決めるのか、ケロッグとTUCKはどう違うのか(彼はケロッグのPhD出身)、ギリシャでは何をつまみに酒を飲むのか、TUCKの教授連の得意なスポーツは何か、など興味深い話を聞けた。また、T内氏などは、「次の授業で絶対君をコールドコールしてあげるよ」と素晴らしいお返しまでもらっており、羨ましい限り。

このイベント、いかにも教授と学生の結びつきの強いTUCKを象徴するような、素敵なイベントである。


4月20日(日)         真夏のような一日

正午からセイチャム11・12で同級生マルティンと一年生フランシスコの合同誕生日BBQパーティーが行われたので、家族で参加する。今日はまるで真夏のように日差が強く、Tシャツ一枚でも汗ばむほど。快晴の天気の下、会場前の芝生に広げられたテーブルには100人近い人々が集まっていた(本当に100人ほどいたのだ。一学年200人ちょっとしかいない学校なのに)。

彼らのバースデーパーティーのスタイルは、主賓が自ら客を招待し、自らバーベキューグリルで肉をひたすら焼いてサーブしつづける、というもの。しかも肉は彼らの母国アルゼンチンスタイルで塩がほどよくきいており、いつもながら非常に美味。その肉を食べながら、我々はただ青空の下でビールを飲んでおしゃべりをしているわけである。幸せ哉。

やがて僕が持参したbocceセットを使って皆で芝生の上でbocceをプレー。ビール片手にプレーしながらも、皆の口からは「なんていい天気なんだ」「あー幸せだ。もう勉強なんかできない」などという言葉がつい漏れる。これほどBBQパーティーに合うゲームもないだろう。

結局他の参加者がほとんど帰ってしまった午後四時過ぎまでパーティーで素晴らしい天気を満喫した後、ようやく重い腰を上げて図書館へと向かったのだった。二の腕は日焼けですっかり熱を持っていた。

【マルティン誕生日パーティーの光景】


4月21日(月)          失望させられた授業

例によって非常に忙しい月曜日。今日で早くも春学期の前半が終了し、従って半期のミニ・コースで履修していた"Analysis and Operations for Inventory Systems(在庫管理論)"というクラスも終了した。

しかし、このクラスには本当に失望させられた。オランダのRSM(ロッテルダム・スクール・オブ・マネジメント)から客員教授で来ている教授が教えていたのだが、とにかく議論の取り回し方も、ハンドアウトも、アサインメントの設定もまるでなっていない。TUCKに来てからこれまでで最もひどい授業だった一年目のコアのストラテジーの女性教授二名組をはるかに上回るひどさだった。

最後に提出したクラス評価には、「インストラクションが不適切、ハンドアウトはオーガナイズされておらず、ワークロードが意味もなく重く、テイクアウェイのないクラスだった。正直言って非常に失望した」と、思うままの評価を書いて提出した。ここまで悪い評価を書いたのは初めてのこと。それでも僕は、6段階で評価する評価項目には、本当は付けたかった”1”ではなく、すべて”2”をつけたのだが、同級生の何人かは「俺は全部1をつけたよ。まったくひどいクラスだった」と憤っていた。

とても真摯に教えている印象を受ける教授ではあったのだが、こちらも睡眠時間を削りアサインメントをやり、それなりのお金を費やして、卒業後に使えるスキルを真剣に求めているのだから、それなりのクオリティの授業はしてくれないと困るよ、ホント。評価の固まっていない教授の授業を取ることのリスクを思い知らされた一件であったが、この教訓を活かす機会がもはやないのが残念。


4月22日(火)         ゲーム理論

今日から春学期後半がスタート。後半ミニコースの"Managerial Application of Game Theory(ゲーム理論応用編)"を聴講することにしているのだが、今日はその一回目。コアコースでやったゲーム理論をさまざまなケースを使って応用していくこのコースは非常に楽しみだが、初日の授業も期待に違わず質の高いもので非常に満足だった。現在履修している意思決定論とこのゲーム理論応用編との組み合わせは、ビジネススクールの最後を締めくくるクラスとしては、何だかとても相応しい気がする。

しかし、Game TheoryにしてもNash Equilibriumという概念にしても、考えてみれば本当に当たり前のことしか言っていないよなあ、と思う。その当たり前のことを、当たり前に頭の中に入れておけるようにはなりたいものだ。1+1が2であることを証明するのは非常に難しいように、当たり前のことでもそれを証明することは極めて難しい。僕のような凡人には死んでもできぬことである。しかし、世界にはそれを証明してくれた人が居、理論にまで昇華させてくれた人が居、そして目の前にはそれを分かりやすく教えてくれる人までがいる。何とありがたいことではないか。あとは自分が当たり前のように使えるようになるだけである。

午後6時過ぎからのBusiness Lawのクラスでは今日は3名のゲストスピーカーが来ていたのだが、これが非常に大物揃いで面白かった。デラウェア州最高裁長官(デラウェア州はフォーチュン500社の60%が本社を置く州であり、従ってデラウェア州の最高裁はアメリカ司法界で非常に重要な存在)が「コーポレート・ガバナンス」について、GMの上級役員が「エグゼクティブの報酬制度」について、ホワイトウォーター疑惑の元特別調査官が「刑法と企業」について、それぞれ講演したのだ。これだけ豪華なスピーカー陣が揃ったため、NH州の地裁判事や弁護士など法律関係の人々が多く見学に来ていた。また、今日の司会を務めた人物は、元ダートマス大学総長(大学卒業時にNFLにドラフトされたのを蹴ってTUCKに入学したとか)であり、この授業を教えている教授自身がニューハンプシャー州最高裁判事にして、クリントンの大統領選挙時の選挙対策局長という人物、とこちらもなかなか豪華。ちなみにこの教授が実の息子に殴打されるという事件が昨年あり、普段殺人や傷害事件など凶悪犯罪のまったくないこのアッパーバレーの地元紙やローカルテレビに連日「最高裁判事殴打事件」として取り上げられていた。当時のテレビニュースでは「顔が判別できないほどだった」「いまだ意識不明の重態」などという言葉が毎日流れていたのを覚えているが、そこから復職を果たされたのは見事である。

色んな意味で豪華なキャストの並んだセッションを午後9時過ぎに終えた後は、T氏とメインストリートでビールを飲んでから帰宅する。二日間の、短くも凝縮された授業を終えて疲労困憊。

ところで明日4月23日の米国東部時間3:30PMより、Business WeekのサイトでTUCKのアドミッションディレクターのKristine Lacaと2名の二年生がオンライン・チャットをすることになっています。趣旨は「出願者からの質問」「これから出願を考える人の質問」に何でもお答えする、というものですので、日本時間では早朝になってしまいますが、興味のある方がいらっしゃればチャットで直接質問を投げてみてはいかがでしょうか。


4月23日(水)        Student-Faculty Dinner その2

今日も先日に引き続き、Student-Faculty Dinner。今日はソニア・アン・フェイヤン・アセリアの留学生女性四人組がシェアしている家にマッシー教授・オーウェンス教授夫妻・ジョンソン教授を招待するというディナーに一緒に参加した。妻は鶏の炊き込み御飯を、僕は再び麻婆豆腐を調理して持参する。麻婆豆腐は前回の倍量を作ったのだが、できたての熱々の状態で持っていったこともあり、自分としては非常に満足できる味。チャイニーズディッシュを中国系の留学生に食べさせるのはなかなかチャレンジングな行為ではあったが、結構皆にも好評で、あっという間に売り切れた。特にオーウェンス教授のお気に召したらしく、「これはうまい。本当にうまい。パーフェクトなディッシュだよ。本当だよ」と何度も言いにこられる。三回もおかわりをしたらしい。自分が作った料理がどんどんおかわりされていくのは見ていてとても気持ちが良く、何だか調子にのって今後のポットラックで毎回料理をしてしまいそうだ。

参加者に色んな国からの留学生が多かったこともあって、和食あり、骨付きカルビあり、中華あり、キルギスタン料理あり、インド料理あり、ブラジル料理あり、と非常にバラエティに富んだ料理を堪能することができた。

しかし、今日の会場となった家はとてつもない豪邸である。オーブンが二つもある広々としたキッチンに、大きめのベッドルームが四つ、リビングルームが二つ。20人ほどリビングに集まって飲んでも、まったく窮屈さを感じない。広いリビングの片隅で色んなお姉さん達に遊んでもらい、娘もご機嫌で会場を後にしたのだった。


4月24日(木)         あいにくの雪模様の下

午前中は雪のちらつくあいにくの天気。最高気温も摂氏5度前後と、わずか数日間で気温が25度も下がってしまった。日本の三寒四温とは比べ物にならないほどのこの極端さ。ハノーバーで生活をしていると友人知人と「天気」について語る頻度が本当に高くなるのだが、冬の冷え込みの厳しさといい、三寒四温の激しさといい、これだけメリハリのある気候の中に暮らしていると誰でもそうなってしまうのだろう、と思う。

T内氏から「夕方ソフトボールの練習をしよう」という誘いのメールが入っていたのだが、結局この寒さの中を参加したのは、T内氏、T氏、一年生M内氏、そして僕、の4人だけ。手の平がかじかむほどの寒さの中、セイチャムの芝の上でフリーバッティングなどを繰り返す。我々はラグビーフィールドを使って練習していたのだが、ラグビーフィールドの向こうにはさらにいくつもサッカーフィールドが連なっており、仮にヤンキースの松井が打ったとしても、ボールが道路に飛び出したり民家を直撃したりする心配はまったくないほどに広い。子供の頃にこんな広大な芝のグラウンドの上で遊びたかったなあ、と思う。

ソフトボールの後、さらに4人でミニサッカーなどをプレーして、皆濡れた芝で泥んこになる。某氏の奥様から呼び出しの電話がかかってきたこともあって解散したのは既に午後7時半になっていた。泥だらけになって帰宅した僕を見た妻が一言、「まったく、小学生そのものだよね」。ごもっともです。


4月25日(金)        日韓共催イベントに思う

昨年もちょうど今ごろ、”フジヤマナイト”と銘うって我々日本人学生による日本紹介イベントを行ったのだったが、今年は日本人学生と韓国人学生が共催で”コリア・ジャパン・ナイト”を行うことになった。日本人学生は着物・浴衣などを着用して寿司・日本酒などをサーブ、韓国人学生はチマチョゴリやハンボックと呼ばれる民族衣装を着用して焼肉や韓国焼酎などをサーブする。

僕は「自分で寿司を作ってみようコーナー」を担当し、次々とやってくる学生達に巻き寿司の作り方をコーチすることに。午後7時に始まった当コーナーは、結局一時間強の間、順番待ちの列が途切れることがない盛況だった。皆勝手が分からないらしく、巻きすをご飯の内側に巻き込んでしまったり、「ちょっと握って」と言ったら強烈に巻き寿司を握り締めてつぶしてしまったりと、なかなか大変であったが、それでも最後にはそれぞれ巻き寿司らしいものが出来上がり、皆満足げに自分で作った寿司を口にしていた。今週月曜日の日乗にて酷評した教授の奥さんも巻き寿司を作っていったのだが、悪戦苦闘しながら巻き寿司を作る奥様の側でニコニコしながら見守っている教授を見ていると、何とはなしにエバリュエーション・シートで酷評したという事実がちくちくと胸に痛かったりしたのである。

パーティー後、一般の学生達が帰っていった後は、日本人学生と韓国人学生で残った日本酒・焼酎を飲みながら軽く打ち上げをする。「カンパイ」「コンベイ」と象徴的に類似した両国の言葉で乾杯を繰り返す。イベントが触媒となって、あらためて日本と韓国の類似点などを感じた一日。アメリカという第三国で、多くの国の出身者に混じりながら二年間を過ごし、それぞれの国を相対化して見た結果、浮き彫りになってくるのはやはり覆い隠しようのない類似点だった。近しいがゆえの相克、近親憎悪にも似た感情、複雑な歴史背景、、、両国間には一筋縄でいかぬ関係が存在する。日本人の中には根強い嫌韓感情が存在し、韓国には根強い反日感情が存在する。しかし、、、それらの問題の根っこの部分には、自らを相対化する視点の欠落がある気がしてならない。

留学によって得られたもの、その中でも最も重要なものは実は「視野の広がり」や「相対化」という言葉に象徴される極めて曖昧なものだったと僕は思っている。僕の中での韓国観の変化、アメリカ観の変化、さらには日本観の変化などは、いずれもその「相対化」の結果起こったものだ。「留学して得たものは?」の答えとしては少しく奇異なものでもあり、かつ言葉で説明してもなかなか理解してもらえないものだということは自分でもよく理解しているつもりだが、それはしかし事実である。


4月26日(土)        意思決定論と戦艦ミズーリ

3日前くらいから娘の体調がすぐれず、今日も熱が39度を超えている。大人であればフラフラするような高熱であっても、子供にはなぜか平気なようで、娘も39度以上の熱があるのに外に出て遊びたがったりすることがある。しかし、こうも連日熱が下がらないとさすがに体力を消耗するのだろう、今日は一日じゅうソファに横になってぐずっていた。明日はダートマス・ヒッチコック・メディカルセンターに連れていくことになった。

娘の体調が悪いこともあって珍しく外出もせずに過ごした一日。窓の向こうの雨模様のプレイグラウンドを見ながら、ずっと机に向かっていた一日だった。

このところ登場回数の多い意思決定論のクラスであるが、また今日もその話題である。戦前戦後をまたいで活躍した日本の外交官である加瀬俊一氏のメモが先週のクラスでオプショナル・リーディングに指定されていたのだ。(ちなみに彼のメモは天皇陛下に対して"anchoring bias"や"adjustment bias"とは何かについて説明し、ある意思決定における間違いを指摘するというもの。色んな意味で驚かされる文章だった。)加瀬氏は太平洋戦争終結時の戦艦ミズーリ上の降伏文書の調印式の際にも随員として参加したのだが、リーディング・アサインメントはその時の逸話に関する以下の文章で締めくくられていた。少し長いが全文引用させていただく。

Kase wrote that while on the American battleship he had noticed many miniature Rising Suns, "our flag," painted on a steal bulkhead, indicating the number of Japanese ships, submarines, and planes sunk by Missouri. He had tried to count them, but "lump rose in my throat and tears quickly gathered in my eyes, flooding them. I could hardly bear the sight. Heroes of unwritten stories, these were young boys who defied death gaily and gallantly......They were like cherry blossoms, emblems of our national character, swiftly blooming into riotous beauty and falling just as quickly."
According to members of the imperial household, the emperor lingered over this passage a long time; then he signed deeply, and murmured, "Ah so, ah so desuka."

(小生訳)
加瀬は米艦の壁にいくつもの小さな旭日旗、”我が国の旗”が描かれているのを見た。ひとつひとつの旭日旗は、ミズーリによって沈められた、撃墜されたすべての艦船、潜水艦、あるいは航空機を示しているものだった。彼はその旗の数を数えようとした。しかし、「胸に熱いものがこみあげ、目に涙が溢れ、やがてこぼれ落ちた。視界がぼやけて何も見えなかった。いくつもの物語の名も知らぬ主人公達、彼らは皆死に向かって勇敢に、そして華々しく立ち向かっていった年端もいかぬ少年達だった。彼らは我が国の象徴、桜の花びらだったのだ。あっという間にあふれんばかりの美しさで咲き、そしてあっという間に散っていった桜の花びらだったのだ。」
天皇家の侍従によると、昭和天皇はこの文章をいつまでもいつまでも読み返していたという。やがて深くためいきをつくと、昭和天皇は静かにつぶやいた「ああそう。ああ、そうですか」。

意思決定論のオプショナル・リーディングとして、この文章を読んだ他の国の同級生にとっては、これは何ということのないただの文章だっただろう。しかし、日本人である僕にとって、この文章は特別な文章だった。胸が詰まって、熱いものがこみ上げ、なかなかこの文章から離れられなかった。今この瞬間に僕がアメリカに存在している、という当たり前の事実がとても不思議なものに思えた。沈められた旭日旗に象徴された若者達の次々世代の日本人である僕は、旭日旗を描いたミズーリの国の大学院で今勉強をしているのだ。僕の周囲の座席には多くのアメリカ人の若者が座っている。黒板の前ではアメリカ人の教授が教鞭をふるっている。。。

彼ら若者達が命を捧げて次の世代に渡した日本という国を、今我々の世代が支えている。閉塞する社会、失われた自信、享楽的な生き方、崩壊する道徳、溶解する国家アイデンティティ、流出する資産・人、、、、危ういバランスの上で支えられたこの国を、しかし僕達は娘達の世代にやがて間違いなく渡さねばならない。責任を持って。この小さな、熱にぐずる三歳の女の子の世代がこの国を支える時代が必ずやってくる。その時まで、我々は責任をもってこの国を支えていなければならない。


4月27日(日)        今年もソフトボール

木曜日から雪→快晴→雨と一日おきに天気が目まぐるしく変わってきたが、今日は順番どおり快晴。

午前中僕が寝ている間に妻が娘をヒッチコックメディカルセンターに連れて行っていた。診断はウィルス性の風邪であったらしく抗生物質を処方してもらってきていた。しかし熱もなかなか下がらず、洟水も止まらず、辛そうにずっとぐずっている。

明け方に仕上げたミッドターム試験ふたつを学校に行って提出した後、午後からソフトボールの大会に参加する。アングラらしき若者チームとの試合だったが、大接戦の末最終回にT内氏の打った打球を相手ショートが後逸してTUCKチームのサヨナラ勝ちとなった。昨年同様、味方のピッチャーが打ち頃の球を投げてくれる”アメリカ方式”での試合。結果、個人的には2打数2安打2打点だったのだが、このスタイルだとどうも打ってもイマイチ爽快感がない。味方が「ほい」と打ち頃の球を投げるのだから打って当たり前、打ち損じでもすればすごくフラストレーションがたまるのである。アップサイドがあまりないのだ。一方守備はというと、多くの選手がイニングごとに入れ替わり立ち代わり守るスタイルなので、これも極端に守備機会が少ない。そんなわけで、試合後も消化不良ぎみの学生達何人かで、原っぱに出かけてフリーバッティングを楽しんだ。

帰宅すると娘が相変わらずぐずっている。母子を家に残して快晴の原っぱで自分だけソフトボールを楽しんできたパパは罪悪感を感じてしまった。


4月28日(月)         教授陣による連携

二日つづけて快晴。

聴講しているゲーム理論のクラスでは、ナッシュ均衡を証明したノーベル賞学者ジョン・ナッシュのインタビュービデオを観る。”Beautiful Mind”というジョン・ナッシュを主人公とした映画の取材用の映像で、economicsのバックグランドはまったくないと思われる映画監督に対して情熱的にナッシュ均衡を説明するジョン・ナッシュじいさんと、戸惑った受け答えをする監督の対比が面白かった。この”Beautiful Mind”という映画は、秋学期のSales Promotionでナッシュ均衡を扱った時の”ウォッチング・アサインメント”に指定されていたものでもある。

ゲーム理論の後の意思決定論のクラスでアサインされていたリーディングは、”Mental Accounting”に関するマーケティング・サイエンス誌の論文だったのだが、こちらも秋学期のSales Promotionでより効果的なプロモーションをするための顧客心理分析の参考資料として読んでいたもの。

入学直後から感じていたことで今学期に入って特に強く感じることがある。独立しているはずの各科目が実はそれぞれ有機的に結合しあっている、ということだ。一見関連性は薄そうに見える科目達も、完全にバラバラに存在しているわけではない。特にコア科目で見られることだが、ある科目で新しい概念を学んだ翌週に、他の科目でその概念を使った応用的ケースを議論する、といったこともある。もちろん偶然そうなっているわけではなく、教授達はそれぞれ密接に連携を取り合っているのだ。ひとつの事象を多面的に見せてくれるその有機的結合は、我々の学習効果を二倍にも三倍にもしてくれるものであり、Well organizedされた複数のクラスで学ぶことは、そしてその有機的結結合に気付く瞬間は、時に感動的ですらある。こうした科目をまたいだ密接な連携は、TUCKの規模の小ささ及び教授陣の数の少なさが可能にするものだろう。

TUCKの教授陣による科目をまたいだ密接な連携を象徴するエピソードがある。土曜日の朝早くに校舎の中を歩いていると、小教室に教授陣が集まって議論しているのを見かけたのだ。窓から覗いてみると、黒板の前に立って講義しているのはPhDをとりたてのファンナンスの若い助教授。座席に座っているのは、アカウンティング、マーケティング、ストラテジー、オペレーション、OBの教授陣。かなりの大物教授も混ざっている。それぞれの手元にはケースが置いてあり、どうやら皆でファイナンスのケースディスカッションをしているようだった。僕はドアの小窓にへばりついてしばらく中を見ていた。アカウンティングの老教授が挙手して若き助教授に質問を投げる。助教授は自分の見解を述べる。それに対してマーケティングの教授が自分の意見を言う。さらにストラテジーの教授が反論する。。。我々がやるのとまったく同じようにケースディスカッションは進んでいた。当然この「勉強会」を行うためには、参加教授達はセオリーとケースの予習をしてきているはずだ。しばらく見ているとアカウンティングの老教授と目があった。僕を見つけた彼は、「見たな」というような顔でニヤリと笑った。

それ以来、TUCKの教授達が専門外であるはずの分野について非常に詳しく語るのを見たり、科目間をまたいだ有機的な連携を見たりするたびに、この時の光景を思い出すのだ。


4月29日(火)         インデックス・ファンドとウォーレン・バフェット

本日の"Financial Institution"のテーマは「アクティブ運用とパッシブ運用」について。例によって、アクティブ運用ファンドはインデックスファンドには長期的には勝てない、という話だ。この二年間、"Capital Markets"、"Corporate Finance"、"Financial Reporting and Statement Analysis"などの授業でも、何度も何度も繰り返されてきたテーマである。どんなに優秀なファンドマネージャーであっても、”長期的に”市場に勝ちつづけることはできない。これだけ繰り返し叩き込まれれば、卒業してからもアクティブ運用ファンドに投資しようなどとはよもや思うまい。しかし、留学前はファイナンスの”F”の字も知らなかった僕などは、もしもB-Schoolでファイナンスの勉強をしていなければ、今後の人生でアクティブ運用ファンドに、あるいは個別の株式に投資していたかもしれないわけで、そう考えるとこの学習自体が実は大きなリターンだったとも言える。

このテーマが出るたびに、僕はウォーレン・バフェットのことを思い起こしてしまう。彼は、実際に長期に渡って市場に勝ちつづけている特別な存在だ。彼の発言を読むだけで、彼がどれほど「特別」な存在であるかがよく分かる。

「私にとって株式市場などは存在しない。株式市場などは、私にとって誰かがまたバカげたことをしているのを確認するためだけに存在している」

「Efficient Markets Hypothesis (EMH)なんて馬鹿げている。ビジネススクールが何万人もの学生にそれを教えこんでくれることは本当にありがたい。人々がefficientだと信じているMarketに投資することは、カードを見ない人々とブリッジをプレーするようなものだ」

「毎年10万人ものMBAが生産されている。そして私の仕事はますますやりやすくなる」

「私にとってCAPMなどまったくナンセンスだ。私はいかなるリスクをも回避している。したがってDiscount Rateはrisk free rate(30年もの国債)で充分なのだ。私は知っていることしかやらない。リスクとは、自分が何をしているのか知らないために存在するものだ。」

。。。ごもっとも。しかし彼の投資手法はとても真似できるものではありません。

ところで、今日から三日間ヤンキースタジアムでヤンキース対マリナーズ三連戦が行われている。日本でも話題になっているはずの松井対イチローの直接対決だ。日本であれば、おそらくNHK衛星か地上波で全戦生中継で見ることができるのだろうが、ハノーバーでは深夜のスポーツニュースで見ることしかできない。アメリカ東海岸に居る方が日本に居るよりも実は松井のニュースに接する機会は圧倒的に少ないという、このパラドックス。そういえばこの手のパラドクスは昨年のソルトレーク五輪の時にも存在したなあ。それでも、スポーツ専門局ESPNのニュースでは「初の日本人対決」としてこの試合の映像を何度も何度も流していた。イチローのセーフティバント、ファウルフライ好捕、などのシーンが何度も繰り返し流れる。

実は我々一家も、あさっての三戦目のチケットを取得している。同級生Sさんの誘いで多くのTUCK日本人が昨年末の時点でチケットを購入していたのだ。天気予報も良好、心配していた娘の体調も快方に向かい、何とか明日予定どおり出発できそうだ。


4月30日(水)     卒業写真

快晴の空の下、昼からTuck Hall前に集まってClass of 2003全員での卒業写真を撮る。1900年創立のTUCKでは100年強の間の代々の卒業生の集合写真をTuck Hallの廊下に飾ってあり、我々のこの写真もClass of 2002の額の隣に飾られる予定。久しぶりのスーツ姿は自分自身何とも窮屈に思えたが、同級生全員がスーツを着ている姿というのは初めて見たわけで、普段かなりカジュアルな格好をしている我々だけにかえって何だか壮観であった。200人強の顔をすべてカメラに収めるという作業に四苦八苦しつつ、真夏のような暑さの中20分ほどかかって写真撮影終了。

写真撮影後は嬉しいサプライズ企画が用意されていたのだが、これはサプライズなので詳しくは書きますまい。その後ビール片手に中庭で皆で記念写真などを撮り合っていると、もう卒業してしまったような気がするのだ。

【卒業写真(妻撮影)】

ダイニングで妻・娘及び何人かの学生達と一緒に遅いランチをとった後、午後三時頃に車でハノーバーを出発。四時間ほどインターステートを南下してマンハッタンに入った。車でニューヨークへ行くのはこれが初めてのことである。


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