MBA留学日乗 200306     | ホームへ   |      | 前月へ   |


6月1日(日)         最後の月 

いよいよこの日乗最後の月である2003年6月がやってきた。日乗のトップページを作ったのは、2001年の秋頃だろうか。その時、2003年の6月までを黒い文字に、同7月以降を薄いグレーの文字にしたのは、「この月まで、卒業式までは日乗を更新する」という計画を示したものだ。その後一日一日、日乗は積み重ねられてきて、その時遥か先の話だった最終月がいつの間にか目の前にやってきた。この二年間の間に、更新が遅れたことは多々あれど、最終的にはビジネススクールでの日々を一日も漏らさずここに記すことができたことだけは、褒めてやっても良いかもしれない、などと思う。少なくとも自分にとっては、この二年間の日乗は、貴重な生活の記録である。

なお、TUCKの卒業式は今週土曜日に予定されているが、当日乗は卒業式をもって終了するのではなく、米国を離れる日までは更新を継続する予定です。僕にとってこの留学における大きな意義の一つは、米国という未知の国で暮らしてみることにこそあった気がするのであり、であるからにはやはり米国に入ったその日から米国を離れる日までを一日漏らさず記録しておきたい、と考えたのだ。特段意味のあるこだわりでもないのだけれど。

ということで、今月をもって当留学日乗は幕を閉じます。最後の月もどうぞ宜しくお付き合いください。


6月2日(月)         ディスオリエンテーションその2 〜スポーツ・デイ〜

さて、本日はディスオリエンテーション企画の一貫として、ストア・ポンドという池を囲むレクリエーション施設で、「スポーツ・デイ」というイベントが行われたので参加してきた。要は運動会のようなもので、サインアップした同級生を4チームに分けて各チーム対抗で総合得点を競うというものである。競技はキックベースボール、Bocce、テニス、バスケ(3on3)、バレーボール、アルティメットフリスビー、ドッジボール、ウィッフルボール(プラスチックのボールとバットでやる野球)、などなど。30歳前後の、中には不惑近いものもいるSoon to be MBA達が、子供のようにキックベースボールなどに興じる姿はなかなかかわいらしいものがある。

僕はまずキックベース、ボッチェとプレーしたがいずれも連敗。他の競技もなかなか魅力的だったが夜はディナーにお呼ばれしていたので、夕方にサウル一家の車に同乗してセイチャムへと帰ってきた。残った皆は夜遅くまでスポーツに興じ、さらにそのままストアポンドのキャンプ場にテントを張ってキャンプをしたらしい。

【キックベースボールに興じる同級生達】

夜、同級生Tさん宅にてディナー。素晴らしい食事とともに時間はあっという間に過ぎて気が付いたら午前1時前だった。今日という快晴のある一日、それ自体が素晴らしいスピードで過ぎていった。誰もが間もなくこの地を離れる。その日に近づくにつれ、毎日が加速する。


6月3日(火)         ディスオリエンテーションその3 〜ジャズ・フェスティバル〜

早朝からT氏・T内氏とゴルフ。たまたま一緒になったボストンから来た学校教師も一緒に4人でラウンドする。

午後からは、車で一時間強の場所にあるバーモント州バーリントン市へ移動。ディスオリエンテーション企画の一貫、「バーリントン・ジャズフェスティバル」に参加するためだ。多くの同級生達は朝貸切バスでバーリントンに向かい、昼から市内のバーで飲んでいるはずだったが、我が家は午前中ゴルフがあったのと子供がいるためにある程度自由のきく状態の方が好ましかったために、車で別途向かうことにした。

ニューヨーク州とバーモント州を隔てる大きな湖(レイク・シャンプレイン)に面したバーリントンは、大きすぎず小さすぎず、田舎町ハノーバーから来たものの目には程好く刺激的な町に思えた。それでいて自然も多く、住みやすそうな町だ。町の中心部には車の立ち入りを禁止した「マーケットプレイス」と呼ばれるこぎれいな通りがあり、その一角で素人ジャズバンドがプレイしている。通りを少し散歩すると、あちこちでTUCK同級生に会う。町じゅうがTUCK生だらけ、という感じだ。

【バーリントン市役所前のステージ。左端のガキがやたらとうまかった】

夜は市内中心部のクラブハウスにてサルサバンドのコンサートを聴く。”アルフレッド・デ・ラフェ”というキューバ出身のおっさんを中心としたバンドだった。我々夫婦は彼のことは聞いたこともなかったのだが、この世界では有名な男らしい。サルサに初めてバイオリンを持ち込んだ男だそうで、今日も電子バイオリン片手に激しく会場を盛り上げていた。最後は娘が「家に帰りたい」と言い始めたので、コンサートが終了する前に会場を出て家路についたが、とても満足できるジャズフェスティバルだった。


6月4日(水)         ディスオリエンテーションその4 〜ノスタルジック・スライドショー〜

同級生T氏とT内氏一家を自宅に招いてのディナー。T氏は留学準備をそろそろはじめようとした頃にMBA友の会で知り合い、その後受験期間を通じて友人付き合いをしていた人物であり、その彼とこうして同じビジネススクールに二年間留学し、一緒に卒業しようとしていることは、よくよく考えてみるととても感慨深いことである。受験期間中は想像だにしていなかったことだ。一方、T内氏はTUCKに来て最初のスタディグループで同じチームに共に割り当てられた人物。海外生活が初めてとなる僕にとって、高校・大学とアメリカで卒業した帰国子女の彼の英語の流暢さはある意味衝撃的だったことを思い出す。一年目の秋は問題児ポーラの存在にともに頭を抱え、その後も一年間にわたってセクション替えの度になぜか同じセクションに配属されることになるなど、何かと縁の深い存在だった。入学当時ブキャナン寮で独身生活を送っていた彼が、現在は美しい奥様と元気な長男に囲まれてパパをしているということもまた、この二年間の時の経過を感じさせて感慨深いことである。

夜8時からTUCK Hall内の教室でディスオリエンテーション企画の一貫、”ノスタルジック・スライドショー”を行うというので、ディナーを一旦中断して学校へ向かう。詰め掛けた同級生達で、教室は立ち見スペースも見つからないほどのぎゅうぎゅう詰め。その中を、この二年間にあった数々のイベントの写真が音楽にのって映し出されていた。写真のボリュームは今ひとつでスライドショーは30分ほどであっさりと終了する。個人的には、自分を含めた同級生達の写真よりも、合間に映し出されたキャンパスの四季折々の美しい写真の方にノスタルジーを誘われた。秋の紅葉に包まれたTUCK、冬の新雪に覆われたTUCKはもう二度と見る機会がないのかもしれない。

帰宅後、再びディナーのつづき。途中嬉しい知らせがあったこともあり、気持ちよく深夜まで酒を飲んだ。


6月5日(木)         ディスオリエンテーション終了 〜ボウリング、エレクトラ〜

早朝よりゴルフ1ラウンド。その後、元隣人I氏の引っ越しのお手伝いをする。ムービングセールで新入生へ譲ることになった家財道具などを、貸し倉庫に移動するために、U−Haulで借りたトラックに二人で荷物を運び込んでいった。

二年前にアメリカへやってきて間もなくの頃、まだオリエンテーションが始まる前に、同じように隣人I氏と一緒に荷物を運んだことを思い出す。その時は生活の立ち上げのために、ウェストレバノンのモール街をまわってベッドや電化製品などを買い込み、今日と同じようにU−Haulで借りたトラックでセイチャムの家に運び込んだのである。その時に一緒に運んだベッド、ベッド台、洗濯機などの品々を、その時はトラックから家に運びこんだそれらの品々を、今度は逆に家からトラックに運び出していく。ひとつ運ぶたびに、「ああ、これをあの時一緒に運んだなあ」と思い出す。まるで昨日の出来事のようなのに、それはもう2年も前のことなのだ。

荷物の運び出しが完了した後は、学校へ出かけて卒業式用のガウンと帽子を購入する。とても薄っぺらい生地で出来た$22の代物。

夜、ディスオリエンテーションの最終日のイベント、"Section Bowl-Off"へ。一年生秋学期の最初の4つのセクション対抗でボウリングを行うというもの。いつものCosmic Bowling同様、暗闇に大音量で音楽が流れる中で記念写真などを撮りつつ、ボウルを投げる。4ゲーム投げて僕は最高160弱、平均130強とそこそこだったのだが、同じレーンのコリン(マイボールを持っている男)には完敗。しかし、そのコリンをも上回って個人ベストスコアを出したのは182をマークした日本人Tさんであった。

ボウリングの後は、そのままウェストレバノンのクラブ”エレクトラ”へ車で移動する。若者で溢れかえるクラブ内で、TUCK同級生の一団で踊りまくった。同級生達と踊っていると、二年間にあった色んなことを思い出す。サラも居る、フランクも居る、フィルが居、T氏、Tさんが居る。このままいつまでも続いて欲しい気がしたディスオリエンテーション最後のイベント”Tuck Night at Electra”は、しかしあっという間に終わってしまった。一週間にわたったディスオリエンテーションも終了し、あとは卒業式を待つばかり。

午前2時前にセイチャムに帰ってきた。タウンハウスの家の前でフィルを下ろす。暗がりで手を振ったフィルがタウンハウスに向かって歩く後ろ姿を見ていて、なぜかとても感傷的な気分に襲われた。


6月6日(金)         卒業式前日の風景

真夏のような晴天に恵まれた一日、明日の卒業式に備えて散髪に行って来た。これがこちらでの最後の散髪となる。これまで二年間のほとんどは、ウェストレバノンのモールにある”JCペニー”内のヘアサロンでカットしていたのだが、ここ2回ほどはハノーバーのメインストリートにある”ビッググリーン・カット”というコテコテの名前の散髪屋を利用している。値段は前者が$20、後者が$13だが、後者もなかなか悪くない。

明日はTUCKのみならず、多くの学部・大学院のそれぞれの卒業式、さらにはハノーバー町立ハノーバー・ハイスクールの卒業式も行われるため、卒業式に備えて散髪に来る学生達で”ビッググリーン・カット”は大賑わいで、髪を切ってくれたおばちゃんは「もう休む暇もないわ」とぼやいていた。「あなたも卒業式?明日はホームタウンから家族は来るの?」と聞かれ、「来ないよ」と答えたところ、心底気の毒そうな顔で、”Oh.....it's too bad...”と言われる。卒業式に家族を呼ばないなんて、いったい何があったのか?という感じか。実際こちらでは卒業式に家族を呼ぶ学生の方が圧倒的に多数派であり、中には一族郎党を呼ぶ学生もいるほどなのだ。

散髪後にハノーバーのメインストリートを抜けてキャンパスの北側にあるハノーバーカントリークラブへ向かおうと思ったのだが、卒業式のためにやって来た卒業生の家族達や、卒業式のタイミングに合わせてリユニオンを行うOB・OG達の姿で町じゅうがごった返しており、いつもなら5分で行ける道を15分もかかってしまった。こんなに多くの人がハノーバーの町を歩いているのを僕は初めて見た。

夕方、同級生達とゴルフ。その後メインストリートの店でしばしビールを飲みながらこの二年間の想い出話に興じた。

明日の卒業式に先立ち、本日ようやく二年生春学期の成績が発表になっていた(随分悠長なタイミングだとは思うが)。ウェブ上で最後の4科目の成績を確認し、無事卒業できる単位数を得ていることを確認する。

ついに明日、卒業式。過去10年間ずっと晴れだったというこの日なのだが、予報はあいにく曇りのち雨。天気だけが心配である。


6月7日(土)         TUCK卒業式 (Investiture)

朝になっても、今日の天気予報は「曇りのち雨、降水確率30%」で変わらず。空はどんよりと曇っている。通常であれば緑の芝生に覆われたTUCKサークルで行われる卒業式であるが、雨が降ると大学の体育館内で行われることになっている。卒業式はやはり色々な想い出の詰まったTUCKサークルで行うべきであり、今日だけは何としても晴天に恵まれて欲しかった。体育館には何の思い入れもないのだ。午前9時過ぎの段階で、MBAオフィスのケーティーから、「TUCKサークルで行うことに決定しました。ゲストには傘を持ってくるように伝えてください」というメールが入り、喜んだのも束の間、昼前には予報の降水確率が40%に上がり、やがて大粒の雨が降り始めた。ケーティーからも昼頃、「難しい決定でしたが、会場を体育館に変更することに決定しました」とのメールがあり、かくてずっとイメージしてきたTUCKサークルでの卒業式は幻と消える。残念だが天気には逆らえない。午後2時過ぎ、ガウンと帽子をかぶって妻・娘と会場へ向かった。

午後3時の式開始と同時に220名の同級生達と一緒に音楽に合わせて会場へ入場。卒業生の家族、下級生達、TUCKの職員達から一斉に祝福の拍手を受け、その中を歩いていくのはやはり何とも言えず晴れがましい気分だ。学長の話などにつづいて、いよいよマスターになったことを示すフード(首にかけるフード状の飾り)を授与される。1名ずつ名前を呼ばれ、壇上に上がり、屈んでフードを首にかけてもらい、ディーンと握手し、そしてステージを下りる。その間、わずか一分ほど。しかしそのわずかな時間の間に、万感が押し寄せてくる一分間だった。いつもは眠そうなディーンも、「おめでとう!」と驚くほど強い力でこちらの右手を握ってきた。TUCKらしく、赤ん坊を腕に抱いたままフードを受ける学生も多かった。中には両腕に子供を小さな子供を抱いて壇上に上がる学生も。

最後は再び会場の人々、及び出口前に並んだ教授陣の祝福を受けながら会場を退出する。卒業式を終えて会場の外へ出ると、既に雨は上がり、アスファルトはもう乾きはじめていた。運の悪いことに卒業式の始まる直前だけに雨が降っていたのだ。

卒業式後はTUCKへ移動してレセプション。入学以来何度もパーティーを行ったコートヤードでビールやワインを飲みながら、皆と話をする。同級生から両親や親族などを紹介してもらったり、今後の予定を話しあったり。中には明日ハノーバーを離れる学生もおり、やはり何とも悲しい気分になるのは避けられないのだが、話をした同級生達は皆ことさらに「別れ」について話題にすることを避けているようであった。

【一年時Leadership Forum Projectチームメイトと】

夜は何人かの同級生と一緒に隣町ノーウィッチにあるホテルのレストランで卒業祝いのディナーをした。今までに出たどの卒業式よりも晴れがましい一日だった。そして何とも言えず感傷的な一日でもあった。


6月8日(日)        ダートマス大学卒業式 (Commencement)

先日授与されたフードを首にかけ、ダートマス大学全体の卒業式に出席する。大学全体の卒業式は天候に関わらずダートマス・グリーンで行われることになっていたのだが、今日は朝から晴れ間も見えており天気の心配をする必要はなさそうだった。妻にグリーンまで送ってもらった後、妻は一旦自宅に帰りローカルTV局での生放送をビデオを撮りながら、卒業式の模様を家で観ることになった。

ダートマスの卒業式はやはりこのハノーバーの町にとっては最大のイベントであるらしく、これまでに見たことがないほど多くの人々がグリーンに集まっていた。卒業後50年リユニオンの卒業生達や今回の卒業生の家族達だけでなく、地元住民もピクニックシートやデッキチェアなどを持って集まってきているようだった。

しかしアングラ学生はともかく、TUCKの卒業生にとってはやはり本番は昨日のフード授与式であり、今日の卒業式はどちらかというとおまけのようなもの。したがってTUCK生の式の参加者は昨日のinvestitureよりもぐっと減って5−6割程度だろうか。

学位授与は数百人のマスター(修士)・ドクター(博士)及び1090人のバチェラー(学士)の一人一人にdiploma(学位記)を手渡す方式で行われる。そのため、ベルトコンベア式に次から次へと捌いていってもどうしても2時間近くかかってしまうのだった。我々MBAはエンジニアリングスクールと共に千数百人の卒業生の先頭を切って学位を受け取った。その後、さまざまな学位の卒業生が学位を受け取っていく。Thayer SchoolのマスターI田さんや、Medical SchoolのドクターS井さんなど、こちらで世話になった方々も皆壇上で学位を受け取っている。

卒業式というのは「威風堂々」などの厳かな曲に合わせて入場し、厳かな雰囲気の中で行われるものだと思っていたのだが、今日の卒業式は実にカラッとした雰囲気の中で行われていた。入場も退場もテンポのいい行進曲に乗って行われ、どこにも湿っぽさの入り込む余地はなかった。

今日もまた会場側で同級生達と記念写真を撮りあい、さらにTUCK Hallに移動してその前で同級生達と記念写真を何枚も撮った。

                     

本日、二年間に及ぶダートマス大学タックスクールでの留学がすべて終了しました。この二年間という日々は、これまでの人生で経験したことがなかったほどに勉強し、そしてまた遊んだ二年間でした。それは、我々家族にとって何ものにも替えがたい貴重な時間だったと思います。この留学をこうして無事終えることができたのは、間違いなく我々を陰に陽に支えてくださった多くの方々の助力と応援のお陰であり、そのことに対しこの場をお借りして心よりの感謝の意を表したいと思います。また、借金を作って私費で留学するという、リスクに溢れ、時に行き当たりバッタリの私の行動に半ば呆れつつも、助力を惜しまず今日のこの日を無事迎えさせてくれた我が妻に最大の感謝を捧げたいと思います。

ありがとうございました。


6月9日(月)          ラーメン、ボウリング、パーティー。。。端境の日々

卒業式が終わり、"Tuck Alumnus(卒業生)"となった最初の一日。同級生Oさんがアジア系の学生達とその家族を招待しての「手作りラーメンと餃子ランチ」を催してくれたので、昼前に家族でお邪魔した。会場となったのは、いつものOさん宅ではなく、現在不在の大家のために”キャット・シッティング”をしている家。芝に覆われた庭にはハンモック、その先には大きな池があるような素晴らしい家だった。

この二年間に何度かご馳走になったOさんの手作りラーメンを味わうのもこれが最後。豚骨でスープを作った本格派ラーメンを堪能させていただいた。テラスに出て青空の下でビールを飲みながら同級生達と話しているのはとても気持ちよい時間なのだ。ビジネススクールを卒業し、ビジネスの世界へ再び復帰するまでの端境にわずかに許された、特別な、緩やかな時間。しかし、今日話した同級生達のうち何人かは仕事がまだ決まっておらず、卒業して同級生達が次々にハノーバーを去っていく中で、不安と焦りを抱えながら当地に残って就職活動を継続することになっている。何とか皆に希望の職が見つかってほしい、とただ強く強く願うばかりだ。

夜は日本人同級生達でWhite River Junctionにあるボウリング場に出かけ、お別れのボウリング大会を行う。3ゲームほど、ボウリング勝負をし、盛り上がる。途中、これから日本へ帰るというSさんが空港への途上に立ち寄ってくれた。昨日帰国した元隣人I氏につづき、今後日本人達も続々日本へ帰国していく予定になっている。

最後は我が家にて残った人々で遅くまでパーティーをした。いつもと同じ楽しいパーティーである。


6月10日(火)         スペイン語の曲

夕方より同級生Mさんとゴルフ。たまたま会った同級生のケビンとジェイソンも一緒にラウンドする。ケビンはこれが人生二回目のゴルフとのことで、グリーン回りから3番アイアンを使おうとするなど、(曰く”だって数字が小さいから飛ばないんだろ?”)なかなかファニーなプレーぶりだった。残念ながら2ホールを残して日没となる。今日一緒にまわった二人もまだ就職の決まっていない組。これからしばらくハノーバーに残る、それがいつまでになるかは分からない、という。

夜、サウルの家に行き、彼の持っているスペイン語の曲のMP3を僕のノートブックにコピーさせてもらう(違法?)。日本に居た時には聞いたこともなかったスペイン語の曲だが、こちらで過ごした二年間の間に実に多くの曲を聞いた。メキシコとの地理的な近さ、ラテンアメリカからの留学生の多さ、などのためか、こちらではスペイン語の曲を耳にする機会は非常に多かった。サウルの家でパーティーをするたびに流れていたそれらの曲を聴くと早くもノスタルジックな気分になってしまう。「日本のパーティーでこの曲を聴くたびにうちの家族のことを思い出してくれよ。サウルに乾杯、クラウディアに乾杯、アリアナに乾杯、ファビアンに乾杯。。。毎回4杯はショットを飲んでくれ」とサウル。

二つのPCが赤外線を通じて曲を受け渡していく間、底抜けに明るいはずのラテンのダンスミュージックを聞きながら、ノスタルジックな気分に浸ってしまう我々なのだった。


6月11日(水)         一足早く去り行く人

昼過ぎからT内氏と二人でゴルフ。オーダーしていたドライバーとアイアンセットがティータイム直前に届いたT内氏はご満悦でクラブを振り回していた。

夜はT内家にてT氏と一緒にディナー。T内家はバーモント側のノーウィッチにある三階建ての素敵な家だ。昨年の卒業生Kさんが住んでいた家を、T内氏が2年生になり寮を出て結婚するのと同時に引き継ぐ形になった。今日、T内家のダイニングで奥様の手作り料理をいただいていると、昨年この同じ家にKさんが住んでいた当時のことなどを思い出してしまう。パーティーのたびに、このダイニングルームに人がひしめき合いながらビールを飲んでいた光景などが昨日のことのように目の前に浮かぶ。あの時にこのリビングにいた人々はもう一ヶ月もすると、誰一人ハノーバーからいなくなるのだ。ハノーバーを離れなければいけないのはとても残念なことではあるのだが、誰もがほぼ時を同じくして去っていくことはある種救いでもある。ハノーバーという大学町だけが持つ大規模な住民の新陳代謝は、年に50%の血を入れ替えるマスターの、25%を入れ替えるバチェラーの大規模な新陳代謝は、別離の印象を何となく運命的なものに変えてくれる。別離はあくまでも不可避なものであり、哀しんだってしようがないんだよと、新陳代謝をする町の風景そのものが、僕の心に入り込む感傷を少しだけ和らげてくれるのだ。

T氏は明日朝7時のダートマスコーチでハノーバーを離れる予定。彼は家にあったアルコール類などをすべてT内家に持ち込んでおり、すべてを今晩中に空けるほどの勢いで飲んでいた。この二年間の間の話はいつまでも尽きず、結局お開きになったのは午前4時近くになってからだった。


6月12日(木)         また去りゆく人

朝7時のT氏のバスを見送りに行くことになっていたのだが、目覚めたら既に午前7時半。T氏はボストンに向かって去ってしまった後だった。この不義理、まことすまん。

昼からエンジニアリングスクールのI田さん、Oさんとゴルフ。今日はI田さんにとってハノーバーで最後のゴルフとなるため、途中途中で記念撮影をしながらラウンドする。

夜はジョン一家のパーティーに誘われていたのだが、娘が発熱してしまったためにそれは辞退。一方、明日引越しのトラックがやって来るI田さん一家が残った日本酒・焼酎を放出する会を開いてくださるというので、妻と娘を家に残して僕だけご相伴に預からせていただいた。焼酎をちびりちびりやりながら、この2年間のこと、今後のことなどを語り合う。本日もI田家を辞したのは既に午前2時過ぎであった。


6月13日(金)         隣家でBBQ

我々の隣のユニットに住んでいた中国人夫妻が先日去って行き、代わりに現在お隣にはメディカルスクールのS井さん夫妻が住んでいる。ハノーバー生活が既に6年にもなんなんとするこの地の生き字引きのS井さんだったのだが、先日の卒業式にて無事バイオのPhD(博士号)を取得され、間もなくこの地を離れることになった。その後は西海岸の某所にて「ポスドク」として研究を継続される予定であるらしい。そのS井さん夫妻がお別れBBQパーティーを開いてくれた。我が家は娘の熱がまだ完全に引かないため、妻と僕のどちらかが娘のそばにいるようにし、入れ替わり立ち代わり参加することになった。

一緒に参加していたのは、メディカルスクール、エンジニアリングスクール、コンピュータサイエンス、の理系な人々。博士が3名、博士課程在籍中が1名、残りの人々も皆マスターという感じの相変わらず高学歴な面々。我々一家が来た時に既にこちらで生活していた人もいれば、最近になってダートマスにやってきた人もいる。彼らと話していてうらやましく思うのは、最終的に学位を取得するまでに5−6年は平気でかかるというPhDをこちらで取ろうとしている人々。コンピュータサイエンスのMさんなどはセイチャム生活既に5年、そして今後もまだ2年ほどは暮らす予定だとか。セイチャム歴2年の僕などはまだ噂でしか聞いたことのない、「クマ」「ムース」をそれぞれ複数回セイチャム内で目撃されているのである(クマはさすがに危険なので、ポリスが拳銃の威嚇射撃をしたそうな。。)。

間もなくハノーバーを離れる我々、I田家、S井家の3家族、そしてこれから「まだどれだけ滞在することになるか分からない」という人々。たまたまハノーバーを舞台として人生の一時期に出会った我々であるが、この縁はおそらく日本に戻ってからもどこかでつづいていくことになるのだろう、と思う。さぞや他生での縁ありしかと思われる我々の話はいつまでも尽きることなく、今日も気が付いたら午前1時をまわっていた。


6月14日(土)         「よそいき」のハノーバー

昼過ぎにエンジニアリングスクールのI田さん一家がダートマスコーチに乗ってハノーバーを離れるというので、一家で見送りに行く。他にも何人かの人々が見送りに来ていたが、我々は出発間際に到着したためにとても慌しいお別れの挨拶となってしまった。もっとも同時期に東京に帰る我々はまたすぐに再会できるのだ。

ハノーバーの町を歩いていると、町を歩く人々の姿がいつもとはすっかり変わってしまっていることに気付く。この町を闊歩していたパーマネントの学生の姿はめっきり減り、代わりに夏季集中のエグゼクティブ教育や語学教育などを受けていると思われる人々や、観光あるいは避暑に来たと思われる人々の姿が増えている。昨年の今ごろは日本でサマーインターンをしていたので、僕にとってはこの”よそいき”のハノーバーの姿を目にするのはこれが初めてのこと。卒業式シーズンの活況のすぐ後にやってくる、このよそいきの姿は、次のクラスを迎えるためのmetamorphosisのようなものなのかもしれない。


6月15日(日)         バルーン・フェスティバル

久しぶりの快晴に恵まれたこの日、バーモント側にあるクイチーという町で年に一回行われる”バルーン・フェスティバル”の最終日を見に親子で出かける。各地から熱気球が多く集まってレースをするというこのイベントなのであるが、我々が行った時には午前11時頃には気球の姿はひとつも見えず。午前6時に既に気球はすべてどこかへ飛び立ってしまっていたのだった。しかし会場には露天や多くのアトラクションが並び、お祭りならではの華やいだ雰囲気がある。キャンピングカーの姿も多く、このフェスティバルの期間中この地で生活している人々も多そうだった。我々一家も列車に乗ったり大滑り台を滑ったりして遊んでいたのだが、中でも楽しかったのはその場で買ってあげた凧あげ。

【バルーンフェスティバル会場で凧揚げをする筆者】

午後からハノーバーカントリーでゴルフ。その後はOさんとMさんを自宅にディナーにご招待する。二人ともこちらで就職するので、再会はしばらく先のことになりそうなのだ。最後に、これがハノーバーで会う最後の機会となるOさんと別れの挨拶をした。


6月16日(月)          カヌー、パーティー

TUCK生が学校に居る間に使用するレッドヤード駐車場の脇には川幅の広いコネチカット・リバーが悠々と流れている。夏の間は深い緑と水の青とのコントラスト、秋は紅葉を水面に映す鏡として、そして冬は分厚い一面の氷、四季それぞれの美しい姿で我々を楽しませてくれた。この川でカヌーやカヤックを一時間$5でレンタルしているというので、家族三人でカヌー遊びに出かけた。カヌーは全長7−8メートルもある立派なもの。このカヌーで川の中心まで漕ぎ出すと聞こえるのはパドルが水を漕ぐ音だけだ。一時間ほどかけて1キロちょっと下流の地点まで往復する。足元が不安定なカヌーに乗せられた娘は、案の定最初は「こわい!おうちにかえる!」と叫んでいたが、最後の方になってようやくカヌー遊びを楽しみ始めてくれたようだった。

【コネチカット・リバーでカヌーを漕ぐ】

夜は、フィル一家、サウル一家、Tさん一家、フランシスコ一家を招いて我が家でバーベキューパーティー。この2年間何度もパーティーをしたこの面々とのパーティーもこれが本当に最後なのだ。今晩も遅くまで飲み、最後は記念写真を撮ってお開きとなる。またこの面子とどこかで会うことはきっとあるだろう。ビジネストリップで東京にやって来たフィルやサウルと会うこともあるかもしれない。しかし、こうして皆が一堂に揃うことは、もうおそらくないだろう。

【パーティーの最後に記念撮影。後々まで懐かしく思い出すであろう面々】


6月17日(火)        田舎での暮らし

TUCK’05として間もなく入学する学生夫妻がハノーバーを家探しのために訪れていたので、その歓迎ランチを当地に残った在校生達で行った。これから2年間に及ぶ素晴らしい留学生活が始まる彼らと話していると、やはり何ともうらやましくなる。それは卒業生に共通した感慨のようで、他の同級生も同様に「いいですねえ。うらやましいです」などと言っている。思えば僕がこれから留学するという際にもアラムナイからそのようなことを言われたのだった。しかし、本当に彼らアラムナイに言われたことの意味が理解できるのは、卒業してハノーバーを離れる今になってからだったりするのが、悲しいところだ。

しかし、今日今回来られた奥様はハノーバーのあまりの田舎ぶりにショックを受けたご様子であった。我々「カントリー派」にとっては、もうため息の出るほどに美しく見える青い芝も青空も星空も、都会での生活を愛する「シティ派」の方にとっては、退屈な、寂しいド田舎の風景以外の何物でもないのだ。これが以前サリーが言っていた、「都会に慣れていて田舎に合わない方はTUCKに来る前によく考えた方がいいです。ハノーバーでの生活はあまりにも東京とは違います。」ということだったのだ。我々は自分がハノーバーを愛するがゆえに、あまりにも普段ビジットに来る人がハノーバーの美しさを褒めてくれるがゆえに、世の中の人々はあまねくここを愛してくれるはずだと思い込んでいるところがあるやもしれない。

一日じゅう、真夏のような良い天気だった。夜は一年生のN夫妻、S氏を招待してのディナー。テキーラ、スコッチなどを少しく飲みすぎてしまったようである。


6月18日(水)        フィンケルシュタイン教授の著作

昨日のパーティーの深酒が残り、終日二日酔の一日。

一年生春学期に”Learning From Mistakes”を履修したフィンケルシュタイン教授の最新の著作、”Why Smart Executives Fail”をアマゾンで購入した。昨年の授業で扱った失敗事例のケースのいくつかが収められているものなのだが、その中のひとつとして我々日本人学生5人で書いた雪印に関するケースが収録されている。日本人だけでスタディグループをつくり、日本の企業に関するケースを書いた、この2年間でも非常に珍しい、それゆえに非常に思い出深い授業でもあった。

プレゼンを終えた後に教授から賛辞を頂戴し、「間もなく出す予定の次の本に載せたい」と言われていたのだが、一年以上たった今になってようやく入手することができた。TUCKでの2年間に勉強した内容のひとつがこうして教授の書籍に載るのは、2年間の勉強の証を世の中に残せたようで、やはり何となく嬉しいものだ。たとえ我々学生の名前は米粒のようなものだとしても。


6月19日(木)        夫婦ゴルフ

同じセイチャムに住むコンピュータサイエンスのMさんご夫妻に娘を朝7時過ぎから預けて、初めて夫婦二人きりでのゴルフをする。出かけたのはバーモント州側に30分ほど車を走らせた場所にある”クラウンポイント・カントリークラブ”。予報は雨だったのだが、ラウンドしはじめて間もなく晴れ間が見え始め、最後は快晴の中でのプレーとなった。二人でプルカートを引きながら、途中記念写真を撮ったり、ティーグラウンドでおにぎりを食べたり、のんびりのんびりと四時間ほどかけてプレーする。綺麗に整備されたゴルフ場で、プレーフィーは二人合わせて$34(TUCK割引後)。このような恵まれた環境で初心者夫婦がのんびりプレーすることなどは日本ではなかなか難しかろう、などと思う。何はともあれ良い思い出になった夫婦ゴルフであった。

午後からはさまざまな人々がムービングセールの荷物を引き取りに我が家にやってくる。’04の人々、’05の人々、TUCK以外の人々。そのたびにごちゃごちゃしていた部屋の中から荷物が減り、部屋の中がすっきりとしていく。それと共に部屋の中の空間と、話し声の残響が増えていく。

深夜までかけて明日日本に向けて搬出する荷物のパッキング作業を行った。


6月20日(金)        荷物搬出

朝から引越し会社の担当者が2名が我が家にやって来て、てきぱきと段ボール箱17箱+クリアケース2箱+ホッケースティック1本をトラックに積み込んでいった。私費留学生としては引越代金の負担もやはり大きな問題であるため、今回の引越しにあたってもパッキングは「おまかせパック」ではなく自分で行い、段ボール箱もできるだけ切り詰める作戦をとることになった。持ち帰りたくても容量の問題でこちらで処分していかねばならないものも多く、家族には迷惑をかけてしまった。娘が「すてないで!」というおもちゃを処分する時の気持ちは何とも言えぬものがある。パパに甲斐性があれば全部まとめてドーンと日本に送ってやれるんだけどなあ、すまんなあ、と思いながら、処分していく。それでも、2年間で勉強したテキストやリーディングなどはそのほとんどを段ボールに詰め込んでしまった私である。その段ボール箱の数、実に7箱。それらをすべて読んだわけだから、やはり2年間の勉強量としては尋常じゃない量であることをパッキングしながら再認識した。

引越し会社がやってきてわずか一時間強ほど後には部屋の中の段ボールはすべて搬出され我々よりも一足先に日本に向けて旅立っていった。

午後からT内家と一緒に打ちっぱなしに行き、さらにセイチャムのフィールドで凧揚げ、フリスビーなどをして遊んだ。今日もハノーバーの空は抜けるような青空、そして30度を優に超える真夏のような陽気。その中をセイチャムの芝生の上で遊ぶのは本当に気持ち良かった。


6月21日(土)        家族ゴルフとパーティー

先日夫婦でゴルフをして、「これであれば娘を連れてきても充分プレーできるのでは」ということになり、今日は娘も含めて家族三人でクラウンポイントにてゴルフをした。快晴の中、今日はカートでラウンドする。果たして娘が大人しくラウンドについてきてくれるだろうか、と心配していたのだが、風を切って走るカートの存在はかなりお気に召したよう。特に林の中を疾走する時は、「これすき!!」とおおはしゃぎだった。

午後からハノーバーのメインストリートの店で日本でお世話になった方々へのお土産をまとめて購入する。これといった名物というものが存在しない当地の土産を何にすべきか、色々と悩んだのだったが、結局ダートマス大学関連グッズを購入することにした。

夜はセイチャムのタウンハウスで開かれたフランシスコの誕生日パーティーに参加。ラテン系をはじめとする残った学生達が多く参加していた。娘がいたので他の参加者よりも少し早めに帰ったのだが、パーティーから帰る時にはさすがに少し感傷的になってしまった。ほとんどの学生とはハノーバーで会うのはこれが最後になるのだ。パーティーを辞す挨拶をした学生達と"I'll never say good-bye."、"Good luck!"、"See you soon in somewhere else!"などと言い合う。

最後にフィルの奥さんのモニカが娘を抱き上げて、"Moe-chaaaan!! We miss you so much!!!"と頬擦り。娘は意味を分ってか分らずか嬉しそうに笑っている。モニカの腕に抱っこされて、"Asereje"を一緒に踊っている娘。この2年間の間にあんなになついていた、あんなに大好きだったモニカやフィルのことさえも、大きくなった娘は覚えていないのだろうか、とそれを見ながら少し悲しく思う。白や黄色や黒い肌の色をした多くのお友達のがいたことも、何もかも忘れてしまうのだろうか。ここで一緒に楽しい時間を過ごした親としては娘に少しでもここで出会った人々のことを覚えていてほしい、と思いながらも、やはりそれを4歳の娘に望むのは無理なことなのだ。娘にとっては、今日と未来がすべて。それが輝かしいものであろうと、悲しいものであろうと、過ぎた過去を忘れられないのは我々大人ばかりなり。


6月22日(日)       出発前日

出発前日というのに、とてもあわただしい一日。朝7時からは、Tさん・T内氏と一緒にクラウンポイントでゴルフ。ハノーバーで最後のゴルフの記念に、と今日も途中で記念撮影をしながらのとてものんびりとしたラウンドだった。昼過ぎに帰宅した僕と入れ違いに妻はT内氏夫人とゴルフに出かけていく。

僕は家に残って、車を売る予定の中国人と商談の詰めをしたり、荷物の処分をしたり。今日の午前中にベッドや洗濯機などの大物もあらかた引き受けてに運ばれていったので、部屋の中がはすっかり生活感のないただの箱になってしまった。

やがてゴルフを終えた妻が帰ってくると、いくつかの荷物の引渡しをしてからTさん宅でのディナーに出かける。ハノーバーで最後のディナーをしんみりした雰囲気でなく、Tさん宅で同級生達とワイワイやりながら過ごせたのはありがたかった。しかし、ここのところの睡眠不足のためか、少しアルコールを摂取しただけであっという間に酔いがまわってしまい、ソファで眠ってしまった。

帰宅後午前三時過ぎまでかかって、コインランドリーでの洗濯や荷物のパッキングなどを行っていた。最後の晩のために隣家S井さんより借りたベッドに眠る段になってもまだ、明日の夜にはもう他の町で自分達が眠っているということがまったく実感として湧いてこなかった。ハノーバーで最後の夜、しんみりした雰囲気はどこにもなく、一日の疲れで泥のように眠る。


6月23日(月)       さよならハノーバー (最後の日乗)

午前7時に目覚める。ハノーバー最終日の今日もやらなければいけないことは目白押しで、感傷に浸っている暇は全くなかった。起きた時には曇り空の下、朝もやに包まれていたハノーバーだったのだが、忙しく働いているうちに空は快晴になり、気温はどんどん上がり、昼過ぎには華氏92度までなっていた。そのうだるような熱気の中、僕は最後に残った大物荷物を4軒の家にデリバリーし、車のディーラーに2度行き(色々と予期せぬトラブルがあり、出発当日になってコンティンジェンシー・プランを発動。結局車をディーラーで叩き売りすることになったのだ)、市役所の担当者と窓口で2度ネゴをし、オートモービルオフィスに1回行った。そうこうしているうちにあっという間に時計の針は午後2時をまわっている。

ハノーバーからボストンに向かうダートマス・コーチは午後3時にハノーバー・インの前を出る予定。しかし、午後2時半には僕はまだディーラーにいた。2年前に僕達が無職だという理由で新車のリースを断られた場所、その代りに日産セントラの中古車を買った場所、その同じテーブルに座っていた。2年前に商談したセールスマンのスティーブが僕の姿を見つけて、「Hi!卒業したのかい?おめでとう!」と言いに来てくれた。「ありがとう。あれから2年がたったなんて信じられないよ」。

無理を言ってT内氏にディーラーまで迎えに来てもらったのは午後2時40分。それから家まで送ってもらい、荷物を積み込んで家の前で待っていてくれたTさん一家の車に飛び乗ったのが午後2時50分。そして、ハノーバー・インの前に車が横付けされたのが午後3時ちょうど。ダートマスコーチのバスは既に出発を待つばかりの状態だった。見送りにきてくれたTさん夫妻、T内氏、Mさんとあまりにも慌しくお別れの挨拶を交わして、運転手に急かされるようにダートマス・コーチに飛び乗った。

朝7時から慌しく駆け回っているうちに出発の時間になってしまい、別れに対する心の準備ができていなかった。残酷なほどにあっさりとダートマス・コーチは停車場を離れる。右手に見える手を振る友人達の姿があっという間に小さくなる。左手に見えるダートマスグリーンが、あっという間に視界から消える。ベーカーライブラリーも、メインストリートも、アラムナイジムも、トンプソンアリーナも、すべてがあっという間にドアの向こうを過ぎていく。ここで過ごした2年間があっという間に僕達にとっての「過去」になっていく。

ああ、本当にバスは出てしまった、と思った。今日ハノーバーを離れるなんて嘘みたいだ、と言っていたのに、それは嘘なんかじゃなかったのだ。バスがカーブを曲がった時、窓の外を眺めていた娘が、「あ、ここおうちに帰るところでしょ」と呟いた。いつもCO−OPで買い物をしてセイチャムに帰る時に通っていた抜け道を、バスは通りすぎるところだった。「そうだね。お買い物をしたあとにみんなでよくここを通って帰ったねえ」と娘に言った瞬間に、「もうここを通ることも本当にないんだ」という思いが熱いものになって胸の奥からこみあげてきた。それは危なく僕の中から溢れ出しそうになった。妻はじっと前を見ていた。

こみ上げてきたものを抑えるために、僕はヘッドフォンをかけ、そしていつの間にか眠っていた。

 

「ダートマス日乗」 了


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