MBA留学日乗 200305     | ホームへ   |      | 前月へ   |  | 翌月へ   |  


5月1日(木)         ヤンキースタジアム

朝起きてまず昨晩滞在した42丁目のホテルから44丁目のホテルに居を移したあと、家族三人でおのぼりさんよろしくニューヨーク観光に出かける。まず向かったのはセントラルパーク。公園内にあるメトロポリタン美術館を見学に行く予定だったのだが、娘がなぜか「いや!歩かない」と往来のど真ん中で何度もしゃがみこんでしまい、わずかな距離を進むのも非常に時間がかかる。教育的な見地からは「歩かないと言えば抱っこしてもらえる」、と娘に思わせるのはよくないのだが、大人的エゴの観点で言えば、娘を諭すよりもさっさと娘を抱いて移動する方がよほど早いため、最終的にはそういう選択をとることに。しかし、悪いことに僕の腰痛がここのところ悪化しており、娘を抱き上げた瞬間に「ギクッ」という衝撃が走る。結局、半分以上妻が娘を抱いてニューヨークの街を移動することになった。

大人二人であれば30分ほどで行くルートを三時間ほどもかけてメトロポリタン美術館へ到着。その間娘が歩いたのは累計100メートルほどか。このまま美術館じゅうを娘を抱っこして歩くのはあまりに辛いため、係員にレンタル用車椅子を貸してくれるよう依頼。係員の脇にはレンタル用の車椅子が10台ほども置いてあり、払底する心配がないためか本来の貸し出し趣旨とは違う申し出にも快く貸してくれた。娘を車椅子の上に乗せて移動するうちに娘は予想どおり椅子の上で就寝。その後は二人でゆっくり絵を楽しむことができた。

事前にメトロポリタン美術館所蔵の美術品のチェックをして行かなかったため、「この絵はここにあったのか」という驚きの連続。ゴッホの「自画像」「糸杉」、ゴーギャンの「イア・オラナ・マリア」、あるいは「尾形光琳の「八つ橋図」。しかし、広大な館内はとても二時間ほどで回りきれるものではなく、かなりの絵を見逃しているものと思われる。一ヶ月ほどゆっくりニューヨークに滞在してみたいところ。

夕方からは、地下鉄に乗ってこの小旅行の第一の目的であるヤンキースタジアムへ向かった。セントラルパーク中心部から約15分ほどでブロンクスのヤンキースタジアムに到着。電車の窓からスタジアムが見えた時はさすがに全身に鳥肌が。これがヤンキースタジアムか。。。。日本の野球の聖地が甲子園なら、アメリカのそれはやはりここヤンキ−スタジアムしかあるまい。スタジアム前に並ぶギフトショップにも歴史が感じられるし、そそりたつスタジアムの白亜の外壁にも、何とはなしに色んなものどもが宿っているようにさえ思える。

ヤンキースタジアムのチケットは$8〜$65まであるのだが、そのうち我々が買ったチケットは$8の最も安い席。スタジアムの中で唯一座席が独立していないベンチシート式の右翼外野席、通称”ブリーチャー席”である。事前に読んだ説明には、「ハードコアなファンが集まり」「興奮して殴り合いになることも多く」「従ってNY市警の警官が多く配備される」席だというので、内心身構えていったのだが、実際はそれほど柄の悪い雰囲気もしなかった。甲子園のライトスタンドや昔の広島市民球場の方が余程柄が悪い。

<1回>
試合開始前の米国国歌演奏はスタジアム脇で荷物を預けながら聞く。フェンウェイスタジアムもそうだったが、警備上の理由でバッグの持ち込みは禁止されているのである。荷物一個預けて$10。バッグは球場には持っていかないようにしましょう。ヤンキースの先発はムシーナ。試合はイチローの三振でスタートする。その直後に我々は球場入りしたが、周囲ではコアなファンが「ムー!ムー!」と熱狂中。日本人の観客の多さにびっくり。いったい何人いるのだろうか。1−2割は日本人のようだ。しかしこれはブリ−チャーだからで、他の席では7−8割が日本人のエリアもあったらしい。

<2回>
二回裏、無視一塁で松井登場。周囲の観客俄然盛り上がるも、あっさりセカンドゴロでゲッツー。ため息。

<5回>
5回表にマリナーズ先制。その裏、ヤンキースのソリアーノのソロ本塁打ですぐ同点。ブリーチャー席大騒ぎで「ソリー!ソリー!」と絶叫。5回終了時にグラウンド整備をするのだが、その際に流れる「YMCA」の歌にあわせてグラウンドキーパーが踊る。それに合わせてファンも踊る、というにがヤンキースタジアムのお約束。この時に果敢にもブリーチャーに紛れ込んでいたマリナーズファン(マリナーズ帽子、Tシャツ着用)に向かってヤンキースファンが大声で替え歌をシャウト。「YMCA」というのは、モーホー系の歌なのだが、それ系の露骨な替え歌。「俺はお前のXXXをXXXしてやるぜ。こんなにXXXなお前にYMCAで会えて嬉しい。俺のXXXも。。。(以下略)」。隣のバカっぽい日本人女性、「ねえねえ、何?何て歌ってんだろ?」と連れに質問攻め。ちなみにこのバカっぽいカップルは、試合中ずっとヤンキ−スの内外野の守備位置を批評していた。「少しセンターの守備位置が右すぎるね」「そうだよね。もう少し左に寄らなきゃ」。。。お前らが言うな。このド素人が。

<7回>
7回表と裏の間の"Seventh Inning Stretch"では、皆が立ち上がって「私を野球場に連れてって(Take me out to the ball game)」を大声で歌うのが、メジャーのボールパークのお約束。これが、2001年の911以降、”God Bless America"に置き換わってしまった。その後、時間の経過と共に元に戻りつつはあるものの、まだ完全には戻っていない。ちなみに時系列で見ると、(段階1)「シリアスなナレーションにつづき、フルコーラスでGod Bless America斉唱」→(段階2)「通常の(軽くさえ聞こえる)ナレーションにつづき、フルコーラスでGod Bless America」→(段階3)「通常のナレーションにつづき、フルコーラスでGod Bless America、引き続きTake me out to the ball game」→(段階4)「通常のナレーションにつづき、短縮版God Bless America、引き続きTake me out to the ball game」と推移しているようである(特にソースなし。すべて感覚的)。昨年フェンウェイに行った時には(段階3)だったが、今日は(段階4)でGod Bless Americaが端折って歌われた。しかし、周囲のアメリカ人はこの歌に明らかに辟易している様子。歌が始まった途端、"This is suck!""I hate it!"などと散々な言いようである。サビの手前が端折われたた瞬間は、後ろの兄ちゃんが嬉しそうに笑っていた。そして、"Take me out to the ball game"が流れた瞬間に、皆God Bless Americaの何倍もの音量で歌う。当然我々もこれだけ歌う。やがて、(段階5)「Take me out to the ball gameのみ」に戻る日も近いか。

7回裏、"Hit! Hit! Jorge!"の大歓声に乗ったホルヘ・ポサダのソロ本塁打でヤンキース2−1と勝ち越し。

<8回>
イニングの合間に、オーロラビジョンでブッシュ大統領の「戦争終結宣言」が流された。見ているだけで虫唾に走るあの猿そっくりな品のない顔。周囲がどのような反応をするかと興味深く見ていると、意外にも人気があるらしく「ジョージ!」「カモン、ジョージ!」と好意的らしい声がかかる。やがて、スピーチが流れ始めると、あちこちで、"It's over!"という声があがり、その後しばらくスタンディングオベーションがつづいた。

8回裏に松井に絶好の見せ場到来。一死二・三塁からジェイソン・ジアンビが三振。二死二・三塁になってまたもバーニー・ウィリアムスが歩かされて満塁で松井に打順が回ってきた。ヤンキースタジアムの盛り上がりは頂点に。ブリーチャーのみならずネット裏を含めスタジアム全体が立ち上がって拍手と歓声。「マ・ツ・イ!マ・ツ・イ!」の大歓声が球場全体を包む。鳥肌が立つような瞬間。しかし松井は魅入られたように初球の甘いストレートを見逃し、次の厳しいストレートをファウルし、最後の外角低めの地面すれすれの落ちる変化球を空振りしてあっさり三振。球場全体を強烈な「がっかり感」が覆う。それを見届けた瞬間に大挙して帰る日本人の一団にブリ−チャ−のファンから強烈なブーイング。「何だよ!何で最後まで見ないんだよ。あと一回じゃねえか。そんな大事な用事があるのか日本人には?オーケー分かった。XXXをXXXXしに行くのか!(またこれ)」

<9回>
最後、「マ・リ・ア・ノ!」の声援に乗ってヤンキ−スのクローザーのマリアノ・リベラが登場。ごっつ速いストレートであっさりマリナーズの攻撃を切ってとり、2−1でヤンキ−スの勝利。ヤンキ−スが勝った時だけに流れるシナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク」の歌に乗って、皆気持ちよくブリ−チャ−席を後にする。

       

【白亜のヤンキ−スタジアム外観(左】    【ブリ−チャ−から見たグラウンド。警官の姿が見える(右)】

途中で寝てしまった娘を抱いて44丁目のホテルまで帰って来た時には既に疲労困憊。小さな子供連れの移動は通常の3倍は時間がかかり、5倍は疲れることを実感した一日だった。それでも、ヤンキースタジアムを見られただけで幸せを感じた一日である。


5月2日(金)         ブロードウェイ

昼からマンハッタン島を船で三時間かけて一周する「サークル・クルーズ」なるツアーに参加。スペイン語・ドイツ語・フランス語など、さまざまなお国言葉でしゃべるおのぼりさんの一団と一緒にガイドのおっさんの説明を聞く。自由の女神が近づいたといっては皆で記念写真を取り、エンパイア・ステート・ビルが見えるといってはまた皆写真を撮り、と何だか皆が心おきなく遠足気分に浸っている楽しい船上だった。

その後ブロードウェイのディスカウント・チケットセンターに立ち寄り、一応ミュージカルのチケットの状況を確認してみる。ブロードウェイのミュージカルはほとんど4歳以下の子供は入場不可。従って我々のようなファミリーには基本的に縁のない場所である。しかし、その数少ない例外(赤ん坊でも入場可)のミュージカルが「ライオン・キング」「オクラホマ」そして「美女と野獣」。それらのどれかがディスカウントで出ていないか、と思っていたところ、運良く「美女と野獣」が50%オフで出ている。これなら娘も楽しんでくれそうだし列に並んでチケットを購入した。「ビデオじゃなくて本物の"Beauty and the Beast"を見るよ」と娘に言ったが、「ほんもの?」と良く分からない様子。

レストランで腹ごしらえをした後、午後8時から劇場へ。2時間半ほどのミュージカルを堪能する。個人的にはブロードウェイはもちろんのこと日本語以外のミュージカルはこれが初めてだったのだが、本当に楽しく、感動できるものだった。俳優達はこのミュージカルの役を取るために素晴らしい努力をし、その後も色んなものを犠牲にして毎日厳しい稽古を積んでいるのだろうな、と思うと感動もひとしお。

幕間の休憩時間に飲み物を買おうとしていると、エンジニアリングスクールのI田さんにバッタリ。I田さん家も小さな娘さんがいるのである。「美女と野獣」は非常に満足できたミュージカルであったが、タイムズスクエアの看板を眺めながら歩いていると他の作品も色々と見てみたい、と思えてくる。小さな子供のいる家族にはどだい叶わぬ願いとは思いつつも、つい「ブロードウェイで上演されているすべてのミュージカルを日替わりで見たらさぞ楽しいだろうな」などと思ってしまう。子供を持つということ、子供を育てるということには、やはりそれなりの犠牲を伴うものではある。親達は自分達だけで暮らしているようなスピードで移動することもできないし、子供と一緒では行けない場所は都市には山ほどある。子供を持った瞬間に多くの親達はジャズバーを諦め、映画を諦め、ミュージカルを諦め、コンサートを諦める。さまざまなものがどんどん縁遠くなっていく。もちろん、それと引き換えに得るものはとても多いのだけれど。ハノーバーのような、どこにだって子供連れで行ける町に居てはなかなか感じないことであるが、そんなことを久しぶりに感じたブロードウェイでもあった。


5月3日(土)          "Otherwise, You'll go to JAIL!"

午前中5番街を少し散歩した後に、ニューヨークを後にする。せっかくだからセントラルパークの中を通り抜けていく道を通ってからマンハッタンを出ることにした。しかし、これが後で大問題につながることになるのであった。

セントラルパークを通り抜ける道に入ろうとしたところ、道の右半分に「STOP」のサインが出ている。これはこの道は進入禁止ということか?それにしては左半分が思わせぶりに空いているな、と思っていたところ、目の前のリムジンが当然のようにその空いた左半分から公園内に入っていく。「何だ大丈夫なんだ」と我々もそのリムジンにつづいて公園内に。公園内の道路は人々がジョギングなどをしていて甚だ運転しにくいが、かといって車が通れないというほどでもない。しかし他に車の姿が見えないことが気になってはいた。

やがて、目の前を走るリムジンは左折して道路脇の駐車場に入り、その道を走っているのは我々の車だけに。そしてそのまま真っ直ぐ走りつづけるうちに、目の前にプラカードを持った人々の一団が見えてきた。そして車止めとその前に停められたパトカー及び警官の姿が。。。。我々は侵入禁止の場所に入ってしまったということで、6月10日までにブロードウェイにある交通裁判所まで出頭するように、と言われる。以下我々の間に交わされた会話。

僕:「ニューハンプシャーから来ていてこれから帰るところなのだけど、本当に絶対に出頭しなければいけないわけ?郵送とかでは済ませられないの?」

ポリス:「ダメです。絶対に出頭してください。さもないとあなたはJailに入ることになります。」

僕:「我々は大学院の学生でもうすぐ卒業するんだ。卒業したらすぐ東京に帰る。出頭しなければいけない時期にはもう東京にいるんだよ(実はウソ)。どうしたらいい?」

ポリス:「うーん。そうかあ。。。でも、ダメです。絶対に出頭しないとJailに入ることになります。僕はあなたにJailに入ってほしくない(当たり前だ)。こんなことくらいで刑務所に入るなんて馬鹿げてるよ。」

僕:「いや、それはわかってるんだけど。東京なんだから無理なんだって。何とかならないのか」

ポリス:「ダメです。そこに上司がいるので、これを見逃すわけにはいかない。申し訳ないけど、何とかして出頭してほしい」

何とまあ融通のきかないことで。。。。結局、書簡で依頼してはみるものの、それでダメだった場合はもう一回ニューヨーク観光に来れる口実ができたと前向きに考えることにしよう、ということになった。しかし、罰金が痛い。

その後、ニュージャージー側にある日系食品スーパー「ミツワ」にて買い物をしてから、ちょうど四時間インターステートを走ってハノーバーに帰りついた。NY−ハノーバー間は約280マイル(約450キロ)。この距離はちょうど中央高速で世田谷から僕の出身地大阪府吹田インターまでの距離に相当する。しかし、そんな距離を走ったような気はまったくしないのだった。日本からアメリカに来た人が皆一様に言うことだが、こちらに来るとドライブの距離軸が日本の5分の1程度に縮まってしまう。渋滞がないこともあるだろうが、頭の中にある地図の縮尺が変わってしまうことが大きいのだろう。

帰宅後、そのままKさん宅で行われたフィールドスタディ・プロジェクトチームのリユニオン・カラオケパーティーに参加する。久しぶりにアン・フランク・サラ・Kさん・Nさんと6人で集まって飲んだ。さらにたまたまハノーバーに遊びに来ていたアンの友人及びお兄さんも参加。東京での写真を使ったスライドショーなどをKさんが準備してくれており、スライドショーを見ながら久しぶりに当時のことを思い出して盛り上がる。もうあのクレージーな日々から五ヶ月が経っているのだった。


5月4日(日)         この素晴らしい環境の中

昼過ぎより学内ソフトボール大会の試合に参加。あまりにも天気がいいので、妻と娘も試合に同行。ベンチ脇の緑の芝生の上に、電話で誘ったEちゃん母子と一緒に座って、俄かピクニック状態である(試合はまるで見ていない様子)。パパの方は今日は久しぶりにバッティングの調子がよく、5打数5安打5得点。ランニングホームラン一本に、あわや柵越えというツーベースを一本打つなど、大当たりだった。

試合に圧勝した後、数人の同級生と一緒にまた近くのソフトボール場に移動してバッティング練習などをする。このグラウンド、大学所有のドライビングレンジの脇にあるのだが、広い芝生のソフトボール場二面に、ラクロスなどで使われる多目的コート二面、さらに何に使われるのか分からないだだっ広い芝生グラウンドがあり、その向こうに野原と山の稜線が広がる、素晴らしい景観に包まれているグラウンドである。ここに来るたびに毎回、「何て良い環境の中に住んでいるんだろう」と思うのだが、卒業が近づき、日本に帰る日が近づくにつれてその思いは強くなる一方だ。今日も、「ああ、俺たちって本当にいい環境に住んでいるよなあ」と、車を降りた瞬間に誰言うともなく言い合ってしまったのだった。

我々がソフトボールをしている間、娘とEちゃんが100メートルほど離れた広い芝生のフィールドで転げあって遊んでいるのが見える。そこに犬を連れて女性がやって来、ひとしきり犬とたわむれる娘達。10分ほど遊んでいた娘は僕のところへ駆け寄ってきて嬉しそうに、「DOGにあそんでもらったんだよ!」と報告してくれた。

この素晴らしい環境の中で暮らせるのもあと少し。


5月5日(月)         チャーリー・ブラウン

TUCKには”Dog Policy”なるものが存在し、教授や学生が反対しない限り犬をクラスに連れて来ても良いことになっている。ローラ、キャシー、デビットなど何人かの学生が犬をクラスに連れてきているのだが、中でもローラの飼い犬である”チャーリー・ブラウン”は、クラスの出席率が高く、完全にT’03の一員として認識されている。いつも緑のTUCKグッズの引き綱をつけた彼は本当に人なつこく、穏やかで、かわいらしい犬だ。TUCKの教授や学生でチャーリーの顔と名前を知らない者はおそらくいないだろう。

クラスの中で床に寝そべって寝ているうちによく鼾をかいては笑いを誘ってくれた。ローラがプレゼンをする時に思わず教室の前に出て行って笑われたりもした。2001年10月9日の日乗で僕の後ろで寝言を言った犬、12月17日の日乗で僕の前の席で一緒にDecSciの試験を受けていた犬、はいずれもチャーリー・ブラウンである。

そのチャーリー・ブラウンが急死したというメールがローラから昨日入っていた。腎臓と肝臓のガンで、病院に連れて行った時には既に腎臓の機能が止まっていたのだという。つい最近元気な彼の姿を見たので信じられなかった。先日の卒業写真撮影のときも、チャーリーはTUCKサークルに座って我々の写真撮影を見ていたのだ。まったくいつもと同じようだった。「チャーリーも写真に入れようよ!」と何人かの学生から声がかかっていた。

Tuck Class of 2003の200名強の学生達と一緒に二年前にTUCKに入学し、二年間我々と同じようにTUCKで暮らしてきたチャーリーが、卒業を目前にして亡くなった。享年7歳。チャーリーの冥福を祈ります。

【生前のチャーリー・ブラウン】


5月6日(火)         DISORIENTATION

入学前にオリエンテーション・ウィークが行われるのと同様に、卒業前にはディス・オリエンテーション・ウィークなるものが行われる予定である。5月30日(金)〜6月5日(木)の一週間に渡って、さまざまなイベントが用意されているのだ。パブでのパーティー、オリエンテーションウィークでも行った山登り、ボランティア、スポーツ大会、ジャズフェスティバル、カヌー遊び、キャンプ、ボウリング大会、ゴルフ大会、クラブで大騒ぎ、、、等など。最後の一週間を皆で遊びまくってこの二年間を懐かしみましょう、という趣旨。

その案内が回ってきたので、親子で参加できるイベントを中心にサインナップしていった。バーリントンで行われるジャズフェスティバル、コネチカットリバーで行われるカヌー・カヤック・フェスト、そして入学時のセクションで行うボウリング大会。こうしてディス・オリエンテーションのスケジュールを見ていると、いよいよ卒業だ、という感が否応なしに強まる。

他校に通う友人達とメールでやり取りをしていても、皆引越し準備などで忙しい様子。TUCKの卒業式(6/8)はまだ遅い方で、それよりも遅いのはシカゴ(6/15)とケロッグ(6/21)くらいだろうか。5月中旬に卒業式を行うという学校が多いようである。ミシガンの友人は4月末に既に卒業してしまったらしい。皆それぞれ、卒業後は日本に帰ったり、こちらに残ったり、あるいは別に国に行ったり。それぞれの場所で、またそれぞれの新しい道が始まるのだ。


5月7日(水)           芝生の上

娘が何とか風邪が治ったと思ったら、今度は妻が娘の風邪をうつされたらしく月曜日あたりからダウンしてしまった。娘は元気が有り余っている感じだが、妻は一日辛そうに咳込んでいる。そんなわけで、僕も一日家に残って作業をしていた。

夕方になって一日じゅう外出しないのも気分的にすっきりしないので、まだ体調の優れぬ妻も含めて家族でセイチャムの中をゆっくり散歩することにした。娘は三輪車に乗って前を行き、我々夫婦がその後を歩いてついていく。芝生のグラウンドに囲まれた道を数百メートル歩く。芝の匂い。目に入る限りの青。最後は芝の上でフットボールを使って娘と追いかけっこをして遊んだ。フットボールを胸に抱いて歓声を上げながら走る娘が躓いて転ぶ。芝の上なので少しも痛くないらしく、またすぐに起き上がって笑いながら逃げていく。こんな環境が家の前にある幸せを噛み締めながら両手を広げて追いかける。

Jリーグが「日本じゅうの小学校の校庭に芝を植える」という運動をしている。子供は芝の上だと裸足になる、芝の上だと思い切った遊びができる、そしてそれは子供の運動能力の向上にもつながり、ひいてはサッカーの裾野拡大とトップチームの実力向上にもつながる、と主張している。子供の情操のためにも素晴らしいことであり、是非推進して欲しい。僕が熊本で通っていた小学校には二面の広大なグラウンドがあったのだが、何故かそのうちの一面が全面芝で、その上で体育の授業を受けるのは本当に気持ちが良かったのを覚えている。日本の気候が芝の生育に適していなかったためか、日本はこれまでどうも芝というものを軽視してきたようだ。野球場の内野に芝がないのはいかにも奇異だし(今あるのは神戸と鶴岡くらいか。かつては後楽園球場にもあったのだが)、大学・社会人レベルのラグビーチームでさえ土のグラウンドで練習しているのはあまりにも惨めだ(早稲田がようやく上井草に芝のグラウンドを作ったが)。

アメリカの家庭がどこも丹精こめて庭の芝生の手入れをし、それが初夏にかけて一気に緑の艶やかさを増していくさまは本当に美しい。いつになるものやら分からないが、子供が転んでも笑って起き上がれるような、美しい芝に囲まれた環境で暮らしたいものだなあ。


5月8日(木)         ファイナンシャル・エイド

学校から借りているファイナンシャル・エイド(ローン)のExit Interviewがあったので学校に出かける。Exit Interviewとは、学校を去る前に行うインタビューのことで、米国では企業を退職する際などにも行うところが多い。インタビューと言っても別に何かを聞かれるわけではなく、今後のロジスティクスについて確認したり、守秘義務契約について再度確認したり(企業の場合)、といったものだ。

会場に着くと、ローンを利用していた同級生達が詰め掛けており、ごった返している。あらためて、こんなに多くの同級生が学校からファイナンシャルエイドを受けていたのか、と思う。ビジネススクールの学生の資金調達のパターンとしては、実にさまざまなパターンがあるのだが、企業・国費派遣、実家がお金持ち、スカラーシップを得ている、IPOで大金を得た、といったパターン以外の学生は、多かれ少なかれ皆学校のローンのお世話になっている者が多い。かくいう僕もTUCKの持つ、”TREE LOAN”=「海外からの留学生であっても米国内在住の連帯保証人なしで二年間60,000ドルまで貸してあげる」というこのローンがなければ、いったいどうやって資金調達をしていたのか、想像もつかない。

「お前はいくら借りたの?そんなに?」などと同級生と話し合いながら、シートを埋めていった。「返済がなければ最高の制度なのになあ」などと勝手なことを言いながら。卒業後半年後から月々の返済が発生します、という説明を読みながら、改めてMBA留学というこの高い投資もいよいよ資金回収ステージに入るのだな、と思った。留学の充実度、効用、楽しみは、NPVなどという定量化のためのやや陳腐な手法とは切り離された次元に存在している、とは思う。「ハノーバーで家族で過ごした二年間、プライスレス」。

さはさりながら、やはりNPVは極大化しておくにしくはないわけである。


5月9日(金)          家族ソフトボール大会

昨年もこの時期に行ったTUCK日本人コミュニティによるソフトボール大会を今年も企画した。昨年は「二年生送別ソフトボール大会」として行ったので、このイベントを行うともう卒業が近い、そんな気がする。学生・パートナー合わせて20名以上の人々が集まる。昨年は一年生対二年生の対抗戦形式だったのだが、今年は一年生が少ないために全員ごちゃ混ぜの試合に。

試合は延長11回までもつれこむ大接戦の末に我々のチームが10−9で見事勝利。その間奥様連中の力強い打撃、運動不足のために足が空回りして転倒する学生、など見所の多い、笑いの絶えない試合であった。ベンチの脇にズラリと並んだベビーカー、打順が回るたびに手渡しでリレーされていく乳飲み子達の姿も、何とも微笑ましい。

こちらで何かイベントを企画すると、「家族」をinvolveして行われることが実に多い。パーティーも、スポーツも。これはアメリカの特性ではなくて、TUCKの(あるいは田舎の?)特性であるようだ。笑い声の絶えぬイベントを見ながら、日本に帰ってもこういう機会が多くあればいいのだが、と思うのだった。

【青空の下 TUCK日本人ソフトボール】


5月10日(土)         青空、芝生、夕暮れ、ボッチェ

一日気持ちの良い好天。昼過ぎから家族で打ちっぱなしに出かけたりする。土地の余っている当地の打ちっぱなしは鳥かごネットがなく、青空の下で森に向かってひたすら打てるので気持ちが良い。もっとも我々素人の打球は森などに届くはずもないのだが。

夕方からはエンジニアリング・スクールのI田さん一家を我が家に夕食にご招待。家の前には芝生があり、空はどこまでも青く、これから夕景へと移るこの時間はボッチェをするにはうってつけである。家の脇に椅子を出し、音楽を流し、急造ボッチェコートの出来上がり。ビールを用意してI田さん一家の到着を待つ。そして、一家が到着するが早いかボッチェに誘いだした。とても単純なルールのボッチェなのだが、これがなかなか面白い。特にビール片手にプレーする気持ちよさは格別だ(本場イタリアではワイン片手にゆっくり時間をかけてプレーするのが正しいらしい)。

I田一家は我々がこちらに来てから初めて知り合った人々。秋学期僕がやもめ暮らしだった頃に食事に呼んでいただいたこともあったが、その時はお互いにあまりのワークロードの重さにやつれた表情をしていたことを思い出す。あの時まだ乳飲み子だった娘さんもすっかり大きくなり、ハノーバーで二年間という月日が確かに過ぎたことを感じさせられた。

ワインを飲んだり、ボッチェをプレーしたりしているうちに、あっという間に8時間近くが経っていた。今日の時間もこの二年間と同じく、あっという間に過ぎていった。


5月11日(日)        残り10コマ

昨日の酒が終日体内に沈殿しており、存在するものすべてがまるでクリアさを失ってしまったような世界で一日を過ごしていた。夜ベッドに入る瞬間まで、まだ二日酔は残っていたような。やはり確実に、加齢とともにアルコールの抜けも悪くなってきていることは認めざるをえない。

そんな中でもやはり予習はせねばならず、今週の授業のリーディングやライティングなどを精一杯のスピードでこなしていく。壁に貼られた今学期のスケジュール表では、既に8割がたの授業に「済」のしるしであるピンク色のマーカーが引かれてしまった。残すところあと2週間。最後の10コマである。この二年間、ざっと計算すると500コマ強の授業を受けてきたことになる。その間にバインダーは累計2メートルまでその厚さの増やし、そのうちの幾ばくかの知識は頭の中に詰め込まれた。永遠に思えた500コマも過ぎてしまえば、まるで一瞬の出来事であったかのよう。

500コマの最後の10コマ。いよいよビジネススクールの授業のファイナルカウントダウンが明日から始まりる。


5月12日(月)        ケースウェスタンの事件

ケースウェスターン・リザーブ大学という大学のビジネススクール(Weatherhead School of Management)で、校舎内に立てこもった男が銃を乱射するという事件が起きた。犯人は同校の卒業生で現在は同校職員だったらしい。CNNが伝えるニュースを見ながら、同校二年生のOさんの存在がずっと気に掛かっていたのだが、メールを送ったところ、既に日本に帰っているということで、とりあえず安心する。卒業式への出席を諦めて日本に早期帰国したお陰でこの事件に巻き込まれずに済んだ、人生万事塞翁が馬、何がどう転ぶか分かりませんね、というメールであった。

結局ビジネススクールの学生が1人死亡し、11人が負傷した。死亡した学生も、まさかB−Schoolに来て校舎内でこんな死に方をするとは夢にも思っていなかったことだろう。夕方になって、副学長のサリーから、「ケースウェスタンリザーブの亡くなった学生に弔意を示すとともに、お見舞いの意を示すためにカードを送りましょう」というメールが来ていた。食堂に立ち寄ってカードにサインをする。

卒業を目前にして起きたこのやりきれぬ事件の犠牲者に対し、弔意を表したい。


5月13日(火)        友あり、遠方より来る

今日の意思決定論の授業では発言があまりハマらなかった。教授の用意していた「正解」とは逆の見解を述べたのだ。そのこと自体はロジックさえしっかりしていればたいして問題ではないのだが(逆の見解は歓迎されることさえある)、バックアップするロジックがちょっとお粗末。この授業、これまで覚えている限り7回発言しているが、そのすべてが全然ハマッていない。発言の質を5段階評価で自己採点するとすると、3が1回、2が6回という感じか。これほど自己採点が悪いクラスも珍しい。もっともよく考えると、この二年間で”5”を与えられる発言がいくつあったか、というとかなり寂しいのではある。コーポレートファイナンスで誰も答えられなかったオプションの問題に挙手して答えたこと、オペレーションの自動車のケースで変な流れになっていたディスカッションを戻したこと、その2回くらいか。。。

夜、9時15分に一週間のすべての授業を終える。残すはあとラスト1週間、最後の5コマのみとなった。

夜は、日本から友人A嬢がはるばるハノーバーまで遊びにやって来る予定になっている。帰宅すると、共通の友人である同級生T氏がマンチェスター空港からA嬢を乗せて我が家にちょうど到着したところだった。A嬢は3年前我々がMBA受験を始めた頃に一緒に勉強していた仲間である。2年前の四月に新宿御苑で花見をした時に僕の妻子もA嬢には会っており、それから2年ぶりの再会だ。あの時二歳だった娘は次の日曜日で四歳になるのだが、本人曰く2年前にA嬢に会ったことを「おぼえてる」そうである(おそらく方便だろうけれど)。

久しぶりの再会を祝して軽くビールで祝杯を上げる。これから彼女は我が家とT氏宅を拠点にハノーバーに約一週間ほど滞在する予定である。


5月14日(水)         ボストン行き

朝、A嬢と妻、そして娘が話す声で目が覚める。時計の針はまだ午前9時。授業のない日の目覚めとしては出色の早さだ。これまでにハノーバーの我が家に滞在した客人は、LBSのOさん、T’04のビジェイ夫妻、合格後キャンパスビジットに来たF氏、実家の両親、の計4組。そのたびにこうして妻と客人が話す声で目覚めていたような気がする。この家では、今回のA嬢が最後の客人ということになるだろう。

午前10時頃4人で車に乗ってボストン観光へ出発、正午前後にボストン市内に入る。

まずシーフードで腹ごしらえをした後、”ダックツアー”という水陸両用車に乗って一時間半ほどかけてボストン市内を観光するツアーに出発。味のある風貌の親爺が運転をしながらボストン市内の観光名所を案内していく。乗客の出身地を巧みに茶化しながらのガイドはなかなかお見事。途中親爺の合図で乗客全員で「クワッ!クワッ!」とアヒルの物まねをさせられたり、チャールズリバーでは子供を中心に水陸両用車を運転させてくれたり。ちなみにA嬢も親爺の指名でボートと化した車を運転し、「おいおい、どこに行く気だ。俺のオウムの方がよっぽど上手く運転できるぞ」などと突っ込まれておりました。

その後は今回の観光のメインイベント(メインだと思っているのは僕だけか?)であるフェンウェイパークのボストンレッ・ドソックス対テキサス・レンジャース戦へ。ダックツアー終了から試合開始まで少し間が空いたので、試合開始一時間半前には球場に到着し、試合前の練習を堪能することができた。僕は試合前の練習を見るのが大好きなのだ(強いチームの練習はそれだけで一種の様式美である)。ガラガラの観客席の最前列で娘と一緒に練習を眺めていたのだが、レッドソックスのノマー・ガルシアパーラがストレッチに目の前に出てきた時は僕の方が完全に子供と化して、娘を抱いたままフェンス際まで駆け寄ってしまった。

「ほら、あれがノマーだよ」と、目の前でストレッチをするノマーを指差す。娘、しばらく見ていた後、「ねえ、なんでノマはねころんでるの?」と一言。「あ、ころんじゃったの?だめだねえ、ノマは。ころんじゃったんだねえ。」と一人で納得顔。娘の前では、ガルシアパーラも単なる転んだおっさんなのであった。それでも娘にとって彼はその後も気になる存在であったらしく、試合中も「パパ、ノマはどこ?」と何度も聞いてきた。「あれだよ」と教えてやると、「ノマ、こんどはころんでないね」と少し不満げであった。

レッドソックスにはノマー・ガルシアパーラの他にマニー・ラミレスというスター選手、レンジャースにはカール・エベレット、ホアン・ゴンザレス、そしてMLB最高年俸を誇るアレックス・ロドリゲスというスター選手がおり、彼らを一同に見られるという意味では非常にお得な試合だった。特にノマーとアレックスの両ショートは守備もため息が出るほど美しい。

試合は一回裏にいきなりノマーが左翼の巨大フェンス”グリーンモンスター”越しに2ランホームランを放ちリード。その後もレッドソックスが着々と加点していく。レンジャースにはほとんどいいところがなく、7−1でレッドソックスが危なげなく勝利した。

フェンウェイパークは1912年にオープンした非常に歴史の古い球場である。レフトのすぐ後ろを道路が通っているため、レフト側が短く、観客席もない。その代わりにとてつもなく高いフェンスがレフト側にはあり、これが”グリーンモンスター”と呼ばれる名物になっている。ちなみにレフトは94メートル、センターは128メートル、ライトはポール地点は92メートルなのだが何と右中間が140メートルもあるすごく「いびつ」な球場である。収容人員も3万4000人とメジャーの球場としては非常に小さい。それだけに試合はほぼ毎試合満員になるらしい。ヤンキースタジアムに比べると非常にこじんまりとした球場で、ヤンキースタジアムにある圧迫感のようなものはない代わりに、如何にも”ボールパーク”という雰囲気が満ち満ちている。素晴らしい球場だ。ちなみに今年からグリーンモンスターの上に三列だけ新たに座席が設けられた。が、これが非常に人気でどうやら一般販売では入手不可能なようだった(抽選のみか?)。試合中に一度娘を連れてグリーンモンスター席に紛れこもうとしたが、入り口であっさり警備員に阻止される。

ところで、先日ヤンキースタジアムに行った時には「短縮版"God Bless America" + "Take me out to the ball game"」だった7th Inning Stretchだったが、ここフェンウェイでは既に「"Take me out to the ball game"のみ」に変わっていた。素晴らしい。その素晴らしさを称えて、「私を野球場へ連れてって」の歌詞をここに記させていただきたい。

Take me out to the ball game
Take me out to the crowd
Buy me some peanuts and Cracker Jack
I don't care if I never get back
Let me root, root root for the Red Sox
If they don't win, it's a shame
For it's one, two, three strikes you,re out,
at the old ball game

            

【目の前でストレッチするノマーに娘も釘付け】              【カクテル光線に照らされるフェンウェイ。美しいボールパーク】

試合が終了し、自宅に帰りついたのは午前2時。しかし、非常に充実していたボストン観光だったのである。


5月15日(木)          最後のタレントショー

朝少し遅めに起きて明日の娘のバースデーパーティーの買出しなどに出かける。娘の誕生日は5月18日の日曜日なのだが、前後のスケジュールの関係で明日16日に行うことにしたのだ。

夕方はダートマス大学内ソフトボールのプレーオフへ。レギュラーシーズンでは4戦全勝で危なげなく勝ち進んだプレーオフだったのだが、今日のプレーオフ初戦ではあっさりと大敗してしまった。これまで7打数7安打だった僕もこの試合では力んでしまって2打席連続内野ゴロと良いところなし。フラストレーションの溜まる負け方だったので、また試合後に練習をしてしまう。

夜は最後となったTUCKタレントショーを、A嬢も一緒に見学に行く。入学式などにも使われたコロシアム状の講堂は到着した時には既にTUCKコミュニティの人々で超満員の状態。我々は最後列に近い床に座り込んでビールを飲みながらショーを見下ろしていた。スライドショー、バンドの演奏、学生達の昔の写真、企画ものビデオ上映、「クリスの三番勝負」(同級生クリスが女子学生との腕相撲、ビール早飲み勝負、ホットドッグ早食い勝負を行う、という馬鹿馬鹿しい企画)などを見て、皆で大笑いする。音楽と写真の組み合わせが、なぜかわけもなくノスタルジーを誘う気がした。バンドのコーナーでは、娘を抱いて一緒に歌いながら踊る。

ショーはまだつづいていたが、子供のいる我々家族は結局第一部が終わった時点で帰った。娘は家に帰ってからもバンドが演奏していたレニー・クラビッツの”Fly Away”を何度も歌っていた。


5月16日(金)          バースデー・パーティー

午後から娘の四歳のバースデー・パーティーを自宅前のプレイグラウンドにて行う。昨年の誕生日パーティーでは季節はずれの雪が降っていたのだが、今年は雲ひとつない快晴だ。ヘリウムガスを詰めた風船をプレイグラウンドのフェンスに結び付けていくと、何となく公園全体がバースデー・パーティーっぽくなった。

午後3時頃、公園内のテーブルに妻が作った料理を並べてパーティーはスタート。僕もクーラーボックスにビールを詰めてパパ連中の登場を待つ。パーティーが始まって30分ほどすると会場はママと子供達で溢れかえったのだが、パパが誰もやってこない。仕方なくビールを我慢してカメラマンなどをやっていた。パーティーも後半に差し掛かる頃になってようやくポール、フィル、デレック、Mさんなどパパ連中が登場して、晴れて彼らと一緒に青空の下でビールを飲む。

その後ピニャータ割り、バースデーソング、とお馴染みのイベントがつづいて午後5時過ぎにパーティーはお開きになった。家に帰ってから、娘は積み上げられたプレゼントの山の前ににこにこ顔で座り、次々と包みを開けていく。我が世の春を謳歌しているようだった。

【快晴のバースデーパーティーでベースボール型のピニャータを割る子供たち】

パーティー後は、A嬢・T氏と一緒にゴルフのプラクティスホールへ出かけた。娘を連れて4ホールをのんびりとまわる。NYではあんなに歩かないと駄々をこねた娘が、ゴルフ場の緑の中では嬉々として歩くのはどうしたことだろうか。都会は確かに刺激があるところではあるのだが、その種の刺激に価値を見出さない子供にとっては、ストレスの溜まる場所以外の何物でもないのだろう。きっと本能的に緑が好きなのだ。


5月17日(土)          送別会

日本人一年生及びパートナーの皆さんに企画していただいた我々日本人二年生の送別会の一日。昼間はバーモント州のゴルフコースにてゴルフコンペ。子供のいる家族でもプレーできるように、とベビーシッターまでしていただく気の配りようで、お陰様で我々夫妻揃って初めてラウンドすることができた。スコアは僕も妻も何ともひどいものだったが、青空の下でするゴルフは本当に気持ちよかった。A嬢もコンペで一緒にプレーする。

夕方からはセイチャムのユニット11/12にてコンペ結果発表を兼ねたFarewell Party。この食事も一年生のパートナーの方々が中心になってすべて用意していただき、我々は手ぶらで参加させていただいた。芝生の上でボッチェ対決をしたり、コンペ結果の発表をしたり、なぜか即席川柳大会をしたり、大笑いしているうちに時間はあっという間に過ぎていく。最後にコンペで優勝をした某氏がスピーチをしたのだが、その時には既に真っ直ぐ立てない状態になっており、一年生Nさん(アキレス腱断裂の手術をする前日に足を引きずりながら77のスコアを出したというツワモノ)の松葉杖を借りてようやくスピーチを行う。

昨年の二年生の送別会をしたのはついこの間のことのように思える。「ああ、もう一年したら自分達がこの立場になるのだなあ」と思っていた一年先は、思っていたよりも早くやって来た。

コンペの幹事、ベビーシッター、送別会の料理など何から何までやっていただいた一年生とそのパートナーの皆さん、どうもありがとうございました。


5月18日(日)          日韓サッカー対抗戦

日本人学生と韓国人学生により日韓サッカー対決をしよう、という話が持ち上がり、本日セイチャムのサッカーフィールドで試合を行うことになった。気温は摂氏30度、屋外では40度になんなんとするほどの暑さ。その炎天下、両国ともに韓国系アメリカ人、日系アメリカ人の助っ人プレーヤーを加え、パートナー・ファミリーの応援団を送り込み、両ゴール裏には日の丸・大極旗をそれぞれ掲げて、真剣勝負を行った。サッカーの経験のほとんどない僕も、主としてDFで試合に参加する。韓国チームは前日にチーム練習をするほどの気合の入れようで、試合に挑む姿勢も真剣そのもの。「あいつをマークしろ!」「早く上がれ!」という(と言っていると思われる)韓国語の怒号を聞いていると、何だか本当の国際試合を戦っているようで、こちらの気分も盛り上がった。

日本チームは一年生Nさんがアキレス腱を切って出場できなかったものの、T氏・一年生Iさん・日系アメリカン人ケンジ、の3名のサッカー部の選手がおり、彼らの要所での活躍で有利に試合を進める。結局前半終了間際に1点を挙げた日本チームが、後半にも1点、さらにロスタイムにもう1点加えて3−0で韓国チームに圧勝した。

【試合後の両チーム記念撮影】

夕方からは我が家の前の芝生でA嬢、T氏と一緒にボッチェ、バーベキューを楽しんだ。暮れていくセイチャムでビールを飲みながら、食事をした。長い週末が終わり、A嬢は明日ハノーバーを離れる。そして卒業がまたぐいっと近づいた。


5月19日(月)          友帰る、そして最後のスタディグループ

この一週間ハノーバーに滞在していたA嬢がいよいよハノーバーを離れることになった。僕は午前中の授業に出ていたため、宿泊先のT氏宅からA嬢が我が家に来た時には既に家におらず、最後の挨拶ができなかった。まあ、一ヵ月後に日本に戻ればまたすぐ会えるのだが、なかなか帰国の実感が湧かない中では、何か大きなものを逸してしまったような気がしてしまうのだ。

授業を終えた後、わずかの空き時間を使って一年生のDさんとTUCKサークルでボッチェをする。そのうち日本人同級生、中国人同級生達が続々とやって来、結局日本チーム対中国チームのボッチェ対決をすることになったのだが、結局スタディグループが始まる時間になってしまったため、試合は7−7で引き分け。

午後8時から、Business Lawのためのスタディグループ。これがTUCKでの最後のスタディグループである。この二年間のあいだに数え切れないほどのスタディグループミーティングを行ってきた。ストレスを感じたり、話せない自分に苛立ったり、同級生のあまりの優秀さにショックを受けたり、逆に得意満面になったり、、、、色々なことがあったスタディグループだった。スタディグループの存在は、その存在に対するコミットの高さは、TUCKがTUCKたる所以だともいえる。これがあるからこそTUCKだともいえる。教授から学んだことと同じくらいに同級生達や自分自身から色々なことを学んだスタディグループだった。

二年間最後のスタディグループは、一時間ほどであっさりと終了した。


5月20日(火)          最後の授業

午前中のFinancial Institutionの最終授業を終えた後、今学期限りで引退することになっているManagerial AccountingのShank教授のサプライズパーティーに参加する。教室からステル・ホールまで学生が並びShank教授を拍手で迎えるのだ。さらにステル・ホールで今年彼の授業をとっていた一年生達が記念品を贈呈し、授業中の彼の発言などをまとめたスライドショーを上映した。Shank教授はTUCKで受けた授業の中で、僕が最も学ぶところが多かった教授のうちの一人であるため、非常に感慨深い。彼の口調、彼のジェスチャー、彼の口癖、色々なものが思い出される。

実は今学期限りで、Financial AccountingのStickney教授も引退することが決まっている。管理会計と財務会計の両分野でTUCKの誇る二大名物教授が揃って引退することになったのは、何とも寂しい限り。自分は卒業してもお世話になった教授にはいつまでもTUCKに残っていて欲しいと思ってしまうものだ。残されたアカウンティングの教授には是非とも頑張ってほしいところだが、去る二人があまりにも大物だったためにその穴を埋めることまではとても期待できないだろう。他の学校から教授を呼んでくることになるのだろうか。

意思決定論のファイナル試験を受けた後は、Business Lawの授業。これが二年間のTUCK生活の最後の授業なのだ。授業はいつものとおり、ゲストレクチャラーのレクチャーを中心として淡々と進んでいった。最後に教授がこれからビジネススクールを卒業して実業の世界に戻っていく我々に対するメッセージを話してくれた。彼の話は、最後の授業を終えようとしている僕の胸に実に素直に響いてきた。以下に彼のメッセージを書き記しておきたい。

最終学期の最後の授業を終えるにあたり、それぞれの教授が卒業する我々に対するメッセージを送ってくれた。その中でもこの教授の言葉は最も胸の奥底に届くものだった。TUCKでの最後の授業に相応しい授業だったと思う。

これでもう、このTUCKの建物の中で教室を移動しながら授業を受けることも無いのかと思うと、何とも言えぬ気持ちになる。自分のこれまでの人生の怠惰さを考えるにつけ、この二年間はよくもこれほど勉強したものだと思う。今後の人生の中で、この二年間と同じ密度で勉強をする機会は間違いなく二度とないだろう。午後9時前にTUCK Hallの扉を空けて外に出た。空にはまだ明るさが少し残っていた。


5月21日(水)          授業のない日々の始まり

昨日で授業はすべて終わり、学業面で残すところはテイクホーム試験二つだけとなった。今日から先、もう授業は永遠にないのだ、という事実がなかなか実感として湧いてこない。試験勉強の方も、二つの試験ともにOpen Bookの試験なので、「まあ何とかなるわい」という気分が強く、なかなか気合が乗らない。一年目秋学期でであれば、勝手が分からずにかなりの時間をかけて勉強していたことだろうに。これを人は「成長」とも呼ぶ。

そんなわけで、聴講を終えた妻を迎えに行った後は家族で打ちっぱなしに行ったり、スーパーに食材の買い物に行ったり、とかなりのんびりと過ごした一日であった。

夜は同級生ジェイソン宅で行われたポーカー・パーティーに参加する。10人ほどの学生が参加して4時間以上プレーしていたのだが、ビギナーズラックは今日もまた衰えることを知らず、また少しだけの勝利を収めることになった。


5月22日(木)          ゴルフ そして アルゼンチンBBQ

朝イチで元隣人I氏夫妻とグレッグと4人で大学所有のゴルフコース、「ハノーバー・カントリー・クラブ」でラウンドする。我々夫婦は先日ついにハノーバーカウントリークラブのシーズンパスを一人$145で揃って買ってしまったのだ。こちらでの二年間の生活感覚からすると$145というのは非常に大きな出費であるのだが、日本のゴルフ相場を考えるとこれは信じられないほどの安価である。ちなみに「シーズン」とは大学の一学期間のことを指しているそうなので、だいたい60日間ほどプレーし放題ということになり、多い学生はその間に30−40回もラウンドするので、一回あたりのコストは500円ほどしかかからない計算になる。そのコースが車で10分の場所にあるといのは何と恵まれた環境か。ちなみにビジターでプレーすると$25ほどかかるのだが、それも日本に比べれば破格。日本に帰れば一気にプレーする機会も限られると思われるため、今回思い切って購入に踏み切ったわけであります。なお、プレーフィーに限らずクラブなどの用具類もおしなべて日本の3−4割の価格であるらしく、そのあたりにもアービトラージビジネスの機会はありそうである。

さて、肝心のプレーの方は生涯でラウンド四回目の僕にとっての自己ベストは一応出たものの、それでも120台でありました。

妻が最後の聴講を終えた後は、一年間の終わりを締めくくるアルゼンチン人学生による恒例の「アルゼンチン・バーベキュー」がブキャナン寮の前の芝生で行われたので、参加した。芝の上にTUCKコミュニティーの大多数の人々が思い思いに腰を下ろし、大量のアルゼンチンバーベキュー(塩味がきいていて美味)とワインを味わいながら、話をしている。一年の授業がすべて終わった開放感に、皆笑顔が押さえられない感じであるのは昨年のパーティーと同じ。その中にも間もなくここを離れる二年生がそこはかとないノスタルジックな雰囲気を醸し出していたりする。「卒業後はいつここを離れる?」「休みの間は何をする?」という話題が中心になるのも、やはり去年のこのパーティーと同じだった。

三時間近く食べ、飲み、最後はTUCKサークルでボッチェを楽しんで、午後八時近くになってからようやく会場を離れた。

【アルゼンチンBBQ遠景をTUCKサークルより望む】

その後はセイチャムのタウンハウスに住むサウル家でのパーティーに、ジョン一家、スコット一家とともにお呼ばれ。小さな子供達は皆二階で遊ばせ、大人達は一階で「ピン・ポン・パンゲーム」「山手線ゲーム」などに興じていた。こちらが手ほどきをしてあげた「山の手線ゲーム」なのだが、「体の部位の名前」「骨の名前(!)」などのお題を与えられては、我々夫婦がネイティブ達に敵うはずもなく、結局ワインをがぶがぶ飲むはめになったのである。

ひたすら遊び興じた一日はあっという間に過ぎていった。


5月23日(金)           ファイナル試験 パトリック

妻は朝6時からゴルフに出かけて行った。T氏とT内氏にハノーバーカントリークラブでのラウンドを付き合ってもらうことにしたらしい。僕と娘は当然ベッドの中であり、午前8時半頃に僕達が起き出す頃には既にハーフを回り終えた妻が帰ってきていた。

昼前に学校に出かけて、スタディルームでBusiness Lawのファイナル試験を受ける。「この事件に関する原告側の考えられうるClaimと、それに対する被告側の考えられうるDefenseを述べよ」といった、なかなかタフな質問が数多く並んでおり、ネイティブでない学生が3時間という制限内で(質の高い回答を揃えて)終えるには相当厳しい試験だった。もっともそれは最初から分かっていたことであり、文句は言えません。Business Lawに限らず今学期に履修したほとんどの科目は高度な文章表現能力が求められるものだったので、これまでの学期と違って好成績が期待できる科目というのがまったくない状況。これでは密かに期待していたとあるものもまず難しくなったな、と試験を提出しつつ思った。

ファイナル試験もあと一つを残すのみ。

夕方からはパトリックとスタディルームで会う。「卒業して働き始める前に一度ヒロシのパワーポイントのスキルを伝授してほしい」、と以前から頼まれていたのである。この二年間に何度か同じグループでワークするうちに、彼は僕のスキルをだいぶ買いかぶってしまった様子なのだ。彼の新しい仕事で想定されるニーズを聞きながらパワーポイントのテクニックなどをひととおりレクチャーしていったのだが、そのうちにエクセルのスキルも底上げしたいという話になり、急遽レクチャー範囲を拡大。結局2時間以上使って非常に広い範囲の内容をカバーしてしまったのだった。さすがに少しオーバーフロー気味か。

「10時間マニュアルを読んでも分からなかったことがいっぱい分かったよ。本当に助かった。いつも聞きたかったんだけど、学期中はお互い忙しいのでなかなか聞けなかったんだよね」と、喜んでくれたナイスガイ、パトリックは40歳のおじさん(元)エンジニアである。

学校を出たのは午後7時。普段であればまだ散歩やドライビングレンジへも行ける時間だったが、今日はあいにくの雨。大人しく帰宅した。


5月24日(土)           中国人とギリシャ人

午前中はセイチャムの40戸強が一斉に行うヤードセール(ムービングセール)。学年の切り替え時にはムービングセールが盛んな当地でも、これだけの戸数がまとまってムービングセールを行う機会はそうそうないために、訪れる客数も半端でなく多い。残念ながら朝から雨が降り始めたため、ヤードセール本来の姿(青空の下、庭いっぱいにモノを広げてお祭り気分で商談する)で行うことができず、品物はほとんど室内に展示した。Tさん一家、クラウディア、T内氏一家も、小雨降る我が家の庭やリビングに品物を置いて客を待つ。あいにくの天候のために人出が心配されたが、開始時間の午前9時の30分以上前からお客様が我が家にやって来始めた。

その後も客はほとんど途切れることがなく、次々に我が家の中に入ってきて、大物を買い、小物を買い、無料の品物を大喜びで持っていき、ついには車まで売れてしまった。リビングには出展者の家族やお客様が常に途切れることがなく(ドア付近で中に入れない人の渋滞まで起こる始末)、奥のベッドルームでは娘、ファビアン、アリアナ、K太君、アントワーヌなどの子供達がずっと大騒ぎしていた。

しかし、本日のムービングセールで実感したのは、中国人達のモノを買う時の「がめつさ」。車を買ったのもハノーバー・インに勤める中国人夫妻だったのだが、まず夫妻の「友人」とか「親戚」とか称する連中がたくさん出てきて集団で交渉するスタイルに驚いた。その中で車に詳しいという男が何だかんだと難癖をつけてくる。細かい講釈をタレくさるので、「こっちは10年近く自動車会社に勤めていたんだから、そんなことは分かっている。結論は何なんだ?買いたいのか、買いたくないのか?」と言っても、まるでひるむ様子もなく延々と講釈を垂れるのには参った。また、「今後連絡を取るためにメールアドレスを教えてほしい」と言うと、なぜか「友人」の女性が出てきて、「じゃあ、私のものを教えるわ」と言う。「??いや、本人のを教えてくれ」と言うと、「すぐ隣に住んでいるのだから私で構わないでしょう」と言う。どうやらこの押しの強い女性は、押しの弱い夫妻に代わって交渉代理人をする担当であるらしい。その後も家の中の小物を買うたびに何だか非常に感じの悪いやりかたのネゴ(品物にまず難癖をつけてから「で、どこまでまける?」と言うとか、「彼女は今日最大のお客さんなんだからまけて当然だろう」と言う、など)繰り返す彼らに、「てめえらに売るくらいなら、誰か喜んでくれる人にタダであげるぞ」と言いたくなる気持ちをぐっと押さえて応対したのだった。

中国人社会の相互扶助の凄さ、ネゴのえげつなさというのは聞いていたが、まさにそれを実感したムービングセール。ああいうのは「ネゴ上手」とは言わず、単に「品のない」交渉と呼ぶ。しかし、アメリカ人にとって中国人も日本人も区別がつくはずもなく、彼らがヤードセールの方々で繰り返す「集団難癖ネゴ」に、「まったくアジアンはこれだから嫌だ」と思われているのかと思うと何だかやりきれんなあ。

夕方からは、先日Student-Faculty Dinnerに招待したバカミトス教授にお返しに招待していただいたパーティーへ。会場になったのは、車で20分ほど離れたバーモント州ウェストハートフォードにある、TUCKのカフェテリアのマネージャーであるルースの自宅。彼女のロッジ風の自宅は、山に囲まれた素晴らしい景観の中にある素敵な山小屋だった。その庭先でバカミトス教授が焼いてくれるのは、「ギリシャ風子羊の丸焼き」。この子羊の丸焼き、ギリシャではイースターを中心に結婚式など何かめでたいことがあった時に食べるものであるらしい。体長50センチほどの子羊が串に刺されて炭の上でくるくると回っている。

それを見た同級生のM嬢などは、「Oh my god!これは私にはtoo muchよ。頭は取っておいてほしかったなあ。何だか子羊の目が私の方を見ているんだけど。Hey, don't look at me, babe!」と完全に引いている。女性を中心に引いてしまう人もいた子羊の丸焼きだが、塩をかけて延々7時間もローストした肉は塩味がきいて非常にうまかった。ルースが作ってくれた料理も、「これがあのまずいカフェテリアのマネージャーが作った料理なのか」と思うほど美味。なぜ普段これを出してくれないのか。

【「自動子羊回し機(?)」でくるくる回る子羊を見守るバカミトス教授。教授曰く、「農場でメーメー言ってる奴を買ってきた」とか】


5月25日(日)        サンクス・ポットラック

先週火曜日あたりからずっと天候がすぐれず、降ったり止んだりを繰り返している。こちとらここで過ごせる時間も限られているのだからいい加減晴れ間を見せてほしいのだが、今日も残念ながら、雨だった。

夜は我々にスペイン語をボランティアで教えてくれたポーラに感謝の意を表す”サンクス・ポットラック”がフィル・モニカ夫妻宅にて行われ、不肖の弟子である僕も当然参加することになった。妻は炊き込み御飯を、僕はひとつ覚えになりつつある麻婆豆腐を作って持参する。しかし、麻婆豆腐は、豆腐の選択をミスってしまって自分としては今ひとつの出来だった(しかし、豆腐のパッケージにシェイク状の飲み物の写真を載せて『豆腐はスムージーに最適!』とか書くのはやめてほしいものだ)。

参加したのはフィル一家、我が家の他に、Tさん一家、ピーター一家、Kさん一家、元隣人I氏夫妻といったポーラの教え子たち。さらに我々生徒のスパーリング・パートナーをつとめたサウル一家とフランシスコ一家。タウンハウスのリビングルームには各人自慢の料理が並び、大人と子供が入り混じって大賑わいである。夜10時過ぎまでフィル宅にて飲んでいた後は、すぐ向かいにあるサウルの家に場所を移して二次会。近隣住民の苦情は大丈夫なのか、と心配するほどの音量で音楽を流しながら皆で踊る。なぜか、即興ダンスコンテストが行われることになり、それぞれが踊りを披露したのだが、意外にもTさんがブレイクダンスの名手であることが判明、満場一致で優勝となったのであった。


5月26日(月)        MBAの全カリキュラム終了

午後から学校に出かけて図書館で最後のファイナル試験である”Financial Institution”を仕上げ、TUCK Hallのドロップボックスに提出してきた。この瞬間をもって、ついにすべての試験が終了し、MBA二年間のすべてのカリキュラムが終了したのである。もう予習をする必要もない、もうペーパーを仕上げる必要も、試験を受ける必要も、まるでないのである。それは「実感」としてはなかなか信じがたい事実だった。あとはただ成績発表を待ち、卒業式を待つだけだ。

ああ、これで全部終わったんだ、と思うと、開放感と寂莫感の入り混じった不思議な感慨に襲われた。解き終えたテストを手に持って、何度TUCK Hallの階段を上っただろうか。100年もの間TUCKの学生達が上り下りした大理石の階段は中心部は磨耗して凹み、何とも言えない感触をいつも足の裏に伝えてくれた。ここを歩いた学生達の半分は既に故人だろう。TUCK Hallの中には学校の歴史を感じさせる写真やプレートがあちこちに飾られているのだが、僕にとってはこの磨り減った階段を歩く時が最もTUCKの長い歴史を感じる時だった。

廊下に無造作に置かれたドロップボックスの中に、先に解き終えた学生が試験を提出している。その上に自分の答案をポンと投げ、そしてTUCK Hallを出た。


5月27日(火)        最後のアプリカントディナー

朝早くからTさんに娘のベビーシッターをしてもらい、その間にTさん夫人と我々夫婦でゴルフをラウンドする。さらに一旦帰宅した後に午後からT氏、I田氏ともう1ラウンド。スコアは2ラウンドともに120台とひどいものだが、下手くそゴルファーにとっては、それはあまり問題ではなし。美しいゴルフコースをのんびり歩きながら、合間に色んな話をすることこそが楽し。

夜は日本からキャンパスビジットに来た現在ウィイティング中のアプリカントの方を囲んでハノーバーのチャイニーズレストラン「パンダハウス」で食事をする。「パンダハウス」で食事をすることも、アプリカントの方とディナーをすることも、おそらくこれが最後の機会だろう。

「パンダハウス」で初めて食事をしたのは、入学後間もない頃、晴れてネゴが実りレバノンのあばら家からセイチャムに繰り上げで入居できることが決まったことのお祝いを家族三人でした時であった。それ以来、色々な機会に何度もこのレストランを利用してきた。決して食事がうまいわけでも、何か特別な魅力があるわけでもない普通のレストランなのだが、何度となく利用してきた。一年生秋学期に睡眠不足でフラフラになりながら、同級生と一緒に「たまにはちゃんとした食事をしよう」と、時間のプレッシャーに追われながら大急ぎで食事したことも思い出す。その「パンダハウス」で食事をするのもおそらくこれが最後。

また、この二年間の間におそらく30名以上のアプリカントの方がキャンパスビジットでハノーバーにやって来た。多くの場合は、もともとの知人であったり、知人の紹介であったり、アドミッションからの依頼があったり、という形で日本人学生がアテンドすることになる。そして、アテンド役の学生を中心に有志でランチやディナーをすることがほとんどだった。僕はできる限りこれらのランチやディナーには参加することにしていたのだが、実際参加できたのは半分ほど、15名ほどか。そして、そのアプリカントの方々とのディナーもおそらくこれが最後。

本日ご一緒したアプリカントの方とは昨晩も食事を二人で一緒にしたのだが、非常に面白く、そして感じのよい方で、是非繰り上げ合格でTUCKに入ってほしい、と願いたくなるような方だった。


5月28日(水)        ゴルフに思う

朝、まだ僕と娘が寝ている間に妻は早朝ゴルフへ出かける。昨晩夕食を一緒したアプリカントの方を急遽誘って午前11時の彼のバスの時間までに1ラウンドしてしまう、という計画らしい。T氏・I氏とともにラウンドした妻が帰ってきた時はちょうど僕と娘が起きる頃だった。

昼からは、妻と入れ替わりで僕がゴルフ。T氏(今日2ラウンド目)及び現地で会った韓国人一年生二名(彼らも今日2ラウンド目)と一緒にパラつく雨の中ラウンドする。この時期、「ハノーバー・カントリー・クラブ」は最後の試験を終えて卒業式を待つばかりのTUCK二年生が多数押しかけており、今日も途中のホールで10組以上のTUCKの同級生達とすれ違った。昨日2ラウンドした僕は今日は1ラウンドでお腹いっぱいな感じであったが、本日2ラウンド目を終えたT氏は「もう1ラウンドできるな」などと呟いている。当然我々はカートなどには乗らないので、8時間ほどかけて2ラウンドプレーするとかなり良い運動になるはずなのだが。。。

ところで、こちらでゴルフをするということは実にさまざまなことを考えるきっかけを与えてくれる。

まず一つ目は、このスポーツを取り巻く日米のあまりの環境の違い。米国ではゴルフ場でも打ちっぱなしでもクラブを振る子供(就学前児童も含む)の姿が多く見られる。用具の価格は押しなべて日本の3割程度、プレーフィーに至っては1割程度の値段でプレーできる米国では、ゴルフは取り立てて特別なスポーツではない。対して、用具代、プレー代に加えて時間コストもかかる日本では子供の頃からゴルフをしていたというのはよほどの金持ちの子息くらいだろう。多くのプレーヤーは社会人になってから初めてゴルフクラブに触れる。これだけ裾野の広さが違う中で、日本人プロに米国人プロに伍して戦え、というのは統計的に無茶な話だ。

二つ目は、先述した用具の内外価格差の問題。精密機器などごく一部を除いてほとんどの品目で米国の価格は日本のそれを大幅に下回っているのだが、中でもゴルフ関連の価格差は相当大きい部類に入る。なぜここまで違うのか?なぜ日本での価格は下がらないのか?土地の狭さなどどうしようもない所与の制約条件はさておき、克服できるはずなのに放置(あるいは保護)されている原因に思いを致すと何ともいえぬ気持ちにもなる。ゴルフに限らずあまねくコストが高いことによる、国民一人当たりGDPと相関しないこの日本人の生活の質の低さ、はどうしたことか。同じ100ドルでできること、買える物品、得られるユーティリティの少なさ、は気付かなければなんでもないことなれど、気付いてしまえば腹立たしいほどのレベルだ。

三つ目は、「ゴルフ」というスポーツが(日本で)与えられた不幸なポジショニングについて。一つ目の問題とも深く関連していることだが、日本でゴルフといえば、「おやじの遊び」「お金持ちの遊び」だ。ゴルフがポジショニングされた象限の中にはスポーツとしての要素よりも遊びとしての要素の方が多く配合されている。僕自身、「大学時代ゴルフに打ち込んでいました」という言葉と「大学自体サッカーに打ち込んでいました」という言葉を聞いた時の心象的反応はまるで違う。「柔道に現を抜かす」という表現はまったくはまらないが、「ゴルフに現を抜かす」という表現は見事にはまる。おそらく他のどのスポーツよりもはまる。時折MBA関係の掲示板などで、「社費や官費で留学しながらゴルフにうつつを抜かす連中はけしからん」という、およそ無関係な二つの事象を合目的的な表現とともに結びつけたものが見られるのはこのためか。日本において、ゴルフというスポーツが与えられ、そして今後もおそらく変えることは相当程度に困難であるはずの、不幸なポジショニングを思ってしまうのだ。

夜は、T氏が自宅で開いてくれた打ち上げお好み焼きパーティーに家族で参加した。ホットプレートでひたすら焼いたお好み焼きを食べながら、馬鹿話で盛り上がった。


5月29日(木)        TUCKポーカー大会

バーモントの山奥にある豪邸、同級生ピーターの自宅で行われた「TUCKワールドシリーズ・オブ・テキサスホールデン」大会に参加する。これまで行われたポーカーナイトの集大成として企画されたこの大会は、数多くあるポーカーゲームの中でも「テキサス・ホールデン」だけをひたすらプレーする大会だ。こちらのケーブルTVで毎週放送されているポーカー番組「テキサス・ホールデン」という番組と同様、参加者全員によるバトルロイヤル形式で、チップを使い果たした人間を一人ずつをふるい落としていき、最後に残った一人が優勝する仕組みで行われる。

13名が参加した大会は、まだ外が明るい午後6時過ぎからスタート。時間をかけて一人一人をふるい落としていく。今日も好調だった僕は最後の4名までは残ったものの、そこで淡白さを出してしまいメダルには一歩届かなかった。自らの粘着性のなさ、執念のなさを感じてしまった大会だった

今回の大会は「TUCKワールドシリーズ」だけあって、いつもよりもかなりシリアスな雰囲気で行われたのだが、同級生のなかなか普段見られない姿も見られて楽しかった。大胆なもの、小心もの、勝負どころになると手が震えるもの、勝負どころでなくても緊張で手が震えているもの、ブラフをかけまくるもの、いちいち顔色に出てしまうもの。その中で僕は、「まったく顔色が変わらず読めない男」「しかしまったくブラフを使わないので、ベッティングを見れば読める男」という評判であるらしい。その評判を利用して低い手で何度も勝たせていただきました。


5月30日(金)        Bocce BBQ

朝早くからゴルフを1ラウンド。そして午後からは、以前から企画していた”Bocceバーベキュー大会”を我が家前の「庭」で行う。芝生の上でバーベキューとビール・ワインを楽しみながら、Bocceをプレーしようというこの企画、天気が良ければ最高のイベントだが、天気が良くなければまったくつまらないイベントに成り下がってしまう。ここのところ雨模様が連日続いて心配していたのだが、今日は何とか天気が回復して期待していたような青空が見えてホッとする。

大会の形式は、17名の大会参加者が8チームに分かれてA・Bふたつの予選リーグを行い、それぞれのリーグの上位2チームが決勝トーナメントに進出する、というもの。午後3時から大会がスタートしたのだが、すべての試合を消化して最後の決勝戦を行ったのは、実に試合開始から5時間以上が経過した午後8時過ぎである。決勝戦では、サウル・Kさん夫人組が、T氏・T内氏・クラウディア組を下して見事チャンピオンに輝いた。幹事役の僕は、残念ながら予選リーグ1勝2敗であっさり予選敗退。

大会終了後は、エキジビジョンマッチを行い、負けたチームがズボンを下ろして(一応パンツは着用)腕立て伏せをするという罰ゲームを披露したのだが、これが特にアメリカ人奥様方には大ウケ。

【Bocce大会でのプレー】

その後我が家に場所を移してパーティーを継続し、最後にお開きになったのは今回もまた午前三時をまわっていた。


5月31日(金)        日韓ソフトボール対決

サッカー、ゴルフ、とTUCK日本人学生対韓国人学生との対決を行ってきたのだが、今日はその第三弾ソフトボール対決を行った。ちなみに過去のこれまでの戦績はサッカー(日本3−0韓国)、ゴルフ・ライダーカップ(日本の4勝1分け)ともに日本チームの圧勝。韓国チームはこの第三戦だけは負けられないと気合を入れて今日の試合に挑んできたのであるが。。。。試合の方は何と27−5という圧倒的な得点差でまたしても日本チームの圧勝となった。とにかく個人のレベル差があまりにもありすぎて、何だかやっていて気の毒になるほどだった。先方は、奥様、子供達も多く応援に駆けつけていたのに。

韓国ではあらゆるスポーツの裾野が非常に狭く、少ないプレー人口の中からこれと思われる子供を見つけると国家プロジェクトとして鍛え上げるシステムで競技レベルを維持・向上させているという話を聞くが、やはり野球も日本ほど一般的にはプレーされていないのだろうか。韓国人一年生は、「TUCKに来て、日本人がどんなスポーツでも上手いことに非常に驚いた。これはたぶん国の豊かさの違いだと思う。豊かな国では子供が色んなスポーツ触れる機会があるのに対して、それほど豊かでない国では限られた子供に限られたスポーツができる機会があるだけなんだ。だから結果として一般人はあまりスポーツがうまくないんだ。」と語っていた。これが本当かどうかは分からないが、興味深い意見である。

今年から始まった日韓学生対決は、来年からはテニスやホッケーなども含めて定期戦として継続する予定だとか。「定期戦の名称は今年はK−Jリーグ、来年はJ−Kリーグというふうに名前を変えよう。」と韓国人一年生が言っていたのがW杯での名称問題を髣髴させて少し可笑しかった。

【試合後、また両国国旗を掲げて記念撮影】

試合後は、ライムにある同級生ローラ宅で行われたパーティーに家族で参加する。Disorientationのイベントの一部として行われたこのイベントには子供用の遊びなども多く用意されていて、娘も大はしゃぎ。ローラ宅前の池でおたまじゃくしを取っているうちに、娘が池にはまって泥だらけになってしまい、それを機に我々一家はパーティーを辞すことにしたのだが、パーティはそのまま夜のボンファイアまで盛り上がっていたらしい。


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